夢に咲く花 104
「蝸牛が出てくる」
孝宏が小さく呟いたたった一言に、ルイとタツマは敏感に反応した。二人は瞬時に術式をより強力な物へと変える。二人の詠唱はずれたままだ。
タツマの足元の魔法陣はより大きく、ルイの足元にも同じものが現れた。空に立ち込める厚い雲が、急激に気温を下げ始めた。
防護服越しでも冷気が伝わってくる。孝宏は歯をカチカチ鳴らし、両腕を抱きしめる形で摩った。
(苦しい、体が重い、寒い、何だこれ)
――バキッ……バキバキバキ……――
――ドォン!ドォン!――
何かが割れる音とぶつかる音がした。
そしてついに、奴は白い煙の中から現れた。
全体的に白っぽく見えたのは、体表面を氷が覆うからだ。
凶鳥の兆しの火によっていくらか崩壊し、多少歪な形になってはいるが、化物は動いた。
結界を押し破り、先ほどまで静かにしていたのが嘘のようだ。決して俊敏な動きではなかったが、結界の外へ出ようとしている。
蝸牛の割れたままの頭の中に、真っ赤な溶岩が煮えたぎっているのが、孝宏のいる場所からでも良く見えた。
頭を前へ前へ伸ばしそのたび表面が割れ、溶岩と共に塊が噴き出すが、蝸牛がそれに構う様子はない。
蝸牛が頭を大きく円を描くように振り回し、いくつも、何度も、止むのを忘れたかの様に、遠心力を利用し塊を飛ばす。
いくつもの塊が四方八方に飛び散る。町へ、山へ。
その一つが近くまで来ていた、カノ国の旗を掲げた飛行船の羽をへし折った。バラバラに散っていく破片とバランスを崩した鳥が、元の姿へと戻りながら落ちていく。ずんぐりとした本体にまっすぐ伸びる二枚の翼。孝宏がよく知る飛行機によく似た機体が、地面に落ち砕けた。
当然塊は飛行場へも降り注がれようとしている。
あれが落ちたら防護服を着ている者たちは無事に済むだろうが、避難して来ている住人は、その彼らの相手をしているはずのマリーたちは、一体どうなるのか。
一瞬、脳裏を過った光景に、孝宏は血の気がザッと引いた。
「やべ、行け!」
とっさの時は呪文が出ない。
蝶が孝宏の周囲に現れながら、空高く上昇し、それにつれ色落としやがて白く輝く。瞬く間に何百羽にも分裂し膨れ上がった蝶が、扇形に広がり滑空し、いくつも塊を飲み込んだ。
一匹たりとも逃すものかと、孝宏は尚も塊の行方を追った。常に意識を塊に向ける孝宏は、瞬き一つなく瞳すら揺らがない。
蝶が燃え上がるのと反対に冷えていく自身の体温。蝶が包む白く発光する塊が、地面に衝突した時には、孝宏は全身が震えていた。
体が重い、寒くて歯がガチガチいっている。それでも孝宏は蝶を操る手を止めようとはしなかった。どこまでやれるのか孝宏には想像もつかないが、出し惜しみしている時ではないと強く感じていた。
孝宏は震える手で、防護服越しに両腕の籠手を摩った。
(久しぶりにこれが鬱陶しい)
――ズ……ズズ……――
蝸牛が動いた。同時に蝸牛を囲っていた結界が砕け散る。六眼を持たぬ者には、白い霧が霧散するように見えただろう。
蝸牛のギラついた熱は最早どこにもないが、山のような身を動かすだけで地面が揺れ、表面に張り付いた薄い氷がパラパラと剥がれ落ちていく。
こんなになってもまだ、余力があるのか、誰かが叫んだ。塊をまき散らし尚足りないのかと、逃げ惑う人々が憎々し気に吐き捨てる。
しかし蝸牛の反撃もここまでだった。
空気が薄く息苦しくなり、辺りが一段と冷えたと同時だった。分厚い氷が音もなくが構築され蝸牛を拘束していく。
蝸牛も最後まで足掻いたが抵抗むなしく、最後は頭を開いたまま、その悍ましさを十分に見せつけるように、氷に閉じ込められてしまった。
終わりは一瞬だった。少なくとも孝宏にはそう見えたのだ。
ルイが地面に仰向けに倒れ込だ。息をたっぷり吸い込むと、ルイには珍しく、吠えるように息を吐き出した。