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果たして幾つの命が息絶えたのだろうか。考えたくもなかった。西王、否もう魔王といってもいいだろうか。行方不明だったオーベルは東国を侵略し始めた。空に立ち込める不穏な色の雲と、空に悠々と構える凶器の瞳。禍々しくその存在を主張する。
名の通り、いくつもの瞼が見えていた。その中心と言える部分には、周りの瞼と比べてはるかに大きな眼があった。徐々に開かれていく。その眼はこの街を、国全土を、なんの感情も見せずにただただ、一点を見下ろす。その瞳が動くことは無い。
見開いたそのギョロっとした目は非常に不気味であり、一層深く警戒を強める他なかった。
これは、オーベルが黒い靄の中に消えてしまったあとのこと。あの靄がどこに繋がっているかも気になるひとつだが、こことは違う異界の門に違いない。そう感じてしまった。入ってはいけない、とふたりの頭の中に警告を知らせる鈴が鳴り響いたのだ。身体がそれを否定し、拒んだ。
オーベルとの交戦で街は既にボロボロで瓦礫の山となっている。かろうじて、1、2件崩れていないものもある。それでも悲惨な状況に変わりはない。世泉とルカも同じようにボロボロになったその体。致命傷とまではいかなくとも、大きな傷が幾つか目立っている。
そしてまた、黒い男が言うのだ。フードを手にかけ、被っていて見えなかった顔があらわになる。ふたりは目を丸くした。そうすることしかできなかった。声なんて出せるはずがなかった。
「やぁ、また会えたね」
先ほどなぜ世泉の名を知っていたのかようやく分かった。1時間以上も沈黙しているかのように、それだけ長く感じた。ようやく彼女は言葉を発する。
「ヘル、シャフト…」
「そうだよ、ヘルだよ僕」
伏見から戻ってきたとき、千歳とルカに傷を負わせたあの時の、気味の悪い男だ。何故ここにいる、と、問おうとしたがそれを汲み取ったのか、その男は言ったのだ。
「言ったよね、また会おう、って」
まさか忘れたの、覚えてるよね、と、有無を言わせないような空気を漂わせる。そのオーラに、前から気を張っていたのに、さらにしゃんと伸びる背筋。
覚えてないわけがない。あんなことされておいて忘れるほうが無理だ。あの時の頭の痛み、意味深な言葉を残して去ったこの男。
そして、この男が100年前の戦争の首謀者だということ。この前行われた会合の際、南王と北王がそう言っていたのだ。そのせいで余計に忘れられなくなった世泉だった。それを思い出して世泉もルカも顔をこわばらせる。雰囲気を察してヘルは不敵な笑みを浮かべる。満足げに、それでいい、とでも言うようだ。もっとその顔が見たい、と。
「これが終末わりだなんて思わないでよね? …始まったばっかりなんだからさぁ」
その言葉が何を意味しているのか分からないでもない。これからの未来を想像させられる。ただでさえ崩れ去っているというのに、これ以上何かあっては本当に終わりだ。一体何が起こるというのか。身体が強張るのが分かる。神経がもうどうにかなりそうだ。
ドゴォォン!!!
大きな音と同時に地鳴りが起きる。ヘルシャフトに向けていた体を動かす。緊張のせいで強張ってしまっていたためぎこちないその動き。世泉自身もそう感じていた。その体で周りを見回せば黒紫の塊が目に映った。
「凶器の瞳がお目覚めのようだね」
ヘルはそう言う。
「し、死喰…」
ふたり同時にそう呟いた。その言葉はどこか弱々しく、絶望の音も交えていた。再び、民衆の悲鳴や叫び声が忙しなく響き始めるのだ。ヘルは先ほどからの笑みを消すことなく、オーベルが消えていった靄と同じものが徐々に存在感を増しながら現れ、その中へ消えていこうとする。
「ちゃんと生きていてよ? 次は迎えに来るから。待っててね、世泉」
そのまま消えてしまった。靄も一緒に、サァーっと静かに、小さく消えていく。
世泉に対して迎えに行くといった男。ルカには何のことやら、疑問ばかりが浮かび話についていけない。
「二度と…来なくていい」と彼女が呟いたか細い声も聞き逃さなかった。それでも今は目の前の敵をどうにかするほうが先だと考え、視線を黒い異物へと移す。
もう1つ。異彩を放つその瞳。凶器の瞳とヘルシャフトは言った。その瞼は開かれ、その時から死喰が現れた。あの瞳が穢れを呼び寄せているのだと考えるとぞっとする。瞳が閉じなければ永遠に湧き出てくるということではないか。ルカも世泉も残っている精一杯の力を振り絞りながら戦っている。息が、はぁはぁ、とこぼれている。肩も上下しているのが見える。オーベルとの交戦で体力はゼロに近い。
斬って、斬って、浄化して。が一向に数が減らない。そればかりか逆に増えている。この国には兵力がない。騎士団というものすら存在しない。自分の身は自分で、と言うが、それではどうにもならないほど強大な穢れには、到底太刀打ちできない。歯が立つはずがない。逃げるしかないのだ。
「世泉、後ろ」
「ッ、ああ」
スピードを緩めることなく次々と秘石を砕いては浄化を繰り返していく。街には既に人っ子ひとりいやしない。数時間ほど前の光線の雨が降ったせいで家が崩れ、瓦礫に埋もれてしまった死体を器用に探し出しては喰らっている姿を見かける。決して気持ちのいいものではない。その光景は浅ましく、残酷なものであった。
すべての死体を喰らい終えたためか、死喰は2人のところへと集まってくる。生きている者にさえ目ざとく反応してしまうその穢れを鬱陶しく、恨めしく思うほかない。
ルカと世泉は背中合わせで穢れたそのモノと攻防を繰り広げる。一層息が苦しくなり、肩も前より大きく上下している。
見る限りでは、残り1体。しかしその最後のモノは今までのとは、纏ったその雰囲気がどこか違っていた。この地には似合わないそのオーラは独特で、異型というものの存在が増している。空から顔を出したあの瞳とはまた変わった、禍々しいこの感じ。
畏。それは相手に恐怖や絶望を与える。ヤツはそれを放っている。だけどふたりには、怖気づいている暇なんていうのはないのだ。この状況がそうさせてくれる筈もない。
ルカが何度も何度も秘石を狙って懐へと入っていく。が相手も今までとは格が違う。中々決め手が入らず苦戦を強いられる。手強い。だんだん焦りが募る。もう体力も限界。世泉も援助の手は止めないが、それは弱々しいものとなっている。
あと少し、あと一歩のところで拒まれてしまう。何度この窮地である状況に局面しただろうか。おそらく、ふたりの寿命は幾度も縮まっている。それでもなんとかここまで来た。それなら、何がなんでも生き延びてやる、と、そう思っているのだ。
死喰はその大きな口を目一杯開いたのだ。そしてそこに力を貯め始めている。急いで受け身の体制へと入り、最低限の結界を張ろうとしたが、その必要は無くなってしまった。
ドゴォン!!
そういって死喰は後ろへ倒れた。そのまま死喰は消えてしまった。はっきりとした姿形は見えなかったが人影は見えていた。それが即座に死喰の頭に札を貼った。きっとそれで浄化されたのだ。
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
澄んだ女性の声が聞こえてきた。
その姿を確認すべく、足元から上へ上へと視線をあげる。臀部には淡いミルクティー色の太めの尻尾が生えている。そして同じくミルクティー色の髪に、何故か三角の耳が頭上に2つ。
颯爽と現れて優雅に敵を倒してしまった。その少女は手を差し伸べる。
「ひ、より…」
何故という言葉は出なかった。それでも陽和は喋り始める。伏見で再会し、会合の時再び顔を合わせ、また今ここで、こうして助けてもらった。とことん彼女とは縁があるようだ。
「ここほどじゃないけど、私の街でも、伏見でも死喰が目撃されていたの。だったら、宇治の方はもっと酷いんじゃないかって思ってね。千歳がいた場所だったから」
「だとしたら、伏見の方は大丈夫なの」
ルカが息を整えてそう投げかける。
「はい、大丈夫です。旭陽が片付けてくれています」
確かに、活発な旭陽なら問題ないか、と世泉は考えた。聞けば数も2、3体ということだった。
「雅からも連絡があったの、伏見の方が終わってから行こうと思っていたんだけど…急いできて正解だった」
「そうか、すまないな…助けてもらったばっかりだな」
世泉は自嘲した。自分の力のなさが少し嫌になった。
帰ったら雅にきちんとお礼しないとな、なんて考えていた。おもいっきり甘やかしてやろう。
彼がもし連絡していなければ、こっちに到着するのも遅く、世泉とルカは相当な深手を負ってしまっていたかもしれない。あるいは、死という単語までも頭に過ぎる。
「ありがとう」ルカとふたりでそう言った。
暫くは、閑散となってしまったこの宇治の街を眺めていた。虚しい。心に穴が空いたような、言葉で表すのが難しい。でもそれが1番相応しい。しっくりくる。
誰もいない街。賑やかで笑いの絶えなかった、あの頃の暖かい街もうない。一瞬で消えてしまった。長年かけて築き上げてきたものを、壊してしまうのは簡単なんだ。不条理だ。理不尽で、どうしようもない空虚感が漂う。
そう考えていた世泉の背後から声がかかる。
「世泉、行くよ?」
どうやら、ひとり置いていかれていたみたいだ。ルカに声をかけられなければ、世泉はひとり取り残されていたかもしれない。小走りで駆け寄っていく。そして気になる疑問をひとつ。
「伏見の方に帰らなくてもいいのか?」
数体とは言えど、旭陽1人で対処しているのだ。被害を免れることは出来ないだろう。
「伏見は、妖モノが多いから、そこは心配ないと思う。皆自分で戦える」
心配をさせまい、と笑顔を向けてくる。それには頷くことしか出来なかったが、好意には甘えるべきだ、と誰かが言っていたような気もする。2人では何かと大変だ。雅と紫苑の2人も賢いが、やはりまだ小さな子供同然だ。その分のカバーしなければならない。
「伏見でも被害があったってことは、他の街も被害にあってる可能性は高いよね。もしかしたら、国全体でってこともあり得るんじゃ」
「はい、そう考えるのが妥当ですね」
「雅が北王からなにか聞いてるかもしれないな」
3人顔を見あわせて頷き、屋敷への帰り道を急いだ。雅も紫苑も待っているはずだ。
そして世泉にはもうひとつだけ気がかりなことがある。以前世話になった海晴のことだった。心配していないわけがなかった。逆に心配するなと言うほうが無理だ。オーベルと対峙した時だって頭の片隅にずっとこびりついていた。彼女は結構タフな人だけれど、ひとりの女の人だ。
「浮かない顔だけど、どうかした?」
ぬぅっとルカの顔がすぐ近くにあった。鼻と鼻がぶつかりそうなくらいまで。それで一気に我に返って気持ちを切り替える。
今は目の前のことを終わらせるのが先だ。彼女もそう言うだろう。私のことはいいから、と。想像すれば自然と笑がこぼれた。変な懐かしささえ覚えた。
そして帰路を急ぐのだった。
歩いている途中でも人ひとり、誰もいやしない。それだけの被害が出てしまったことは悔やみきれない。
〇●●〇
屋敷の前までたどり着き、一気に疲労感が押し寄せてきた。玄関先までズラリと石畳が敷き詰められている。両脇には広い庭。ずっと雅と2人、今は4人で手入れしていたものだ。日は傾き始めているというのもあるが、心なしかどんより沈んでいるように感じた。
いつもより長く感じるその石畳の上を歩く。
引き戸を引けばまた今度は脱力感が押し寄せてきた。
そして3つの影に気付く。
「雅、紫苑…」
「槐までいるね」
ルカはその姿を確認すると笑っていた。
玄関先の板張りの床の上で、2人と1匹が寝そべっている。北王への通信が終わると、ずっと此処で待っていてくれたのだ。寄り添って寝ている。気疲れしてしまったんだろう。確かに沢山心配をかけていたかもしれない。気づけば昨日の夜から今の今までぶっ続けで戦っていたのだ。
小さいその体にはまだ耐えきれなかったんだ。その姿はとても愛らしい。心が洗われるような気分になる。さっきの戦いが夢であるかのような気さえしてくるのだから、相当重症なのかもしれない。
「リエフ、ただいま」
ルカの目線の先の奥ほうからリエフが現れた。少し小さくなった体をのそのそと動かしてこちらへ向かってきている。
ルカにひと撫でしてもらうと気持ちよさそうに目を細める。ルカの頬に擦り寄るリエフ。まるで苦労を労うかのように。
そしてひと通り終われば槐を喰わえて、またのそのそと世泉らに背を向けてどこかへと行ってしまう。
「よいしょ…世泉は紫苑の方お願い」
「私はお布団用意してますね」
軽々と雅、を抱きかかえるルカ。陽和も素早く奥の部屋の方へと準備をしに去っていく。疲れているはずでは、と疑問に思いながらも、すぐに紫苑を腕に抱きあとを付いていく。
ルカの姿を見れば、世泉より遥かに痛々しいものだ。それでも疲れを一切感じさせない彼には尊敬の念が生まれる。一国の騎士ともなればこういう事はざらなんだろう、と考えていた。
布団の中でぐっすり眠る雅と紫苑。そんなふたりを一瞥してから居間への襖を静かに開ける。




