風が吹けば桶屋が何とか
人類は一週間前、木星への着陸に成功した。
次に目指す先は土星だそうだ。ゼウスまで手中に収めんとする人類は、いかに罪深い生き物だろう。
「そんなこと,林檎を食べたときから決まっていたじゃない。」
ソファに腰掛け、隣で朝のニュースを見ていた愛妻が答えた。
「そんなに卑屈な捉え方していないで、幸福の惑星すら我ら人類の手中に収まったのだ、なんてさっきの宇宙航空研究開発機構のお偉いさんみたいに喜びなさいよ。」
「とはいえ、次は土星だろう?災いの星すら手に入れようというのか?」
「言い方が悪いわ。農耕の神よ。」
彼女は言いながら隣の部屋へ消え、僕の服を持って現れた。履き古した色のブラックデニム、黒のヘンリーネック。人類が木星を手中に収める程に科学を発展させても、彼女の好みには何ら影響を与えないようだ。
「とにもかくにも、行ってらっしゃい。今日は貴方の好きな物を作って待っていてあげるわ。」
「なら肉じゃががいいな。できれば味噌を忘れずに。」
「私の肉じゃがに味噌は入りません。」
いたずらっぽく笑う妻に見送られ、僕は家を出た。
今日はある研究の最終実験に、被験体として参加する。タイムトラベル、時間旅行の研究だ。スプートニクのライカ犬のような役割と言っていい。無事帰れる確率は決して低くないが、何分未開の地だけに何が起こるか分からない。命の保証がないことについての誓約書にサインもした。だから、少なくない報酬が成功しても失敗しても、愛する妻の手に渡るようになっている。
研究所に入ると白衣の集団に連れられ、立入禁止の向こう側に案内された。
「それでは今回の実験について説明させていただきます。」
美しい研究員が足を組み直す。鮮やかな唇が眩しい。科学が進歩しても、僕の好みもまた変わらないらしい。
「これから、こちらの装置に入っていただきます。時空間を移動する際には脳内に微弱な電波のようなものが流れますので、一部記憶を失う可能性が生じますが、それにつきましては誓約書にサインをいただいているかと思います。
まず、こちらからの派遣に成功いたしますと、十五年前の貴方の前に到着出来ることになっております。十五年前をご希望でよろしいですね?
次に滞在時間ですが、三時間以内とします。それ以上の長時間になりますと、生還の可能性が格段に低下いたします。三時間滞在で誓約書にサインいただいているかと思います。時間になりましたら、出発前にお渡しするスイッチを忘れずに押して下さい。忘れてしまいますと、やはり生還の可能性が低下してしまいますので、くれぐれもご注意下さい。
何か質問などございましたら、今のうちにお願いします。あと十分で出発となりますので、お早めに。」
研究員の鮮やかな唇は、僕が口をはさむ暇を与えないスピードで、一気に説明を終えた。この実験のあとに、恋人とのデートが控えているのかもしれない。
「特にありません。よろしくお願いします。」
そこで初めて,研究員は笑顔を見せた。
「こちらこそ,よろしくお願いしますね。一緒に頑張りましょう。」
研究員の言っていた装置は、幼い頃にテレビで見た日焼けマシーンによく似ていた。
もしかしたら死ぬかもしれない。
そんな可能性を恐れずにいつも通り僕を見送った妻は、どんな気持ちだったのだろう。
目を開けると、懐かしい風景が広がっていた。今は改装され面影を残していないという母校、毎日一人で登下校した通学路。
そして僕が出会ったのは、あの暗い目をした薄汚い少年だった。
「やぁ。君、少し時間はあるかい?」
「誰?時間ならあるけど。」
気に入りの腕時計を見ると、短針は文字盤の十を指していた。おそらく仮病で遅刻でもしているのだろう。ちょうど僕が会いたかった、最も憎むべき僕に会えたようだ。
僕はさっそく幼い僕を近くのファミレスに連れ込んだ。制服では怪しまれるからと、着替えさせて。
「で、誰なの?アンタ。」
「僕は君だよ。」
視線が左右にぶれる。表情は崩さないよう努力している。表情の変化を弱みだと思っているからだ。
「頭、大丈夫なの?何かの宗教?」
「嘘だと思うなら何でも聞いてくれ。ただ先に断っておくが、君をストーキングしている訳じゃないよ。」
彼が尋ねてきたのは、いかにも僕が考えていそうなことだった。前回のテストの点数、小学校六年生の遠足のバスの席順、近所で飼っていた犬の名前、ひと月の小遣いの使い道。その他にも答えの存在しない、僕を試すような質問ばかりだった。
「もうそろそろラストでいいか?僕も飽きてきたし、いい加減信じてくれてもいいだろう?」
「分かった。じゃあ最後、肉じゃがについて俺の好みは?」
「親は隠し味のつもりか味噌を入れるが、あまり好きじゃない。実家の肉じゃがは比較的甘めだが、甘い物ではご飯が進まないから、いつもこっそり七味唐辛子をかけて食べている。」
「もう十分だ。分かったよ、理解出来ねえけど信じることにする。」
それから僕はまた長い時間をかけて、現代の科学技術の進歩具合を説明した。木星に人類が降り立ったこと、僕がスプートニクのライカ犬をやっていること。それから今の僕を取り巻く環境についても。
「信じられるかい?絶望の淵に立っているような気分の孤独な君は十五年後、しょっぱい肉じゃがを作ってくれる愛する妻の為に被験体になっているんだ。」
すると彼は暗い目に怒りに似た感情を込め、威嚇するように僕を睨み上げた。
「俺はずっと一人だ。結局、その人だって俺から離れていって一人になるんだ。」
「違う。君は僕だよ。」
僕は捨て犬のように威嚇する彼の頭を撫でた。
「たくさんの人に出会って変わっていくんだ。科学技術の進歩なんて比じゃない。だが、変わらないものもある。だから僕は君に会いに来た。弱い僕には大切な心の拠り所がある。しかし弱い君には心の拠り所はない。だからこそ君は絶望の淵に立っているような気分になっている。
未来を信じていいんだ。君の絶望は、今や僕の希望なんだぜ。」
捨て台詞のように言って去りたかったが、ファミレスの料金はちゃんと僕が払うことにした。こんな些細なことで未来に失望されては困る。
「それじゃあ、そろそろ時間だから僕は帰るよ。頑張れな、未来は薔薇色だ。」
「アンタが俺の未来なんて、それだけで絶望出来るよ。」
ポケットの中のスイッチを押す。彼のはにかんだ顔は、リビングに飾ってある写真立ての顔によく似ていた。
「お疲れさまです。無事帰って来られましたね。」
目を開くと、美しい研究員の鮮やかな唇が目に入った。僕は帰ってきたらしい。
「これからいくつかの検査を受けていただきまして、三時頃にはお帰りいただけますよ。」
それからたくさんの白衣の研究員に囲まれ、たくさんの質問に答えた。てっぷりと太った研究員は人類の進歩だと飛び跳ねて喜んだが、僕の脳は妻のいたずらっぽい笑顔でいっぱいだった。帰りに花束を買おう。あの暗い目に凡庸ながらも光を灯してくれた大切な心の拠り所に感謝を告げ、力いっぱい抱き締めさせてもらおう。
親しみのある鉄製の扉を開ける。僕の存在が許される、愛される空間が広がっている。僕は、無事帰って来られたのだ。
「あら、早いのね。まだ夕飯出来てないわ。」
「ただいま。だったら一緒に作らせてくれないか?」
「味噌は入れないでよ。」
「あぁ、望むところだよ。」
花束を渡して照れ臭くて言えなかった感謝と愛を告げると、彼女の目から涙が溢れた。そして僕は、時間の流れにも負けない大切なものを、しっかりと抱き締めた。