夢に咲く花 85
魔術で孝宏を受け止めたのはマリーだった。孝宏の無事を確認し、胸をなで下ろしたのもつかの間、マリーはハッとして上を見上げた。当然だ。カウルはまだぶら下がっている。
ルイ達はなおも上昇を続けていた。二人とも肉眼では小さくなりつつある。あまりの高さに最悪の結末が脳裏を過り、マリーは再び魔術を紡ぎ始めた。
しかし、いくらマリーが魔術を使えるといっても、魔術に触れて二ヶ月も経っておらず――これだけの期間で魔術を当然のように操るのも十分凄いのだが――ルイのような高速で魔術を紡ぐなどという芸当は難しかった。
「ああ!」
魔術が完成する前に、カウルが手を放し、マリーが声をあげた。
一見すると、人が落ちて生きていられる高さではなく、マリーは魔術を紡ぐのも忘れ、息を呑んだ。
しかし、もう駄目かと思われたその時、カウルは獣姿へと変態し、同時に器用にも体を反転させ短く吠えると、そのまま空中にはあるはずのない、見えない足場を踏み台にし大きく飛んだのだ。大きな獣のカウルは、人型の時とは違い、身体能力も大きく伸びている。カウルはそのまま飛行船の縁に足をかけ、楽々と甲板に上がった。
「は?何だ今の……」
常人には見えないはずの足場、孝宏にはしっかり見えていた。カウルが手を放す直前に現れ、踏み切ったとたん割れて粉々に散っていった。つまるところ、カウルは力尽き落ちたのではなく、自ら手を離したのだ。魔術で足場を作り、獣に変態して。
「って、カウルも魔法……使えたのか……」
孝宏の脳裏に思い出されるのは、ルイがこっそり直していた花の腕輪だ。あの一件で孝宏の中のカウルのイメージは魔術は使えない男として固まっていた。残念な事に、それを知らないはずのマリーも同様だ。二人はポカンと、同じ顔で口を開いたまま上を見上げいる。
「そうみたい……なんだ私……てっきり……」
マリーは腰を抜かして、地面にへたりこんだ。
孝宏が傍に駆け寄り手を差し出しが、マリーは首を横に振った。立てないと言いたいのか、または孝宏の手は不要と言いたいのか。孝宏はその意味を測りかねる。
見れば、マリーの目には涙が潤み、噛んだ唇が細かに震える。孝宏の声は聞こえているようだが、視線の先は飛行船の上の方、白鳥の背中へ注がれていた。
(まあ仕方ないよな。確かにあれには、俺もビビった)
孝宏には、マリーの気持ちがわかる気もした。しかし、いつまでも外にいるわけにもいかなかった。それというのも、マリーはまるで聞こえていないようだが、先程から飛行船の窓から身を乗り出す様にして、兵士が戻るよう声を張り上げている。今さらどうしたところで、彼らの怒りが収まるとは思えなかったが、それでも、彼らに連れ戻される前に自ら戻った方が懸命に思えた。
(あ……ケツからも二人出てきた)
当然だが、兵士たちは怒りの表情だ。船に戻った後の事を考え、孝宏は深いため息を吐いた。
「ヤバいぞ、早く船に……」
――ドドドォォォォォォォォ…………――
船に戻ろう、孝宏がそう言いかけた時、突然大きな音がなった。
耳の奥まで響くような、非常に大きな爆発音が周辺一帯包み込み、人々から思考能力を奪った。そして、それは地獄への開門を知らせる銅鑼の音でもあった。
音源がどこかなど考える必要はない。孝宏は反射的に遠くの、数分前までは山だった怪物、巨大な蝸牛を見上げた。
蝸牛は高々と頭を持ち上げているが、二本生えている目の間がバックリ四つに割れ、最早頭とは言い難い。蝸牛が頭を向ける先に、塊がマグマを纏い放物線を描き飛んでいくのを、視界の端に捉える。頭の割れた口から溢れ出た、蝸牛の表面を伝うマグマがボタリボタリと地上に降り注ぎ、そこから広がった炎が建物を襲い飲み込んでいく様子が、遠くからでも見て取れた。
これは天災か災害か。予想もしなかった化け物の出現と噴火に怯える人々を助けたのは、巡礼のために訪れていた多くの魔術師たちだった。
観光客の少ないこの時期だからこそ、露店や宿、崩れ落ちた山にだって巡礼中の魔術師はいた。彼らがいち早く異変を察知し、周囲の人々を保護し避難したおかげで、幸いにも山周辺の被害者は少なく済んだが、山より離れた町ではそうはいかなかった。
巨大蝸牛が天に向かって吐き出した塊は、やや細長く大きいもので一メートル以上もあり、地面に叩きつけられる度に弾けて粉々になった。運悪く塊の直撃を受けた者は潰され、周辺の者たちはマグマによって起こった火事に巻かれ、あるいは逃げ惑う人々に踏みつぶされ、この時点で多くの人の命が失われたのだ。
ちょうどその頃、煌びやかな鳥、マルコォイドリの飛行船に乗っていたヘルメルは神経質な様子でコオユイに尋ねた。
「避難は済んだんだな?本当に人は乗っていないのだな?」
ヘルメルがコノ国に来る時に乗っていた飛行船、白鳥二号は現在乗組員の船外避難が済んだところだった。これからアノ国に逃げ戻るために飛行船で飛び立つのだが、それにヘルメルが口をはさんだのだ。
一番初めに飛び立つ船は全乗組員を下ろし、囮として飛ばすようにと。
コオユイも初めは、カノ国に残り救援という形で巨大な化け物と戦う事を考えたが、その提案はカノ国に拒絶されたばかりかヘルメルも頷かなかった。
現状見る限り、あの巨大な化け物が塊を噴射するのに規則性は見られず、一回吐き出すごとに幾らか時間がある。その間に飛行船を盾として伴い逃げるのでも良いのではないか。隙をつけば飛行船を失わずに済むし、最悪塊が飛んできても、飛行船を盾にすれば、溶岩などに晒されずに済むだろう。
さらに補足するなら、これまでの正体不明の化け物たちはいずれも魔術を打ち消すことに長けていた。魔術が使えなくなる可能性は大いにあるのだ。コオユイは魔術が使えない空域で、無防備で飛ぶ方が恐ろしく感じた。
しかしコオユイがいくら物理的な盾が欲しいと進言しても、ヘルメルは頑として聞き入れなかった。そのため作戦はヘルメルの言う通り決定し、すでに準備は整っている。
それだというのにヘルメルがしつこく確認するのはどういうわけだろうか。
ヘルメルが未来を見た時のみ作戦に口をはさんでくるのは、身近な人間ならば周知の事実だ。ヘルメルが予知をするのは珍しくなく、幼少期より未来を予知し的中率は八割を切らない。予知を当てに作戦を組んで、例え予知外れたとしても、ヘルメル自らが外れると進言してくるので、結果、最悪の事態に陥った試しがなかった。
それ故だ。へルメルの助言を聞いているのだから大丈夫だと思う反面、ヘルメルの態度や口調に緊張感が滲みれ出れば出るほど、コオユイの中に不安が増していった。
周囲の反対を押し切ってこの作戦を選んだのだから、失敗は許されない。コオユイは奥歯をぐっとかみしめた。