夢に咲く花後編26
しかし思った以上に視界が悪かった。頼りはエミンが持っているライトのみ。右手の手すりに掴まったとしても、駆け降りるには勇気がいった。
足先から這い上がってくる恐怖が、注意を逸らし感覚を鈍らせ、さらには自身の中に焦りを募らせていく。
孝宏は次第に早く、早く降りなければと、足を急かしていった。
「わっ」
突然、孝宏が短く声を上げ、手すりにしがみ付いた。そこにあると思った足場がなく、前のめりに倒れ込んたのだ。
何も地面が崩れて、穴が開いていたわけでもない。焦るあまり階段の足場より、大きく踏み出していただけの事。
手すりを掴み損ねていたら、火煙に捲かれる前に死んでいたかもしれない。自覚した途端、心臓がバクバクと音が胸を打つ。孝宏は指先だけで円を描きグッと握った。
すかさずマリーが孝宏に声をかけた。
「大丈夫?」
「あぁ、うん。ちょっと踏み外しただけ」
孝宏は震える足を拳で打った。
本当なら案内はエミンが適役なはずなのだ。
建物の構造を把握している彼ならば、煙に邪魔されようとも、比較的スムーズに降りれるだろう。
しかし一階へ向かう事を納得していないエミンに、案内を頼むのはどうしても不安も残った。
孝宏とて支配する火が上ってくれば、建物の構造の把握は可能だし、そうなれば迷う事もないだろう。ただ問題は、一階と違い、まばらに燃える二階と三階の火をの面積を増やすのは時間がかかるという点だ。
どうするのが正解かわからないまま、孝宏は足を進めた。指先が痙攣した様にピクリと動く。
六階から五階へとたどり着いた時だった。前触れもなく、エミンが持ってきたライトが消えた。非常用であるが故に、長くはもたなかったのだ。さらには、ここまでマリーに手を引かれ、素直についてきたエミンの足が止まる。
「やっぱり上に逃げましょう。このままでは……」
「大丈夫なんです!俺ならできるんです!信じてください!」
エミンの言葉にかぶせて、孝宏はありったけ叫んだ。
自分の能力をどう説明すれば信じてもらえるのかなど、サッパリ分からなかったし、考える余裕も残されていなかった。
エミンの魔術の効果が切れる時間は、刻一刻と近づいているし、孝宏の余力も考えれば猶予はない。
頭の中はそればかりで気持ちが逸り、孝宏は再び暗い中足を踏み出す。
孝宏は唇を噛みしめ、手を広げ拳を握った。助かる為だと己に言い聞かせ、一歩を踏み出すが、孝宏の震える息遣いが、後ろを歩く二人に伝わる。
「私が一階まで先導します……シンドウさん、信じますよ?」
背後から聞こえてくるその声も、また震えていた。
黒煙の中、孝宏の前後からペタンペタンと足音が聞こえてくる。
エミンは一度降り始めた階段を、また戻る様な真似はしなかった。エミンは頻りに孝宏とマリーの名を呼び、返事が返ってこないと足を止め、返ってくるとすぐに降り始めた。
通常であれば、六階から一階まで駆け降りたならば、おそらく五分とかからず、降りられたかもしれない。しかし四階への階段は壁が崩れそれ以上進めず、仕方なしに五階の東階段から降りた。
東側は四階への階段がないので、元の中央階段を目指して、暗い廊下を進む。
通常よりずっと時間がかかっているし、あのまま孝宏が先導していれば、間違いなく迷っていただろう。しかし暗い為だろうか。廊下が嫌に長く感じる。
(なんだってこんなに広いんだよ)
いつの間にか、急いたマリーが孝宏を追い越し、終いには時々エミンにぶつかった。
孝宏は避難中走るのはご法度とばかりに、急ぎつつもしっかり歩いて下りた。幼い頃から身に染みた訓練が、遺憾なく発揮された結果だ。
視界の悪い中進むには至極当然と言えたが、この時ばかりは、もう少し状況を考慮するべきだったかもしれない。
孝宏は手首を捻り、指先で大きく絵を描いた。もう片手で何かを掴む仕草をする。
(ちょっと……やばいかも)
孝宏はずっと火と繋がっていた。エミンがやって来た時も、窓から炎が飛び込んできた時もだ。
あの時から孝宏は、外壁を上り屋上から階下へその手を伸ばしていた炎を食い止める為、ずっと攻防戦を繰り広げていたのだ。マリーたちの知らない所で。
階下の火を制御しつつ、上階から迫りくる炎を防ぐ。孝宏には足元を照らす明かりに裂く余裕すらなかった。
(頭がくらくらする。籠手を着けたままだからだ。これ以上はちょっと、割と、結構、マジで、限界かも)
このままでは建物を出る前に、孝宏が力尽きてしまうだろう。そうなると、一階を突破するのは難しい。だからといって、孝宏が抑えを解いて走ったとしても、上から迫りくるあの異常な炎は、あっという間に自分たちを飲み込むに違いない。そう思わせる勢いが迫る炎にはあった。
(信じてくれたのに……できるって思ったのに……くそっ)
思い通りにいかない状況が、孝宏は歯がゆかった。悔しかった。情けなかった。こんなていたらくで、信じてくださいなどと、どの口が言えたのか。
思いあがっていたのだ。異世界であり得ない力を手に入れて、お礼なんて言われて、自分がすごいモノになった気分になっていたのだ。
掌で汲み上げられる量は変わらないのに、力が増えれば、もっと多くをすくえる気でいたのだ。
ソコトラアベルに言われた言葉が脳裏を過る。
(もう、時間はない……覚悟を決めろ、俺!)
「上から火がすごい勢いで追いかけて来てる!」
煙の中、前の二人が息を呑み、振り返る気配がした。
「走って!」
暗いから、危ないからなど、言っている段階はとっくに過ぎた。
孝宏の叫びに真っ先に反応したのはマリーだった。孝宏が言い終える前に、マリーが速度を速めたのにエミンも気が付き、自身も廊下を駆け始めた。
「こっちです!」
「右に曲がります!」
「こっちです!」
エミンは途切れることなく、何かを叫び続けている。
バラバラと慌ただしくなる足音と、エミンの声が徐々に遠くなっていく。
孝宏は前の二人に付いて行けていない事など、百も承知だった。しかしそれ以上早く走る事も、待ってと声をかける事もできなかった。足を進めるだけで、精いっぱいだった。
頭痛と吐き気に、集中力が途切れないよう太ももを打ち、胸を打ち、手で何かを払う仕草をする。
ここで自分が倒れれば、あの二人までもが逃げられない。
(何が何でも道は作らないと……)
孝宏は決して、自己犠牲のヒーローになるつもりはなかった。
遅くとも足はしっかりと動いているし、孝宏の出せる全速力で降りている。しかし、じりじりと熱くなる背中と、炎に照らされた黒煙が、闇を抱き孝宏を追い詰めていく。
孝宏は手を左胸に当て、素肌に爪を立てた。
(もうダメ……かな)
諦めがジワリと体に広がり、四肢を重くしていく。
死にたくないと思うのに、助かる気がしない。逃げ切るビジョンが全く浮かばないのだ。
指先は常に動いているのに、足が徐々に速度を落とし、息が苦しくて、胸が荒く膨らむ。
そしてついに足が止まり、指先だけが動いている。
(ああ……)
背後から迫りくる炎が、目前の絶望を明るく照らす光景に、孝宏は見入った。指先だけがピクンと小さく跳ねた。