月桂樹は裏切りをさす
第七章 立ちはだかる壁
伊豆法律事務所はテナントビルの二階にあった。
法律関係の本が並ぶ本棚にデスクが四つ、その隣の応接室に通された。 黒い革張りのソファーに、黒檀のローテーブル。
日当たりがいいのと、白い壁が反射するので室内は特に明るかった。
「ようこそいらっしゃいました。私が伊豆龍三郎です」
白髪をオールバックで撫でつけ、口ひげを蓄えたスーツの老人が中に入って来た。
「こんにちは、私は香月の夫の御鈴院麻斗と、こちらは友人の長谷井聡です」
「以前お会いした者です。 こんにちは」
「ああ、覚えているよ。香月さんが御鈴院家に相応しいか、訪ねていらした青年だ」
長谷井の挨拶に龍三郎はにっこりと笑みを返した。
「それで、今日は何か用ですかな?」
「香月と香月のおじい様の須々木雅道氏、そして雅道氏の家を買い取った椎野氏との関係を伺いに来ました」
瞬間、龍三郎の表情がわずかに曇る。
コンコンとノックの後、唯一の女性である青柳光がお茶を持って、室内に入り、お茶を置いて出て行こうとした。
「青柳君、悪いが彼らと話を終えるまで、誰もこの部屋へは近付けないでくれ、何も、一切取次はしなくていい。
何かあったら葵に言いなさい。葵が現在の所長だ」
「かしこまりました、先生」
麻斗も長谷井も意図がつかめず首を傾げている。
「これから話すことは内密に願いたい。 私は今まで嘘をついてきた。 自分にも、このバッジにも。 これは私の罪なのかもしれないな」
顔を見合わせる麻斗と長谷井は龍三郎が話すのを待った。
「香月さんがここに来た。
麻斗君、君と息子さんの守君の事を心配しいていたよ。
もしここに来たらこれ以上巻き込みたくないから追い返してくれとも言われた。 何も知らせないでほしい。自分がここに来たことも含めて、そう言っていた」
「では、何故あなたはあえて話してくれるのですか?」
「香月さんと麻斗君、二人の結婚式には私も招かれていてね。
香月さんの心から嬉しそうな笑顔を見て、私はいままでしてきたことが間違いだったと思い知ったのだよ。
なのに香月さんはまた自分の身を闇に沈めようとしている。
それも今度こそ悪夢から逃げられないかもしれない。
せっかく幸せを掴んだんだ、一人では決して幸せにはなれない。
彼女はそろそろ救われてもいいはずだ」
「あの、何がおっしゃりたいんですか? 意図が掴み兼ねるのですが」
遠回しな言い方にじれったさを露わにする麻斗に、射すくめるような目で、龍三郎は見つめ返した。
「雅道氏の話だったね。 君は戦う覚悟はあるかね?
得体のしれない、恐怖と言うその物を敵に回す覚悟が。
ないなら今この場で話すことはできない。
お引き取り願おう」
「俺は香月を取り戻します。 絶対に諦めない」
「では今の立場を失う覚悟はおありかな?」
「立場?」
「その名前と、今まで築いてきた地位だ。
できるかね? 君に?
君の事は香月さんから聞いている。 いくら君でも築いてきた地位や名誉、名前までは捨てられないはずだと。
君は生まれた時から立場を背負っている。
それは君の子供である守君だってそうだ。
だが香月さんはどうだね? もともと一般の女性だ。
いくら御鈴院家の嫁になっても、所詮は赤の他人だ。
その彼女のために全てを君は捨てられるのかね?」
麻斗は咄嗟に答えられなかった。
香月がそこまで言ったのだろうか?
香月と自分はもう家族だと、そう信じて疑わなかった。
でも香月はそう思ってなかったとしたら?
今まで築いたものを捨てるのは難しい。
仕事にもいずれは復帰しなければならない。
守の育児もいつまでも他人に任せてはおけないし、当然生活費もいるだろう。
そのために残された離婚届?香月は諦めのいい女だ。
ないものねだりは決してしない。
じゃあ、何かそんな理由があったのか?
一人ぐるぐる考える麻斗を見て、龍三郎はため息をついた。
「今は覚悟ができてないと見える。
今日のところはお引き取り願いましょう」
「そんな、何か一つヒントだけでも」
取りすがる長谷井に一瞥をくれて、龍三郎は静かに長年の貫録を持って答えた。
「お引き取り願おう。 今あなた方に話すことは何もない」
静かな拒絶だった。
気圧されて二人はとりあえず、マンションに帰った。