夢に咲く花 32
「早く手当てをしないといけない。この通りの先、そこの角に小さいが病院があるはずだ。とりあえずそこに行こう」
そう言うとナキイは自身の服を脱ぎ始めた。小さめのサイズが災いして、うまく脱げずにもたついているのを、無理やり取ってしまったのもだから服が裂けてしまった。しかしナキイがそれに構う様子はない。
服を脱いだ下に肌着を身に着けておらず、露わになった素肌は筋肉が隆起し、かすかに湯気が立つ。両腕を深緑の双籠手が覆うのみで、腕の部分は鉄の輪が細かに連なって装飾されており、胸の前で合わさり留めている部分に鮮やかな赤い花の彫刻が揺れる。
割れた腹筋の上を汗が流れ落ちた。止めどなく溢れ出す汗が双籠手の布地に染み込み暗く染まっている。
おびただしい程の汗に塗れながらも、ナキイは平然とした表情でルイを見下ろした。
彼はまず初めに脱いだ服をわきに置くと、脱がしたルイのマントの裏側を下にして広げ、その上にターバンと包帯、ナキイの服を置き、毒が付いていると思われる部分がすべて隠れるようすべて丁寧に包んだ。マントで包んでも大して意味はないだろうと分かっていても、ナキイは気持ち的な部分でそうせざる得なかった。
ナキイはマントの包みとルイのショルダーバックを孝宏に手渡した。
「これは君が持っていてくれ。俺は彼を背負う。急ごう」
ナキイはルイの腕を自身の左肩に回し、上手い具合にルイを背中に乗せると、右手で太ももを抱え、左肩に回したルイの腕を同じ右手で掴んだ。まるでルイを首に巻くかのように、ナキイは軽々と肩に乗せる。
触れられるのを嫌がるものの、ルイの抵抗力が明らかに落ちている為もあるだろうが、ナキイの手際は非常に良く手慣れていた。やはり彼も兵士なのだろうと、孝宏は一人納得した。普段から訓練を受けていなければ、こうも素早く行動はできない。だとすればこの場にナキイがいたことは幸運だった。これが孝宏だけではどうすることもできず、ただ助けを待つばかりになっていたかもしれない。いや、それ以前にルイともども巨大蜘蛛に殺されていただろう。
「さあ急ごう」
ナキイがルイを背負って歩き出したのに、孝宏も黙って付いて歩いた。バッグは肩にかけたが、服とマントは結び目をそっと持つ。
人の気配が消えた通りに巨大蜘蛛の鳴き声が響く。簡単に起き上がれないだろうと思っていても、無防備な背中に寒気が走る。
何と言っても異世界の化け物だ。魔術を使ってくるかもしれないし、関節を奇妙に動かし起き上がるかもしれない。あれは道理の解らない化け物だ。
考え始めればとめどなく湧いてくる想像に、孝宏は恐る恐る後ろを振り向いた。巨大蜘蛛は今だひっくり返ったままもがいているが、その時巨大蜘蛛が頭をグルンと捻り、無数の赤い目がこちらを捕らえた様な気がして、孝宏は身を強張らせた。ほんの一瞬こちらを向いただけだが、蜘蛛の赤い目が殺気に満ちているように思えたのだ。
前を向き直すとすでにナキイの背中が小さく、次第に遠ざかっていく。ルイはカウルに比べて華奢だが、背は同程度で周りの者と比べても高い方だ。そんなルイを抱きかかえているのに、ナキイは速度は速かった。決して走っていない。歩いているのだが、孝宏との距離が開いていくばかりだ。
孝宏は足を大きく踏み出した。速度を速めてナキイに追いつこうとした。本当なら走ってでも追いついた方が、良いかもしれないとも思った。だが次第に足幅は小さく、速度も落ちていく。息が上がる。
(足がビリビリする。何でだろう、気持ち悪い)
足で地面を踏みしめる度、痛みが電気のように走った。
――ドクン……ドクン…… ――
動悸が早くなる。
巨大蜘蛛の毛が飛び散ったのを確かに見た。周囲の人々は間違いなく毛を浴びただろうし、それは自分も例外ではない。
――ドクン…… ―—
魔術師たるもの常に冷静であれ。
魔術を覚えるとなった時、ルイが初めに教えてくれた言葉だ。魔術を使う上で一番重要であると言い、ルイ自身それを意識して行動していた。普段の彼からは想像もできないほど乱れもがく様は、見ているだけで恐怖を覚え戦慄した。いずれは自分も同じようになるのだろう。考えたくなくとも予感は確証として脳裏に焼き付いてしまった。
「このまま、し……」
口をついて出そうになったのを、孝宏は慌てて噤んだ。口に出してしまえば、それが今すぐにでも迫ってきそうで怖かった。震えてカチカチと歯を鳴らす口を両手で抑え、遠ざかる背中をしっかりと見据え足を進めた。
「魔法でパパッと治ったりしないのかよ。異世界だろうが」
これがゲームならば、僧侶の魔法で簡単に治るか、特別な薬草が必要になるイベントが発生していることだろう。
孝宏は左手の親指の付け根を噛んだ。視線はやや下、ナキイの足元に向けられ、颯爽と歩くナキイの足が時折振れるたび、歯をぐっと食い込ませた。
――kiiiikiiiikiiii――
巨大蜘蛛のおぞましい鳴き声が全身を撫でまわし、孝宏は再び後ろを振り返ったが、やはりひっくり返ったままの巨大蜘蛛がいる。そのままでいてくれと、現実は何て残酷なのだろうと、孝宏が心の中で思った時だった。肩から斜めに掛けていたルイのカバンの中で、何かが動き重みを増した気がした。
「ひっ!」
孝宏は小さく悲鳴を上げ、慌てて包みと鞄を後ろに放りなげた。離れた位置からしげしげと鞄と巨大蜘蛛を交互に眺めた。巨大蜘蛛に先程と変わった様子はなく、もがいているだけに見える。石畳の上に放り投げられた鞄も、中で何かが動く気配はない。
「落ち着け……落ち着け……」
張りつめた糸が弾かれ、激しく揺れるのを、さらに引っ張り揺れを鎮めようとしている。まるで自分の体ではないようだ。動揺は簡単に収まりそうにない。
孝宏はつま先で鞄を軽く蹴ってみたが変化はない。次にそっと摘まんで、さっと裏返したがやはり変化はない。
「最後だ」
孝宏は息を飲んで、恐る恐る鞄の口を開いた。
鞄を渡された時は驚くほど軽く、中に何も入っていないのでないかと思ったほどだったが、実際は空でなく、厚さ一㎝ほどもある紙の束が入っていた。
紙幣よりやや大きく、白い紙に黒いインクでびっしりと文字が書かれている。見覚えのある文字と記号の羅列。
「これ、術式か?」
紙の束を親指でずらしてパラパラと軽く捲ってみると、どの紙にも同じような文字がびっしりと並び、最後までめくり終わり裏返すと、大きく火球と書かれていた。その他には大水とか緊縛とか、睡眠などと書いてあるところを見ると、様々な種類があるようだ。
束の終いの方は何やら物騒な単語が並ぶ。ならばと孝宏は前の方を確かめた。すると初めの一枚には治傷と書かれてあり、孝宏の心臓は大きく鼓動した。
「これってまさか……」
逸る気持ちを抑え、一枚一枚丁寧に見ていく。十数枚めくったところで、≪解毒≫の文字を見つけた。
「あの!これをルイに使えませんか!?」
孝宏の大きな声が静まり返った通りに響く。
解毒と書かれた紙を引き抜き、急いでナキイの傍に駆け寄った。ぼやぼやしている間に随分と距離が開いてしまった。自身の足の痛みなど忘れ、もつれそうになる足を何とか前に出す。
「何か見つけたのか?」
立ち止まりこちらを振り向くナキイ。何か様子が変だ。一見落ち着き払った表情に、僅かにうわずった声色。一瞬脳裏をかすめた違和感を振り払い、孝宏はナキイに見つけた紙を見せた。
「魔術札か」
表の術式を見て、すぐにナキイは言った。
「裏に解毒って書いてあります。これでルイ、治りませんか?」
ナキイはすぐに頷かず、まるで思案するかのように瞳を揺らした。ナキイの表情は険しくなっていくのを、孝宏は走って乱れた息をと問えながら不安げに見上げていた。その間に先程の違和感が再び頭をもたげ始めた。
「ルイ?」
気づいてしまった時、孝宏は息を吸うのも瞬きも忘れ硬直した。ナキイに担がれた時すでに衰弱し始めていたとはいえ、あんなに暴れていたルイが、今は抵抗も弱々しく、ナキイに身を預けている。かろうじで息はしているようだが、今にも途切れてしまいそうなほどか細い。
「ルイ?」
孝宏がルイの頬に手を当てると、ルイは首を振って嫌がる。
「確かに時間はないか。使ってみるか」
ナキイは独り言のように呟いた。
そこから数メートル先にある、緑の野菜を積んだリアカーの陰に、ナキイは身を屈め、ルイを足から慎重に下した。頭を打たないよう手で庇いながら寝かせると、ルイの上に膝を付いて跨り、ルイの両手を頭の上で押さえつけた。
「魔術札を」
孝宏もリアカーの陰にしゃがみ込み、魔術札をナキイに渡した。魔術札を受け取ったナキイはそれをルイの顔に押し当て、紙の上から人差し指で三回叩く。すると文字がジワリとにじみだし、薄くなり、終いには消えてしまった。文字が消え、ただの紙になったそれをどかすと、ルイの顔に文字が黒いシミになり、溶けて消えていくところだった。
「これで治るなら、すぐにでも変化が起きるはずなんだが……」
しかしいくら待ってもルイに変化は現れない。
「残念だが……」
「まだ!まだかかるのかもしれないし!もう少し待てばきっと!」
すぐに出るはずの変化がない。それが何を意味するのか、孝宏にもわかっていたが、それでももう少しまでば、ルイが目を覚ますような気がして言葉を遮った。
「諦めろ。これは効かなかった」
ナキイの容赦ない言葉が胸に突き刺さる。
「そんな!もう少し……そうか。一枚じゃ足りなかったんだ。探せばもっとあるかもしれない。」
どうしても諦めきれない孝宏が、紙の束から解毒の文字を探しているのを見て、ナキイはぐっと唇を噛んだ。いくら探しても見つからないのだろう。何度も何度も紙を見返しては、焦り涙が滲む。
たとえあったとしても、同じ魔法を何度重ね掛けしたところで、効果は変わらないことを、ナキイは重々に承知していた。
ナキイは腰のベルトに下がる茶色い、卵型のストラップをぐっと握りしめ、目を閉じ俯き苦悶の表情を浮かべる。
「何で……何で、見つからない。どうして……」
本来なら一刻も早く治療が受けられる病院に向かうべきところだ。なのに、ナキイは聞こえてくる涙声に耳を傾けながら、歯を固く食いしばった。
紙の束はこんなにも厚いのにも関わらず、同じ札は一つとしてなく、当然ながら≪解毒≫の文字も見つからない。焦れば焦るほどに、札が一枚、また一枚と手から零れ落ちていく。その内手元の束は薄くなり、地面に、ルイの上に落ちた札が風に煽られ、宙に舞った。
「今は時間が惜しい。病院なら治療が受けられるかもしれない。急ぐぞ」
ナキイは孝宏の頭を優しく撫でた。
青白く血の気の引いた顔。強張って引きつった口元からこぼれる息は荒い。孝宏の心情が手に取るように伝わってきても、安心させてやれるような言葉は見つからなかった。