夢に咲く花 50
夜も更けた。時間はとうに深夜を過ぎ、朝早い人であれば起き出す人もいるかもしれないが、まだ闇が支配する時分だ。
普段ならば街灯が暗い夜道を照らし、歓楽街や商業地区の一部では明け方まで営業する店もあるが、それ以外は静かなものだ。しかし、今は街灯も店内に明かりの灯る店もないが、町のあちらこちらから不穏な物音が聞こえてくる。
孝宏たちがいる病院から一キロ程離れた商業地区の大通りで、幾人かの兵士が一匹の巨大蜘蛛を取り囲んでいた。
巨大蜘蛛は体中に巻き付けられた三本のロープで動きを封じられ、それでもむき出しになった地面に足を差し込んで必死の抵抗を見せている。
一人、きらびやかな石で飾られた剣を握りしめ、切っ先を巨大蜘蛛に向けている者がいた。マリーだ。他の兵士と同じく、上から下まで藍鉄色の防具で身を固め、顔だけが唯一透明の板で覆われる。
周囲に動ける巨大蜘蛛なく、これが最後の一匹だ。事切れた死骸が点々と通りに散らばるその通りは、石畳はめくれ乱れ、地面がむき出しに覗かせている。
「これで終わり!」
防具に施された魔術加工の効果で初めこそ軽やかに感じられたが、毒毛を浴び過ぎたためか術が傷つき、本来の重さもあって動きは鈍い。彼女はこのわずかな時間で習得した足取りで、めくれた石畳をかわしながら駆け寄って、巨大蜘蛛の眉間に突き刺した。
――kiiiyaaaaiiigiigyaaaa――
致命傷を受けた巨大蜘蛛の叫びとも言うべき鳴き声は悲痛でおぞましく、ロープを引く兵士たちも一瞬眉をひそめる。
さらにもう一振りするべく、引き抜いた剣を振り上げ、とどめを刺そうかとしたまさにその時、後方から鳴き声が聞こえてきた。
声の主は死んだと思われていた、別の巨大蜘蛛だった。足は折れ、背中をまっすぐ縦に切り裂かれ、頭は持ち上がらず胴にかろうじでぶら下がっているだけの蜘蛛は、とても動ける様には見えない。それなのに仲間の助けを求める声に反応し、自身も刃を受けズタボロになった姿で立ち上がったのだ。
「まさか動くのか!」
一人後方に待機していた兵士が向かってくる巨大蜘蛛に向かって盾を構えた。
ひびが入り、左下がかけている盾でどれだけ防げるか分からない。少なくとも兵士の表情には決死の覚悟が滲み出ている。
「壁を!」
兵士と巨大蜘蛛がぶつかる前に、間に分厚い土の壁がせり上がった。歪ながらも半円を描き巨大蜘蛛との間に立ちふさがる。兵士が立ち尽くす魔術師を見やるが、彼女も首を横に振った。
背後から突然聞こえてきたの声にマリーは一瞬気を取られそうになったが、間を入れず目の前の巨大蜘蛛の頭と胴体を分断した。さらに胴を六等分、頭を十三等分する。最後に細切れになった頭ごと地面に剣を突き立てると、ようやく剣から手を離した。
「お、お見事です」
兵士は必要以上に細切れになった元蜘蛛を見て口元を抑えた。
細切れになったことにより、内臓やら骨やらが傷口からこぼれ、覗かせ、元より恐ろしい容貌におぞましさを増していた。
――タタタッタタタッタタタ……――
駆ける足音が近づいて来る。マリーが振り返ると屋根伝いに赤い獣が、こちらに向かって走って来ていた。
屋根の上から壁の前に飛び降り、赤い獣は足が地面に着く瞬間人へと姿を変えた。彼の拳の中から薙刀が表れる。
「崩れろ」
壁がボロボロと崩れ落ちるのと同時に、彼は握る薙刀を壁に突き刺した。ぐりぐりと捻じり押し込む。
壁がすっかり崩れ落ち、巨大蜘蛛の姿が露わになると、薙刀は巨大蜘蛛の胴に深く突き刺さっていた。四肢をビクつかせ鳴き声すら上げられない。刃をそのまま思いっきり地面に叩きつけると、頭から胴の中ほどまで切り裂かれた巨大蜘蛛は、今度こそ崩れ落ち二度と動かなくなった。
彼は頭を覆うヘルメットこそ取っていたが、他は同じ藍鉄色の胸に防具。赤く短い髪にこの一週間でうっすらと焼けた肌。薙刀を握る逞しい拳。玄人の雰囲気を醸し出し、顔はもちろん防具にも傷一つない。
マリーは彼の名前を呟いた。
「カウル?」
薙刀はカウルのものよりも細く、刃に竜の彫り物はない。肌が焼けたと言ってもカウルと比べれば肌が白く、顔つきも若干ではあるが、垂れ目気味だろう。
彼は疲れが色濃く出る崩れた顔を、さらに歪ませた。
「僕のどこがカウルに似てるっていうのさ。ちゃんと見れば間違えようがないじゃないか。よりよってカウルと間違えるなんて、仮にも恋人の見分けがつかないとか終わってるね」
ルイは息を吐き切るまで一気に言うと意地悪く笑い、手に持っていた薙刀を蜘蛛に突き立てた。マリーは頭を垂れ、力なく肩が下がる。
「確かにタカヒロに付き添ってるもんね。ここにいるわけないか。ゴメン」
声にハリがないのは疲労だけが原因ではない。透明のマスク越しだ、マリーが項垂れているが良く分かる。
ルイにとってはカウルと間違えられるのは随分と久しく髪を伸ばし始めてからはほぼない。久しぶり過ぎてルイもさほど腹は立たなかったが、嫌味の一つくらい許されるだろうと軽く考えていた。しかしこうもあからさまにがっかりされると逆に申し訳なくなる。カウルとマリーは恋人同士だが知り合ってからの月日は短く、はっきり見分けるにはまだ時間が必要だった。
ルイは慰めようか少し考え、止めた。剣を振るっていた時の覇気はすっかり消え失せ、うなたれるマリーを横目に、服にこもる熱を少しでも逃がそうと胸当ての下に着こむハイネックの襟を引っ張った。防具の下は汗と熱気が籠り、立って話をしているだけの今もそれだけで体力が奪われていく。
「そのカウルだけど、無事に着いたってさ。僕らも一度戻らないと。とてもじゃないけど、こんな暑いのいつまでも着てられないよ」
一瞬にしてマリーの瞳が輝いた。
ルイにとっては不本意だが、目の前にいるのはカウルと非常によく似た双子の兄弟だと言うのに、彼女とって替わりにはなりえないらしい。ルイは大きくため息を吐いたが、その表情は笑みを湛えどこかすっきりしている。
「本当?じゃあ、タカヒロも無事に目を覚ましたんだ、良かった。そう言えばカダンは?」
「さあ、でも大丈夫じゃないかな……カダンだし」
「それで良いの?心配にならない?」
「怪我したって連絡ないし、それにカダンは………ああ見えて優秀だから」
「それはそうだけ………そうね。とりあえず空港に戻りましょう」
ここで言い合いをしている暇はない。マリーは言いかけた台詞を飲み込んだ。二人はそれぞれ武器をしまい、周囲を警戒する兵士に誘導され空港へ戻った。