夢に咲く花 71
「人精は自分の能力以上のものは作り出せないけど、扱いはずっと簡単だ。確かに人精を生み出せるなら、そっちの方が楽だろう。なにせ、精霊の召喚には代償が伴うのだからね」
毎回血を提供しないといけないあたり、ナツトは本当に面倒だと思っていた。そのくせ一回あたりの活動時間は非常に短く、血の量にも際限があるとなれば、精霊使いが少ないのはそのせいではないかと、最近は考えを改めつつある。
「じゃあ、あの時口から血が出ていたのは召喚の為に?」
孝宏はかなりの血が出ていたのを思い出し、血の気が引いた。自分で噛み切ったのだろうが、どこをと想像しただけでゾッとする。
「ああ、自分で噛み切った。でも怖いのは初めだけさ」
ナツトの顔はとても痛みと恐怖を語る表情ではない。
ニヤけそうになるを堪える口元に、笑む目。何がナツトの感情を高ぶらせているのか、孝宏には見当もつかない。
孝宏よりナツトの方が背が高い。必然的に孝宏は上目遣いでナツトを見上げている。
「慣れても痛いですよ。あの時の傷はもう大丈夫なんですか?」
傷は直ぐに魔術で塞ぐし、噛み切る瞬間も麻痺の魔術を使うので痛くもない。
そのような心配は魔術に不慣れな者にするもので、熟練者には侮辱になりかねない。
正直なところ孝宏の心配は的外れも良いところだ。
例えば、ナキイが同じように言ったなら、ナツトは寝ぼけているのかと、辛辣な答えを返しただろう。
だがそれも孝宏に言われるのでは、ナツトにとって真反対の意味を持つ。
誰もが上から降ってくる巨大蜘蛛に気を取られる中、唯一、壁の異変に気が付いた孝宏を、ナツトは冷静に役目をこなしたとして高く評価していた。将来有望とさえ思っている。
有望株の孝宏が、そんなことも知らずに、ただ純粋に自分の心配をしてくれる。そのギャップがナツトにはたまらなく愛おしく思えた。
「ああ……」
ナツトは溜息を洩らし、うっとりと孝宏を見つめた。
「な、何ですか?」
あからさまに雰囲気を変えたナツトに、孝宏は思わず声が上ずり、ナキイは呆れ顔で眺めている。
「優しいんだね。傷はもう塞がってるから大丈夫。というか噛み切ってすぐに塞いだから問題ないよ」
正しい知識を教えてあげるのも先達者としての役目だ。ナツトは精霊に興味を持っているであろう孝宏に口の中を噛み切る際の方法を説明した。
「あ、魔法で……そっか、そうですよね!」
(地球とは違うんだよな、ここ。すっかり忘れてた)
孝宏は自分の的外れな気遣いに気が付き、照れ隠しについ声も大きくなる。ほんのり耳も赤く染まる。
突然、ナツトが孝宏を抱きしめた。
「は!?」
孝宏でなく、ナキイが驚き声を上げた。
当然孝宏も驚いたが、驚き過ぎて声も出せずナツトの腕の中で固まっている。
ナツトは孝宏より背が高く、女性といえども兵士だ。
胸に埋もれる顔面の、両サイドに感じる柔らかな感触と、それに反するかのようながっちりとして離さない腕。
孝宏は逃げようとするが、硬直した体がうまく動かせない。抵抗らしい抵抗もできず、顔は見る間に赤く染まっていった。
(胸が、いやいやでも胸が離れないでも胸がってそうじゃなくてだ、抱き、しめってむ、胸が、何で、え?何でえ?え?)
孝宏には感触を堪能する度胸も、状況を楽しむ余裕もなく、嵐のような感情をどう処理してよいかわからなかった。
口を僅かにでも動かせば、肉体の生々しい触感が唇に伝わり、唇を噛み呼吸も止めた。
(ど、どこ……どこを掴めば……く、苦し……)
孝宏は手をパタパタさせた。
ナキイが大きなため息を吐いた。
「さすがにそれは嫌がらせ以外の何物でもないぞ。やめろ、離してやれ」
「あぁ、すまない」
強引に抱きしめておいて、意外にもナツトはあっさり孝宏を離した。
ようやく開放された孝宏はよろめきながら、ナツトから距離を取りうずくまった。
ナキイがポンポンと慰めるように肩に軽く触れた。
「胸がないから僻んでいるのか?」
ナツトはニヤリと笑ったのに対し、ナキイは鼻で笑った。
「今の時代に、豊満な胸が女性の専売特許だという認識を持っている奴がいるとは驚いた」
「ふうん、そうか?そんな風に言っても本当は羨ましいんだろう?無関心を装っても声とは存外正直だな」
「何だ、もしかして遠回しに俺を誘っていたのか?確かに俺は味わう方が好きだが……あいにく許嫁がいるんだ。すまんな」
「違うぞ、何で私がフられたみたいになってるんだ」
そんな二人のやり取りと聞きながら孝宏が、許嫁という単語に反応した時、再びドアが開いた。
カダンだった。
「え?カダン?どうしてここに?」
驚いて孝宏は立ち上がった。カダンは孝宏を含めた三人と、他には誰もいない甲板を見渡し眉を潜めた。
「どうしてはこっちのセリフだよ。部屋に戻ってこないっていうから探してたのに、こんなところで何をしてんの?」
こんなところにとは、何も場所を指しているとは限らない。カダンの視線は孝宏でなくしっかりとナキイとナツトの二人を捉えている。
孝宏はカダンの不穏な雰囲気に困惑しつつも、努めて明るく振舞った。
「何って話してるだけじゃん。確かにちょっと寒いけど……」
(いや、かなりか)
「大体カダンこそ、マリーの奴に付き合ってたんじゃ……」
孝宏が記憶している予定では昼もヘルメルと一緒に取る予定だったはずだ。
「それは部屋で話すよ」
「あ、ああ、うん。わかった」
カダンはナキイとナツト、二人から庇うようにして孝宏を部屋に連れて部屋に戻った。
予定よりヘルメルとの会談が早く終わったのは、決して触れないという、ヘルメル自身の誓いを彼が破ったからだった。
ヘルメルはマリーの隣に座り、マリーの手を包み込むようにそっと握ったのを、カダンは決して許さなかった。
それくらい大丈夫だろうと言うヘルメルに対し、約束だからとカダンはマリーを引っ張って帰ってきたのだ。
会話の内容も大したことはない。
村での活躍を見ていたヘルメルがマリーを褒めちぎっていただけ。もしかすると、あの後に重要な話が合ったのかもしれないが、カダンにはどうでもよいことだった。
当のマリーが気にしていないので本当は続行しても良かったのだが、長く話してボロが出るよりも、多少印象悪くとも帰ってしまう方がカダンには都合よかったのだ。
カダンの話を聞いて、孝宏はヘルメルを不憫に思った。
権力を行使し交換条件まで出したというのに結果がこれでは彼が哀れだ。また、小心者であるが故に、王子様に楯突いたカダンの身が心配にもなる。
「あの人が権力を盾に無理を通す人なら、初めから交換条件なんて出してこないよ。嘘を言っている感じはしなかったし、心配ないって」
カダンがそういうなら大丈夫だと双子は頷くのだから、毎度のことながら、双子のカダンに対する信頼度は感心させられる。
(年下でもやっぱり身内だからか?よっぽど信頼してんだな)
いよいよ明日はカノ国に出立する日だ。
孝宏たちは、いつも通り退屈な時間を部屋の中で過ごし、早めに床に臥せたのだが、興奮して眠れない双子を、カダンは暗示をかけて強制的に眠らせたのだっだ。