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月桂樹は裏切りをさす  作者: 和久井暁
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深まる謎

第六章 様々な登場人物


 T町の東部の住宅街に、その住宅はあった。

 白い壁の二階建ての建物だ。

 家に近寄ろうとすると、長谷井が麻斗の肩を持ちとめた。

「なんだ?」

「表札の字が違う」

「は? 遠坂は父方の名前なんだから苗字は違うだろ」

 表札は椎野しいのとなっていた。

「いいえ、香月さんのお祖父さんの苗字は須々すすきだそうです」

「なんで聡がそんなこと知っているんだ?」

「麻斗の結婚前に、香月さんの素性を調べました。

 高校以前はやはり調べられませんでしたが、大学での学歴の高さと、会社での仕事の評判のよさで旦那様も結婚を許可されたのです」

 それを聞いた瞬間麻斗が嫌な顔をする。

「そんな話聞いてないぞ」

「言ってなかっただけです。 それにしても誰が住んでるんでしょうね?」

 とりあえずチャイムを鳴らしてみる。

 ピンポーン……

 しばらく待ってみると、男性が出て来た。

「どちら様ですか?」

 若い男だ。 麻斗や長谷井とそう変わらない。

 黒い短髪に、丸い銀縁メガネの奥から光る神経質そうな細い目。

 家から出て来たのになぜか白衣を着ている。

「この家の方ですか?」

 麻斗より物腰が柔らかい長谷井が尋ねた。

「ええ、そうですが?」

「この家の以前の持ち主について何かご存知ありませんか?」

「いいえ、あなたがたはどういった方ですか?」

 不審そうに眼を細める男に二人は名乗った。

「私は御鈴院麻斗。それでこちらは友人の長谷井聡。

 いなくなった妻を探しています」

「ほう、そうですか」

「この家はあなたが買うまで空き家だったんですか?」

「ええ、まあそうですが何か?」

「以前のこの家の持ち主についてなにか御存じありませんか?」

「さあ、私もこの家を手に入れたのは一年ほど前なので、わかりませんね。近所の方に聞いてみたらいかがですか?」

「そうですか、ありがとうございました。

 失礼します」

 そう言って椎野邸、旧須々木家を後にした。

 近所にとりあえず聞き込みをするため麻斗と長谷井は別れた。



 麻斗は住宅街の団地らしく並ぶ東方面の住宅を。

 長谷井は西方面を聞き込みに行った。

 チャイムを押すと、人のよさそうな夫人が出て来た。

「まぁ! ニュースキャスターの、御鈴院さんそっくり!

  えっ、本人じゃないの?」

 麻斗は即座に営業スマイルで対応した。

「すいません、いなくなった妻を探しています。須々すすき氏のお孫さんなんですが、何かご存じありませんか?」

「須々木さん? ああ、今の椎野さんが住んでるところね。

 ええ、覚えてますよ。

 陰気で無愛想で、でもやたらとお孫さんを溺愛していた。

 こう言ってはなんですけど、かなりの変わり者でしたね。

 なんでも有名な医者だったらしいですけど、T町の市役所近くの病院で非常勤医師として勤めてらしたみたいですよ?

 腕は確かなそうですが、働かず、奥様を働かせて、四人の子供の世話も全部おしつけて、遊んでいたらしいですわ。

 私も途中から引っ越してきたんでわからないのですが、お役に立ちます?」

 年甲斐もなく頬を染める夫人に、麻斗は爽やかな笑みを浮かべながらお礼を述べて立ち去ろうとした。



 長谷井は椎野邸の西隣にある老夫婦の家に来ていた。

 チャイムを鳴らして、しばらく待つと、猫背の老婦人が首をドアチェーンを付けたままドアを開けた。

「はて、どちら様でしょうか? 見たことありませんね」

「私、長谷井と申します。 昔この隣に住んでらした遠坂香月さんの友人なんですが、その当人が行方不明になりまして、彼女の夫と一緒に探しているんです。 少しお話聞かせていただけませんか?」

「はあ、香月ちゃんの。 ドアを開けますから閉めますよ」

 そう言って、老婦人はドアを今度こそきちんと開けた。

「それで、香月ちゃんなんでまた行方をくらませたんだい?」

「それがわからないから探しています。

 旦那さんも子供さんも、私や他の友人たちも心配していらっしゃるんです」

 最初は胡散臭そうな表情で顔色を窺っていた老夫人だが、長谷井のその真剣な態度に心打たれた。

「香月ちゃんは一度、そこの家に帰ってきてたよ。 庭掃除をしてたら、タクシーが来てね。

 珍しいものだからちょいと覗いてみたら、香月ちゃんが家の中に入って行くところだったよ」

「それって、何年前のことですか?」

「いや、それがね、先週の事なんだよ。

 私も何かの見間違いかと思ったけど、裏から見てると、中に入って行っちゃってたからね」

「でも、それじゃ……一年前からあの家は椎野さんの物なんでしょう? 彼はご在宅だったんですか?」

「いや、その日も朝から出かけてたよ。 椎野さんは休日以外は出かけてるね。 医薬品会社に勤務だって言ってたよ。

今日木曜日だろ? 香月さんが来たのは先週の火曜日さ」

 先週火曜日、香月が行方をくらました日だ。

「そうですか、ちなみに香月さんは近所に友達は?」

「いないだろうね。 なにせいつも帰ってくるのは、高校時代は帰宅が夜の七時ごろだったし、休日は、連休や祝日、長期休暇などは必ず、お祖父さんと出かけてたからね」

「でもたまには早く帰ってくるなんてこともあるでしょう?」

 老婦人はやれやれと言いたげに呆れていた。

「あんたそれでも本当に友達かい?

 香月ちゃんはこっちに引き取られて、遠くの私立学校にいたんだよ。 当然、近所じゃ見かけるのも珍しかったが、たまに見かけると挨拶をきちんとする礼儀正しい子だったよ」

「それ、いつまでですか?」

「すくなくとも、高校でるときまではそうだったよ?」

「お忙しいところありがとうございました」

「早く見つけてやっとくれ」

 長谷井は老婦人の元を後にすると再び聞き込みを始めた。


 夕暮れ、麻斗と長谷井は合流して、一先ずマンションに戻ることになった。

 マンションの部屋に戻ると、薫が、いい匂いをさせて出て来た。

「おかえり! それとお疲れ様。 守君いい子にして待ってたよ~。

 なんか進展あった?」

「いや、それがあまり」

 二人ともくたくたに疲れている。

「すぐご飯だからねー」

 今日のご飯は和食だ。

 麻斗の好きな出し巻き卵、なめこと、人参、玉ねぎのお味噌汁、鮭の塩焼き、白菜のお浸し。

「守君、今日、幼稚園行ったのよ」

「えっ? そうなのか?」

「うん、時子さんから連絡があって、幼稚園の先生が心配してるって。ほら、もう一週間以上休んでるでしょう?

 それで、守君に電話変わったら、幼稚園行くっていうから、時子さんにもお願いされちゃって連れてったの。

 そしたら守君、あることを聞いたらしいの。

 幼稚園のお母さんたちの間で、香月さんが別居してるって噂が流れてるのよ。 それで守君も来ないって」

「本当なのか、守?」

 箸を止めた麻斗が、守に尋ねると、守はお味噌汁のお椀を持つ手を止めて言った。

「うん、陽くんやまこちゃんたちが言ってた。

 お母さんフリンしてるって、だから帰ってこないって。

 ねえ、お父さんフリンって何?」

「なっ……」

 その言葉に愕然とする麻斗。

「それは守君がまだ知らなくていい言葉ですよ」

 動揺する麻斗の代わりに、すかさず長谷井がフォローに入った。

「なんてこと言うんだ、あの幼稚園の親共っ!」

 顔を紅潮させて怒る麻斗に、「まあまあ」と言って長谷井が宥める。

 そしてご飯を食べ終わると、薫が冷蔵庫からアップルパイを出してきた。

「守君、食べれなかったら残して明日食べてもいいからね?」

「うん! ありがとう、薫お姉ちゃん」

 切り分けて皿に取り分ける。

「どうしたんだ? これ? 買ったのか?」

「うんん、守君と一緒に作ったの。 暇だったからね」

「へぇ~、生地から?」

「いや、冷凍パイシートで。 リンゴは紅玉が安く売ってたからね」

「でもすごいな、うまいよ」

 もぐもぐ口を動かして食べる四人は、食べ終わると、洗物して、守はお風呂に。 風呂上がりの薫と守に、長谷井が言った。

「薫、今日は守君と麻斗の家に行って話し合うから、先に寝といてくれ」

「何よ、私の前じゃ話せないことなの?」

「いや、そうじゃない。 守君に聞かせたくないだけだ」

「そう、わかったわ。 行ってらしゃい」

 二人は麻斗の部屋に行った。



 守を眠らせた後、二人はリビングで今日の話をし始めた。

「香月が先週の火曜日に椎野の家に? まさか密会……?」

「いえ、隣のご婦人の話では椎野氏は朝出かけたそうです」

「ってことは不法侵入? 何をしにそんな……」

「これは、推測ですが。 香月さんはあの家に守君に注射した薬を取りに行ったんではないでしょうか。 そして急いで帰ってきた。

 明日、香月さんのお義母さんに確認してみましょう」

「お義母さんか、あまり気は進まないがな」

 ため息が自然と出る。

「最近多いですね。 ため息」

「あ? まあそりゃため息つきたくもなるわ。

 あいつの事愛してるんだぞ? 突然、離婚届残して、あんな手紙残して消えるなんて……、冗談じゃない」

「よく恥ずかしげもなく言えますね」

「恥ずかしいが、公言しておかないと気持ちが揺らぎそうで怖いんだよ」

 そう言って髪を掻き上げた。

「自分に対してですか?」

「そうだよ。 状況が不利になっていく中、俺と守が最後の砦でいてやりたい。 実の母親ですら香月を持て余してるような中で、最後に支えてやれるのは俺だと思いたい。

 まあ傲慢だと、我ながら思うがな」

「いいんじゃないですか?

 好きな人に対しては多少強引でも傲慢でも、大事なものを守るためにはそう言う気持ちの強さは必要だと思いますから」

 思いもよらない長谷井の言葉に、麻斗は意味ありげに笑って尋ねた。

「お前もそうなのか?」

「ええ、まあ多少は」

「はは、お前らしくていい」

 麻斗の明るい顔に、内心ほっとしながら長谷井は首を傾げる。

「そうですか?」

「お前は自分の信じた目的のためには、邁進する情熱家だよ。

 話を戻すぞ? 俺の聞いた話では香月の祖父は、市役所近くの病院で非常勤医師をしていたらしい。 奥さんに子供と仕事全部押し付けてな。 やはり、何か引っかかる」

「奥さんの稼ぎだけでやっていけてたってことがですか?」

「それもあるが、非常勤医師ってそんなに給料いいのか?

 まず、それでも非常勤なんだから、正規の医師よりは給料安いだろ。 問題はなぜ、それだけの収入で一戸建ての家まで維持できたかだ」

「そうですね。 それにそんなに子供もいて、一戸建ての家を持っているのに香月さんを私立の学校に入れられたなんて考えにくい」

「私立の学校?」

 麻斗がますますわけがわからないと言いたげに眉をひそめる。

「ええ、香月さんは小学校からどうやら高校まで、私立の学校だったそうです」

「……香月の祖父にはそんなに蓄えがあったのか?」

「それでも長期休暇も、普段の休暇も必ずどこかに出かけてたそうです」

「ますます不可解だな」

「じゃあ、今日はここまでですかね?」

 そう言って長谷井は立ち上がって、うーんと伸びをする。

「ああ、助かるよ」

 玄関まで送った麻斗は、自分と香月の寝室で一人眠る守を見た。

 規則正しい寝息が聞こえる。

「待ってろよ、守。 必ず見つけて香月、取り戻すからな」

 頭の髪をくしゃっと撫でて、麻斗も眠りについた。


金曜の朝、シャワーを浴びて、朝食を作り、守を起こしに行った。

 守を今日も薫の元に預けて、車で長谷井と二人で君野の元に行く。

 チャイムを鳴らすと、君野が出て来た。

「麻斗さん……、香月は?」

「まだ、見つかってません」

「そうですか……。どうぞ」

 玄関のドアを大きく開けて、麻斗と長谷井を招き入れた。

 リビングに通され、お茶を出される。

「今日はかなり立ち入ったことをお伺いすると思います。

 しかし、香月を探すために協力をしていただきたいんです」

「それで今日は何をお聞きになりたいんですか?」

 沈んでいる。麻斗の以前の言動を考えれば当然か。

「香月の祖父、あなたのお父さまの事です。

 失礼ながら少し、調べさせていただきました。

 香月のお祖父、雅道さんは非常勤医師として働いてはいたが、稼ぎが足りなかったのか、奥様を働かせ、子育ても押し付けていたそうですね。

 その雅道氏がなぜ、香月を引き取ることになったんですか?」

「雅道は昔から頑固で、母を奴隷のようにこき使っていました。

 四人の子供を抱え、看護の仕事をしながら働く母は過労で私が二十歳の頃になくなりました。

 母が死んで、真面目に働くかと思いきや、雅道は頻繁にどこかに出かけることが多くなりました。

 仕事らしい仕事は週一度の非常勤医師だけ、後はどこにでかけてるのかも告げず、家事の一切を私たち姉妹に押し付けてました。

 食費を切り詰め、電気代を節約し、私たちは協力して身を寄せ合って生きてきました。

 でもそんな生活に私も嫌気がさして……、大学を卒業してすぐ、お見合い結婚をしました。

 でも、それでも結婚生活は悲惨でした。

 夫は暴力をふるうし、姑からは家事の一切に文句をつけられる。

 家事をこなすのには自信があった私も、流石に堪えたものです。

 香月が生まれてからは十年我慢しました。

 でも夫の暴力は止まらない。

 香月は姑に取り上げられるし、近寄らせてさえもらえませんでした。ここも地獄なのか。そう感じました。

 そして香月を連れて雅道の元へ帰りました。

 離婚を切り出すと、向こうはあっさり判をつきました。

 でも親権でかなり揉めました。

 結局、家庭内暴力が決定的となって私の方に親権が決まりました。

 それで裁判中からお付き合いしていた今の主人と結婚を。

 それから以前お話した香月の実父の事件が起きました。

 香月は父親というものに不信感を抱いていました。

 当然でしょう、実の父親が母に暴力をふるう様を毎日のように見て来たのですから。

 そして可愛がってくれる雅道に懐きました」

「じゃあ、香月さんが私立の小学校に移ったのもその時期ですか?」

「ええ、私は公立を押したんですが、学費は全て負担すると雅道が言いまして。 それに当時、主人も職がなかったものですから」

「でも、金銭にそんなに雅道氏は余裕があったんですか?

 仕事ぶりを聞いても、そんなに余裕があったとは思えないのですが?」

 長谷井が麻斗の言いたかったことを代弁する。

「わかりません、でも雅道は七十八で他界したとき、莫大な遺産を遺しました。 弁護士の伊豆さんと言う方が管理してくださってます」

「それでは遺産は均等に分配されたんですか?」

「いいえ、私たち姉妹には微々たるものしか残されてはいませんでした。 一番恩恵を受けたのは香月です。

 雅道は香月が十七の時に死んでます。 遺言によると、香月が大学卒業するまでの学費、生活費の負担は一切、雅道の遺産から充てること。 家、その他の金額は雅道氏の後継者となるべく人物が全て相続すること。

 そう言われて、私たちは愕然としました。

 雅道に嘲笑われてるような、そんな気がして」

「じゃあ、一年前にT町の家を処分されたのは、その後継者が現れたからですか?」

「は? なんのことですか?」

 君野は心底驚いた顔で目を見開いていた。

「我々はT町の家に昨日行ったんです。 しかし家は一年前に買い取られて、別人の物になっていました」

「そんな……、そんな話がありますか。 少し失礼します」

 君野は慌てて、リビングを飛び出た。

 そしてしばらくすると、怒鳴り声が聞こえてきた。

 帰ってきた君野は苛々とした様子だった。

「あの、大丈夫ですか?」

 長谷井の言葉に、君野は怒りを爆発させた。

「あなた方といい、香月といい、あの男といい、一体なんなんですか! 香月のためと言って、我が家の事情に土足で踏み込んできて、挙句に母や、遺産のことまで……。

 ええ、ええ、私が全て勝手に話したことですよ。

 でも、香月は離婚届を残して失踪したんです。

 あなたがたがそこまでして探す義理はないんじゃありませんか?」

 完璧な逆ギレだ。

 確かに他人のお財布事情や家庭事情に踏み込んだのは、二人の行き過ぎだったかもしれない。 だが、今日の収穫をなしに、真実に辿りつきそうなのも無理がありそうな話だった。

「そうですね。かなり失礼なことを伺い。 家庭の事情に土足で踏み入りました。

申し訳ありません、このことには弁解の余地もありません。

しかし、話していただいたこと感謝します」

もう話は無理だろうし、ない。

二人はソファーから立ち上がり、一礼して君野の元を去った。

 


 S市にあるパスタの店で、二人は食事をとりながら、今後の事について話し合った。

「かなり、親切に話してくれましたね」

「ありゃ、要するに愚痴だろう。 尽くした母や自分を顧みない父に対する。 ようは八つ当たりと、とばっちりだな」

 キノコとベーコンのクリームパスタを食べる麻斗が、やれやれと言いたげに言った。

 長谷井は白ネギと豚肉の、ポン酢のスパゲッティという変わったメニューを口に運びながら、状況を整理する。

 香月が姿を消したのが、先週の火曜日。その日香月は以前住んでいたT町の家に行った。

 そして翌日水曜日、麻斗の父武文を呼び出し、守と麻斗のことを頼んで、自らの命の危機を回避するためにどこかに行方をくらます。

 五日間、定期的に武文と連絡をとっていたが、連絡できなくなったと言い残して本格的に失踪。それが月曜日。

やっと仕事が一段落した麻斗が探し始めたのが今週水曜。

守が幼稚園で香月の不倫の噂を聞いたのが昨日木曜。

 そして今現在、金曜日。

「それでこれからどうする?」

「弁護士の伊豆とかいう人のところ行くしかないだろ。

 お前知ってんじゃないのか?」

「まあ、知ってますね。 結婚前に調べたから」

「……前情報知っておきたいんだがなんか知らないか?」

「はいはい、伊豆龍三郎。 現在八十二歳、弁護士。 伊豆法律事務所の前所長で今は顧問として後進の育成をしているようです。

 今現在の所長は息子の葵氏五十六歳、そして他、所員は三人。

 孫の嫁の青柳光、藤堂秋成、行政書士の瀬川明の三人ですが、彼らと香月さんの接点はありませんでしたので省きます。

 龍三郎氏は雅道氏と四十二年来の付き合いで、香月さんのお母さんの君野さんの離婚調停、親権の裁判などを請け負っています。

 さらに遺産相続のことについてですが、どうやら最後の案件らしく、この案件以降は弁護士としての仕事をとっていません。

 香月さんが十七の夏、つまり高校三年の夏に雅道氏は死亡されてますので、それ以降の進路の相談や、生活費、学費などは後見人として遺産からきちんと管理されているようです。

 まあ、相手は弁護士ですし守秘義務もあるからそんなに調べれたわけではないんですがね」

「龍三郎に後ろ暗いところや噂はないのか?」

「ありませんね。 全くもって清い人物ですよ。

 物腰の柔らかい穏やかな人物です」

「で、その法律事務所の場所は?」

「S市の南西部ですね。 ここからだと……そうですね三十分ってところですかね」

 長谷井が古いアナログ式のシンプルな時計を見た。文字盤の十二の下にブランド名が入っていて、三のところには日付の窓がある。

「お前それ、親父さんのプレゼントの……大事にしてるんだな」

 親父さんの、と言うのは長谷井の養父の事だ。

 高校入学式の朝、枕元に起きると丁寧に包装された長ぼそい包みがあったそうだ。 開けると茶色い革製のこの時計がだった。

 ブランドのロゴを見て長谷井は驚いたらしい、すごく高価なものだったからだ。

 それ以来高校では特に盗まれては大変と常に身に着けていた。

「ええ、養父には感謝が絶えません。

 いくら旦那様の秘書で給料は良かったと言え、厄介な子供を押し付けられたも同然なのに、高い学費までだしてくれて、育ててくれましたから」

「お前恨んでるだろ、父さんのこと」

 切り出した麻斗の方が気まずげな顔をして、長谷井はそんなこと微塵も感じさせない笑みを浮かべて言い切った。

「はい、恨んでます。 旦那様も恨まれる覚悟はおありのようなので、正直安堵しています。 自分の実父は勝手に作った子を人に押し付けて、知らん顔できるような外道ではなかった……そう思ってますから」

「さて、そろそろ出るか」

「そうですね」

 二人はそう言ってこの話を打ち切った。

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