夢に咲く花 29
正午を過ぎた昼下がりとはいえ、大通りは人も徐々に増え始め、車がひっきりなしに行き来している。
歩道を走れば、思わず肩がぶつかる程度には込み合い、靴の裏に付いた泥が重さも相まって、上手く走れない。簡単な謝罪を口にしながら人ごみをかき分けるが、それに及ばず、泥で汚れた男を民衆の方が避けるおかげで、男はどうにか捕まらずにいる。
しかし、差を詰められることもなければ撒くこともできず、男は大通りをひたすら東に逃げていた。
時折振り返っては、追手がどれだけ自分に迫っているか確認しつつ、男は周囲を見渡した。
まず目を引いたのは、立ち並ぶ店々の活気の良さだ。店主たちは声を張り上げ、または派手な看板を掲げ、人を呼び込もうと躍起になっている。
男は雑貨屋の看板を掲げる店の手前で左に曲がった。道というには狭すぎる。建物と建物の隙間はじめっとしていてなんだか暗い。体躯の良い兵士などは、肩と背中を壁に擦りながら、壁と壁の隙間に体をねじ込んでくる。兵士たちがまごついている間に、男は足元に落ちていた瓶を蹴飛ばしてその場を通り抜けた。するとそこは表通りと打って変わり、人っ子一人おらず、静寂が支配する。まるで別の町のようだ。
町の地図を把握している訳ではないが、ひたすらまっすぐ走ったのだから、反対方向に行けば公園に戻れるだろうか。
男はふとそう思って、公園に戻るつもりで左に走り出そうとしたが、すぐに足を止めた。男を挟み撃ちにしようと、あらかじめ裏路地に入っていた兵士が、こちらに追いつてきたのだ。
仕方なく右に曲がったがやがて突き当り、さらに右に行けば大通りへ出られそうだ。左は行き止まり。木箱が積まれ、隙間に薄汚れた扉があるだけで、その途中横に伸びる道は確認できない。
――キイィィ…――
高い音を立て扉が開き、中からエプロン姿の女が現れた。女は扉横に置いてある木箱の中身を取りに出てきたのだが、通りに一人でいる男を見つけて動きを止めた。
あまりに静けさに人が住んでいないのかと思っていたが、固く閉じられた窓の奥、カーテンの向こうからいくつもの視線を感じる。嫌な感じだ。
男は仕方なしに右へ曲がりまた大通りへ出ようとしたが、そこには挟み撃ちにせんと、すでに複数の兵士が待ち構えていた。兵士たちを撒こうとしたした行動が、完全に裏目に出てしまった。
男は走りながら羽織っていたマントを素早く脱ぐと、横一列に並ぶ兵士たちに向かって投げつけた。だが泥を吸って重くなったマントは、思った通りの役割を果たせず、兵士たちの手前で地面に落ちた。
「チッ…」
男は小さく舌打ちした。しかし躊躇はない。落ちたマントを素早く拾い上げ放ると、一瞬だけ男の姿をおおい隠し、しかしその一瞬の間に男は捕らえようと伸びる手を交わし、それにより乱れた列の隙間を縫って、走る勢いそのまま、車が途切れた瞬間を見逃さず車道へ飛び出した。車道を横切って道路の反対側まで一気に駆け抜け後ろを振り返る。
今度こそ兵士たちは車に阻まれ、反対側で立ち往生している。見る限りこちら側にまだ兵士はいない。身を隠すマントがなくなったのは心もとないが、泥まみれのマントなど着ていた方が変に目立つ。逆にない方が良いのかもしれない。
男は人の流れに紛れて歩き出した。
「さてと、どう動くのが良いか」
白髪の少年が持っていた紙は、役所の仮設テントで配布している整理券番号だった。であるなら、あの混み具合だ。しばらくはあの場所にいるだろう。あの女性の名前を直接尋ねるくらいはできるかもしれない。その前にせめて、どこかで着替えを調達できれば良いが、あいにく金を持ってくるのを忘れてしまった。あの彼女に会うのであれば、きちんとした身なりに整えたかったがしかたない。その時はあの白髪の少年に何とかして貰おう。
男は一人ほくそ笑んだ。
「あの萎縮具合では、よもや私の頼みを断ると思えないしな」
車道を挟んで反対側では道を渡れない数人の兵士が、男に歩みを合わせて追跡中だ。残りは遠回りをして男の側に渡ってきているはずだ。
「挟み撃ちにされる前に退散するとしよう」
車と人ごみが、兵士たちから男の姿を隠し、男は隠れるように脇道へと入った。
男はようやく落ち着いて周囲を観察することができた。
沈んだ表情の人が多い。これだけの人がいるのだから、談笑している者がいても良いはずなのに笑顔でいるのが、愛想よく接客している店員くらいだ。
先ほどの女性も表情に恐怖を孕みこちらを見ていた。姿の見えない視線こそが、この町の今の姿なのかもしれない。
(例の噂は思っていた以上に、この国影を落としているというわけか)
「失礼いたします」
男はすれ違い様に、二の腕をすくい上げるように掴まれた。
「もう逃げられませんよ。さあ、早く船に戻りましょう。これ以上ここに滞在するのは危険です」
頭部に二本の、後方に湾曲した立派な太い角を持ち、金色の瞳が男を見下ろす。いつもは綺麗に整えられている顎鬚が、今日に限っては伸び放題だ。これだけ寒いのに長袖一枚で、趣味の崖のぼりで鍛え上げられた筋肉が、サイズの小さい服の上から主張している。
突然で男はとても驚いたが、彼は良く知っている人物だ。
「ナキイか……」
少しだけ驚いて見せて、しかし平然と構えた。口元はいつものように笑みを浮かべるのも良いだろう。
「薄着な上に服のサイズあってないではないか。しかも何だ、そのムキムキな筋肉。私に見せつけてどうしたいんだ?」
男が揶揄うように言うと、ナキイは額に汗を滲ませまま、困った顔をした。
「これはサイズがなくて仕方なくです。一般人に紛れるのは、いつも殿下がなさっているのを参考にさせて頂きました」
それが生真面目な性格の彼が考えた、精一杯の作戦なのだろうが、紛れるどころか変な目立ち方をしている。本人は気にしていない上に、不覚にも男自身も気が付かなかったのだから、それを彼に指摘するつもりはない。
「もう少しだけ、町を見て回りたい。これは私の使命なんだよ。お前ならわかってくれるな?」
説得というよりも、会話の中から相手の油断を誘う作戦だ。人間二つのことを同時にするのは意外と難しい。できるだけ会話を伸ばし、彼の隙を誘いたいところだ。
「陛下は殿下に、早く城に戻るよう言っておられます。ここは一度城へお戻りになり、それから準備を整えて、再度視察へ行く方が宜しいのではないでしょうか」
「この町は危険だというのだろう?だからこそだ。お前たちが協力してくれれば、私もこんな風に逃げ回る必要などないのだ」
「私には判断しかねます」
ナキイには似合わない一言だと男は思った。表情もなく冷たい金色の目が一層冷えて思える。
「お前はこの町の民を、見捨てろというのだな?我々は常に民の為にあらねばならないと、私は考えている。今危ないからと町の現状を見ずに逃げるのは、私の信念に反する」
「そうは言われましても、殿下に万が一のことがあれば、信念を貫くことさえできないのです。町の現状を把握したのであれば、兵の誰かが残りましょう。我々は殿下の手足、目です。存分にお使いください」
「私が自身の目で見てこそわかるものもあると思うが?」
「殿下の仰る通りです。ですが、今は一度城へお戻りになるのがよろしいかと存じます。支度を整えて再び視察へと……」
「お膳立てされた中の視察など見えるものはたかが知れている!私はありのままを知りたいのだ」
「殿下……そうはおっしゃられても……すでに他の者たちが思お迎えにあがりました」
「何?」
前方から後方から、斜め前にある横道からも、兵士たちがすでに迫ってきていた。ナキイが知らせたに違いないが、それにしても早い。今度こそ挟み撃ちにしようというのだろうが、どのみち腕をがっちりとナキイに掴まれているので逃げられそうにない。
男は周囲に目をやり、肩を落としため息を吐いた。
「それですぐにでも飛ぶのか?その前に欲しい物があるんだが」
「殿下がお戻り次第、いつでも飛べるよう準備しております。それから町の銘菓マリモッチと若ヒメサギの姿燻製、最近旅人の間で話題のアカン香。町に着いたばかりの時、殿下がおっしゃっていた品です。どれも十個ずつ、すでにご用意にしております。他にご要望がありましたら仰ってください。今は殿下捜索のため町中に兵が散っておりますので、どの品もすぐにご用意できます」
男は完全に逃げ道を塞がれ、掌で目元を覆った。
「用意周到だな。優秀な家臣を持って、私は幸せ者だよ」
「お褒めにあずかり光栄でございます」
胸に手を当て、澄ました顔で頭を下げる家臣が憎々しい。
「殿下失礼したします」
兵士の一人がそう言って男の手首をぎゅっと握った。今度こそ何としても逃がさない気迫が、顔を見ずとも伝わってくる。
このまま飛行場へ向かうのだろう。飛行場までそれなりの距離がある以上、魔術で飛んでいくはずで、そうなると、男に逃げる機会は完全になくなってしまう。
兵士の数人が見事に声を揃え、一斉に術式を紡ぎはじめ時だった。
詠唱も終わり、あとは魔術発動のカギとなる音を紡ぐだけになった時、ナキイは掴んでいた男の二の腕を離した。この場に残るためだ。
最後のチャンスだと思った男は、掴まれてる方の掌パッとを広げ勢いよく手前に引くと同時に、脇を固めていた兵士に思いっきり体当たりし、再び走り出したのだった。