夢に咲く花 16
後一時もすれば夜空に明りが指そうかという時分、カダンは体を振るわして飛び起きた。夢の続きか否か、心がざわついていて体が異様に重くだるい。
車の木枠に張った幌の向こうで、ぼんやりとオレンジ色の明りが灯る。声は聞こえてこない。たき火がパチパチと弾け、風が木々を揺らすばかりの静かな夜。
車内はカランとしており、カダンと孝宏の二人っきり。妙に居心地が悪く、落ち着かない。
ふと横で寝ている孝宏が血まみれの姿と重なり、カダンは焦って手を伸ばした。
肩までかけてある毛布をめくり、記憶にある傷の部分を確かめると、そこには包帯が巻かれてあった。手当はしたが、やはり治癒魔法は効かなかったのだろう。
そうは思いつつもカダンは反射的に治癒魔術使おうとするが、起きてしまうかもしれない。寸前の所で思いとどまり、掌を孝宏の口元にかざした。生暖かい息が掌にあたる。
(息はある)
次に緊張する指先で、軽く孝宏の頬に触れる。
(暖かい……生きてる)
それまでしてカダンはようやく胸を撫で下ろした。
カダンは車を揺らさないよう静かに移動し、外の様子を伺った。
毛布に包まって寝ている塊が二つと、パチパチ音を立て燃える焚火の前で、座ったまま眠りこけるカウル。外は至って静かだった。
他には誰もおらず、今起きているのはカダン一人だけ。不用心と思いつつも、カダンにとっては幸いだった。車の幕をしっかりと閉じると、床に書かれた術式を指でなぞり、きわめて小さな声で呟いた。
「魔力補給用の陣…………これがあるならいけるかもしれない」
カダンは幌の内側に指で文字をなぞり始め、同時に小声で口にしたのは術式だった。息が上がり、術式を紡ぐ声が途切れながらも、それでも止めずカダンは最後の一文字まで書き綴った。
「紡いだ糸を繋げ。先は王立魔術研究所、所長ア・タツマ」
そう言った数秒の後、幌に灰色の影が映るのだが、不鮮明で形すら上手く留めていない。ただ今の状態ではこれすらも上出来と言える。声だけでも鮮明に聞こえるのが幸いだ。
「こんな時間になぁに?まだ夜も明けていないじゃない」
幌に映る灰色の影はゆっくりと頭を振って、表情が写らなくとも不機嫌でいるのは見て取れる。とはいえ、皆の前で連絡を取るわけにもいかず、他が全員寝ている今しか連絡を取れる機会はない。先方の都合を伺っている場合ではないのだ。
「すみません。でもどうしても確認したいことがあったので」
不鮮明な映像ではこちらも影でしか映っていないだろうが、カダンはあえて表情を付けた。声は潜めたもののトーンをいつもより高く、肩をちょっと竦める。少なくとも謝る態度ではない。
「今じゃなきゃダメなの?何よ、確認したいことって」
相手はカダンに合わせて、声を潜めて言った。
「数時間前、何者かに襲われました。どうも勇者の一人が標的だったようです。まさかとは思いますがね。そちらで心当たりがあったりは…………しませんよね?」
「襲われた!?誰に?あ、いえ。それよりも無事なの?」
「全員無事ですよ。勇者達の活躍でね。襲ってきた連中は、おそらく役所に引き渡したんだと思うんですけど、私は気を失ってして詳しくは知らないんです」
「わかった。こちらでも調べみる」
「お願いします。でも、本当に知らないんですよね?嘘じゃあないですよね?」
「すぐにばれるのに、嘘なんかつかないわよ。それに黙ってても向こうから来てくれるって言うのに、そんな危ない真似をするメリットがないじゃない。そっちこそ約束を違えないわよね?今更妙な情に流さ……」
「まさか、ありえません。約束通り、勇者二人は必ずそちらに引き渡します。その代わり……くれぐれも宜しくお願いします」
「言われなくても。貴重な人材を無駄にはしないわよ。じゃあ、気を付けなさいね」
音もなく影が消えると、車の中は元通り静寂に包まれ、体のダルさがいっそう増した気がする。
背後で寝ている孝宏に視線を戻すと、規則正しい寝息が聞こえてくる。ただ毛布が肌蹴たままでは寒そうだと、カダンは自分が剥いだ毛布を掛け直した。
(よく寝ている。よかった)
気を失う前の光景がしっかりと目に焼き付いている。
大勢の男たちと対峙するカウルとマリー。自力では立てないのか、ルイに支えられる血まみれの孝宏。
見知らぬ男たちに襲われ、高ぶっていた血が一瞬にして冷めた気がした。
ただわけも解らず震える心のまま感情を爆発させ、気が付いたら無理やりに、制限されている力を使っていた。
(普段ならこんな無茶なこと、絶対にしたくないのに……どうしてだろうね)
カダンはやや躊躇がちに孝宏の頬に手を伸ばした。掌で頬を包むように触れれば、直に感じる肌の温もりが心地よい。こんな風に触れたのは初めてかもしれない。
罪深いことだとカダンは思った。
自身の行動の意味を、まさか理解していないわけではない。自分が求めているものが、人肌などと単純でないと解っているがしかし、もしもそれだけで済むのならと、つい馬鹿なことを考えてしまう。
(どうしよう、駄目だよ……こんな、必ず後悔するのに)
頬から掌を離しながら、それでも名残惜しくて親指の腹で肌を撫でると、孝宏が離れかけた掌に、自身の頬を摺り寄せてきた。
「あっ……う……」
辛うじて声を上げずに済んだが、口を閉じるのも忘れ、カダンは手を離せずに身を固めてしまった。
このままではいけないと思いつつも、成り行きに委ねてしまう己の弱さが恨めしい。
(心臓が止まるかと思った)
孝宏は一度、異国の言葉で何かを呟いたが、それもどうやらただ寝ぼけているだけのようだ。口元を緩ませほほ笑む仕草、良い夢でも見ているのだろう、今はまた規則的な寝息を立てる。
まだ十五の寝顔はやはり幼さが残る。誰かに甘える夢でも見たのかと、カダンは冷笑を浮かべた。
「そうだ、彼は勇者、異世界の人間じゃないか。どちらにしろ、どうにもならな……い………ん?」
カダンは強張った手を翻し、甲をそっと孝宏の首筋に、空いているもう片手を自身の首に当てた。
さっきは気付かなかったが、孝宏の肌は熱を帯びている。よく見れば表情も心なしか苦しそうだ。
(熱?まさか怪我のため?でも……でも……)
カダンは片手で両目を覆い、天井を仰いだ。
「この位、放っておいても問題ない」
カダンの口から発せられたのは、酷く冷めた声だった。
孝宏を見下ろすカダンに感情の色はなく、ただ瞳の奥で青い光が揺れている。
「これは勇者だ。ずっと……ずっと待ってた、勇者。他の誰でもない、私が利用すると決めていた」
瞳に湛えた青はやがて溢れ、零れては胸に染みを残す。
「私はカウルとルイを守れればそれで良い。そのためには何だってする。昔約束した」
口から零れる光が紡がれ糸となり、残酷にカダンを縛っていく。
「忘れてはいけない……罪だ……」
誰に言うでもなく、自身に言い聞かせる言葉が、胸の深い所まで染み入る程、冷めた気持ちとは裏腹に胸が苦しく息が荒くなる。
鼓動が壊れてしまいそうな程胸を強く打ち付ける。
カダンは息と一緒に唾液を飲み込み、ゆっくり呼吸をしたが、落ち着くどころか、鼓動はますます早くなっていく。
酷くイライラする。まるで鉛を飲み込んだようにズンと重く、酷く緊張して喉が渇き、訳も解らない焦燥感に苛まれる。
孝宏の首筋に手の甲を当てたまま、見下ろすカダンは微動だにしない。
「彼は勇者だ。でも……」
やがて手をゆっくりと滑らせ、指先で孝宏の唇をそっと撫でた。薄っすら開かれた唇から、漏れるわずかな吐息を感じると、カダンは自身の唇を舌で湿らせた。
(そう、彼は勇者だから。それまでは私が守らなくては……)
カダンは指を這わせた孝宏の唇に、そっと自身の唇を重ねた。
「私たちはそれだけの関係で十分だ」