夢に咲く花後編29
(迷うな、やる……しっ)
拳を握った時だった。
前触れもなく、全身を覆う水の温度が急激に上がり始めた。凶鳥の兆しが分散された結果、力が弱まり、背後の炎を抑えきれなかったのだ。
炎は破裂するかのように通路いっぱいに広がり、なおも膨れ上がり孝宏に襲い掛かった。全身を覆う水は肌を焼き始め、白い湯気を立ち昇らせ、そして、それらは、孝宏の決意を溶かすには十分過ぎた。
孝宏は階段から迫りくる何者かなど忘れ、転げる様に前に走り出した。つんのめり転び、床を這う。己が普段火を操るからこそ、捕まったらどうなるかが、リアルに脳裏に思い浮かんだ。
「ひっ」
洩れた悲鳴が小さかったのは、孝宏の最後のプライドだった。歯を食いしばり、炎に呑まれると身構えた。それとほぼ同時だった。
地を張っていた火が意志を持ち、床から剥がれ、孝宏と炎の間に立ちはだかった。火は廊下一杯に広がり壁を作り、炎を押し返し始めた。
孝宏は辛うじて繋がっている火を通して、炎とのはざまが微かに見て取れた。凶鳥の兆しが自分の助けを助ける為、明確に危険を防いでくれているのだ。孝宏は覚えていないが、ソコトラでアベルに襲い掛かった様にだ。孝宏でさえ熱さを感じる程に、輝きを増し膨張していく。
孝宏は足に燃え移った炎を手で叩いて消すと、凶鳥の兆しを見上げ、心底ゾッとした。無意識の内に左胸に手を当て拳を握る。
「タカヒロ!」
廊下中に声が響いた。聞き覚えのある声だ。いつもより低く、まるで咆哮だった。確かに、その人は孝宏が予想した通り、建物内にないはずの人物だった。
「は?え……マリー?」
マリーは苦しそうに肩で息をし、布で口元を覆っている為に表情はわかりにくかったが、己の名を呼ぶ声は、確かに怒気を含んでいる。
「やっぱり嘘じゃない!」
言われた事を理解するのに、孝宏はまず《起こりえない事》を受け入れる必要があった。
(何でマリーが?だって外に出ただろう?)
「は!?な!?」
孝宏が戸惑い、動けずに這いつくばったまま見上げていると、マリーは見下ろしたままギロリと睨み付けた。
「外に出る前に道がなくなったから、変だと思って戻ってきたの」
そんなはずはない、孝宏は首を横に振った。そうやって否定しながらも、不安に心臓がドキドキする。
(じゃあ、どうしてマリーが一人で戻って……)
「嘘だろう?確かに何かが通った感触があった……マリーじゃない?エミンさんだけ?」
マリーの眼光が鋭く光る。
「次あんな嘘を吐いたら承知しないから、覚悟しなさい」
ここまで怒り狂うマリーを、孝宏は初めて見た。
まさに鬼、鬼女という言葉がふさわしい。何がマリーの怒りに火を付けたのか。要因の一端を握るのは間違いなく自分であると、孝宏は考えた。しかし、自分の吐いた嘘がマリーを傷つけたとしても、彼女の身に何か起こったのかなど、想像もつかない。
人間、自分にとって不利な事は考えないものだ。無意識の内にその可能性を排除し、都合の良い風に解釈をする。それが絶望的であればあるほど、その中の希望を探すのだ。
孝宏もまた、マリーが一人でいる意味を、碌に考えなかった。いつまで続くか解らない怒りにただただ萎縮し
(マリーには般若の面がぴったりかも)
般若の面が何を表現しているかなど知らず、そんな事を考える。
「こえぇ、美人が台無し」
孝宏が軽口をたたく。声が僅かに震えている事に気が付いたマリーが、素知らぬふりで、いくらか表情を和らげ
「はんっ、あんたから美人なんて言われる日が来るなんて……今日が命日かしらね」
「それは…………ほんとに笑えねぇ」
マリーは孝宏の腕を肩に回し支え立たせると、階段を下りた。
「ね、あれは何?」
「あれ?あれって?」
「後ろの、火の、壁みたいの」
「ああ、あれは凶鳥の兆しが俺らを守ってくれてんの。襲ってこない様に……」
「…………」
「…………」
「普通の火事じゃないの?いえ、放火だとしても、火は、普通の……」
「多分違う。俺のみたいに、誰かが操ってるんだと思う」
「…………」
「タカヒロが支配できないの?さっきできたって言ってたの……嘘だったのは解ってるけど……でも……」
「全部が嘘じゃないよ。できる限りはやった。けど、結局全部は無理で……ごめん」
「別に……あんたが謝る必要ない」
「でも……」
「でもじゃない、もういいの。もう……」
「いや、そうじゃなくて、いや、そうなんだけど、もう一つ……」
「何?まさか嫌な事?」
「うん。言いづらいけど……俺、ほとんど力尽きてて、凶鳥の兆しも、多分だけど長く抑えるのは難しいと思う。もちろん、下の階の火を自由に操るのも無理かも……」
「は!?それって、一番初めの状況に逆戻りってこと?」
「ていうか、あっちは俺が邪魔したこと解ってるから、今は、もしかしたらなお悪……」
――bom!――
突然階段の上から破裂音が鳴り響いた。同時に火の蝶がはじけ飛ぶ感覚が、孝宏の指先に伝わってくる。
散り散りになる蝶の断片から、炎が急速に膨張するを感じ取り、土気色した孝宏の顔からザァっと血の気が引いた。その瞬間、それまでマリーに支えられていたのが嘘のように、マリーより先に足を進め、引っ張った。火事場の馬鹿力というやつだ。
「壁が壊れた!急げ!」
「は?な!あんた!」
マリーの表情がサッと曇った。すぐさま、跳ねるように、一気に孝宏の前に出ると、自分が辿った道を鮮明に、脳裏に思い浮かべ、エミンに連れられ歩いた道を、孝宏の手を引く進む。
階下に降りると、続く廊下は、小さな火がくすぶっている程度だが、所々燃えている。平常ならこの中を進むのかと怯んだかもしれない。しかし後ろから迫りくる炎を思えば、そんな事を考えている余裕すらなかった。
二人は迷わず火の道を、マリーは三度目の道を進む。
途中孝宏が少しでも遅れると、マリーは表情を歪ませたが、腕を引く手に一層力を入れ、自身の足をやや緩めた。マリーの苛立ちが嫌でも伝わってきて、孝宏は自嘲気味に笑みを浮かべる。
(俺を置いて逃げれば、逃げ切れるかもしれないのに)
少なくとも後ろから迫ってくる炎からは逃げられるし、この高さなら運が良ければ窓から飛び降りても、死なずに外へ出られるだろう。でもマリーはそれを決してしないという確信が孝宏にはあった。
孝宏の心臓がキリリと痛んだ。