交錯する思惑
第五章 交錯する思惑
そして麻斗は御鈴院邸に向かう。
麻斗は電話の内容が気になって、武文の書斎へまっすぐ向かった。
「父さん、どういうことです?
香月と別れろだなんて、どういうつもりですか!」
椅子の後ろにある窓から外を眺めていた武文は、ゆっくりと麻斗の方に向いた。
「別にどうと言うことはない。
ただいつまでも連絡のない相手を待っていても仕方のないことだ。
香月さんは跡取りを産んだ、それだけで十分だろう。
幸い離婚届も一緒に置いてあったのだろう?
もっと我が家に見合った家柄の人と結婚して、家庭に収まればいずれはお前も香月さんの事をわす……」
「冗談じゃない! 香月は俺が選んだ女性です。
あれ以上に愛せる女などいない!」
「確か十年前の女性のときも、お前は似たようなことを言わなかったか? 秋月穂波さんだったか。彼女は死んでしまったが。
香月さんに彼女の面影を重ねているんじゃないか?
どことなくあの二人は似ているからな」
「父さんでも言っていいことと悪いことがあります!」
「下らん感傷などなど捨てなさい。
おまえは御鈴院家の一人息子なのだ。
お前に跡取りとしての期待はしていない。
だが、守は賢いしすぐ吸収する。 申し分ない子だ。
相手の方には手切れ金を渡して引いてもらえばいいだろう」
武文は冷徹な目をしていた。
それはまるで取りつく島などないような、そんな隙さえ与えてはもらえない緊張感。
「守には母親が必要です。
あの子はまだ四歳だ、ただでさえも母親がいなくて不安定な時期にあの子の心まで踏みにじるのはよしてください!」
「怒鳴らんでも聞こえている。
だが最初に家庭を踏みにじったのは香月さんの方だ。
明日にでも守に、荻原先生のご子息のご令嬢と合わせる。
気立てのよい優しい娘さんだそうだ。
きっと守も気に入るだろう」
「そんな勝手な! 急すぎます!」
「いい加減聞き分けなさい麻斗」
「くそっ!」
ドアを乱暴に開けると麻斗は書斎を出て行った。
ずかずかと階段を下りてきた麻斗は玄関で、長谷井と鉢合わせした。
「麻斗様、どうされました?」
「父が明日、萩原さんとこの令嬢と守を引き合わせるそうだ。
お前、離婚届のこと話したのかっ」
「は? 離婚届? いったい何のことです?」
今一状況がよくわからないと言いたげに、長谷井は首を傾げた。
激情に駆られて麻斗は声を荒げ、長谷井の胸倉を掴んだ。
「とぼけるな! 香月がマンションの寝室に残していた離婚届のことだっ。 父は知っていたぞ」
「待ってください、麻斗様。 私はそんな話、聞かされてませんよ?」
焦って否定する長谷井は苦しげに呻いた。
「まあ、何してるの麻斗さん!」
血相を変えて、時子が麻斗と長谷井の間に割って入った。
「父さんが明日、守と萩原家のご令嬢を引き合わせると言ったんです。 香月の離婚届の事も知ってました。 長谷井が言ったんだ!」
「だからそれは誤解です! 麻斗様、私があなたに嘘をつくはずありません!」
「じゃあどうして離婚届の事を知っていたんだ!
……まさか、母さんが?」
疑心暗鬼に駆られた麻斗の頬をパシッと、時子が叩いた。
「いい加減になさい、麻斗さん! あなた長年支えてくれた聡さんまで疑い、その上自分の母親まで疑うとは情けない。 少し冷静におなりなさい!」
時子の一喝に苛々としてた麻斗も、深呼吸してため息を吐きだした。 ちなみに聡と言うのは長谷井の下の名前だ。
「すみません、長谷井もすまなかった」
「いえ、誤解だとわかってくださればそれでいいのです」
「聡さん私からも謝るわ。 こんな子でごめんなさいね」
「いいえ、奥様。 頭を上げてください。
私はそんな身分の者ではないですから」
「でもなんで夫は知っていたのかしら。 麻斗さん自分で言ったんじゃないの? それとも守ちゃんかしら?」
「まあ、意味はわからなくとも言ったのかもしれませんね」
「長谷井、守の病院での検査は時間かかりそうか?」
「ええ、一緒に注射器も渡してきました。 注射器の検査は時間がかかるそうです。 しかし全力を尽くすと約束してくれました」
ジャケットの襟を正しながら長谷井が答えた。
麻斗は何か考え込むように顎を撫で、唐突に言った。
「もう一度、父さんと話してくる」
「私も行きます」
長谷井が後に続く。
再び現れた麻斗に嘆息して、武文はその背後にいる長谷井にもまた呆れたような顔をした。
「長谷井、お前今日は勝手にどこに行っていた。
お前は私の基盤を継ぐことだけ考えていればいい」
「申し訳ございません、先生。
ですが私事でどうしても優先させたいことができてしまいました。
これからはそちらを優先させたいと思います」
長谷井は武文の愛人の子である。
長谷井もその事実を知っているし、養父母であった元々の秘書、長谷井家の元で育てられた。
実子の麻斗が政治に無関心なので、白羽の矢が長谷井に向かった。
ただそれだけのことだった。
麻斗も知らない訳ではない。 ただ何よりも兄弟であり同時に親友であるどいうだけのことだ。
「なんだ、麻斗。 何か言い残したことがあるのか?」
「ええ、一つ聞きそびれていました。
離婚届の事、あなたはどこで聞いたんですか?」
「それは、時子からだ。 たまたま家政婦と話していたのを聞いてね」
「あらあら、あなた、それは嘘ですわね。
私、麻斗から聞いて以来、誰にも話していませんもの」
ドアを開けてお茶をお盆に乗せてやってきた時子が、にこにこしながら言った。 部屋の隅に置かれた、対面式のソファーの前にある机に、四人分のお茶を並べる。
「何しに来た時子」
苦虫を噛み潰したかのような武文の顔に、時子はにっこりと笑顔で怒っていた。 絶対零度の笑みである。
「あら、当然麻斗さんを追い詰める悪い父親をこらしめるためですわ。 こってりしぼりますよ? さあ、みなさん座って」
四人は麻斗と長谷井、時子と武文が座った。
「あなた、何かいう事があるでしょう?」
「何をだ?」
「あ・な・た?」
「むう」
怒る時子の前には武文は赤子同然だ。
「……言えん。 時子でもこればかりは言えん」
「あなた、私たちはあなたが話してくれる前で、動きませんからね」
それでも喋ろうとしない武文に、三人の無言の責め苦が続く。
粘って、粘って粘った挙句に、武文が折れた。
「お前たち、しつこいぞ。 話したくないといっている」
「旦那様、お話しください」
「父さん、いい加減に言えよ」
「あなた、男らしくないわよ。
それに前不思議な電話があったわよね?
あのことも麻斗さんに話してないんでしょう?」
時子の指摘に、無言を貫く武文は居心地が悪そうだ。
「不思議な電話とは?」
麻斗の問いに時子が答えた。
「無言電話よ、麻斗さんが守を置いていった日から何度かかかって来た時に、武文さんがとって、この書斎にある子機繋ぐように家政婦さんに言ってたわよね」
「すぐに切れた」
「嘘よ。 私、麻斗さんに電話しようとしたら通話中で使えなかったもの。 それもずっと電話の前で待ってたのよ。
おそらくだけど、香月さんからの電話だったんじゃない?」
「……」
「図星なのね」
「本当ですか、父さん?」
武文は「はぁ」と、肺から息を吐き出して呟き始めた。
「初めて連絡があったのは、香月さんが出て行った次の日だ」
「まさか、母さんが温室に行った隙に出て行ったのって」
「香月さんに呼び出されたからだ」
「何を話したんです!?」
「守とお前の事、香月さんが置かれた状況についてだ」
湯呑の緑茶を飲み干して、言った。
「香月さんは、そして彼女のお腹にいる子は危機にさらされている。
香月さんはそれと戦う覚悟だ。
詳しい説明はなかったが、一応の説明は受けた。
守には母親が必要。 それは香月さん自身が痛いほどわかっている。 だが今、危機にさらされた状況で、麻斗と守のそばにいればいずれ害がお前達に及ぶ。 それを懸念して離れたそうだ。
お腹の子を救うこと、それがひいては自分を救うことに繋がる。そう言っていた」
「そんないざとなれば、俺が香月を守る。
でも離れたらそんなこともできなくなる……」
項垂れる麻斗に武文は続ける。
「香月さんから言伝だ。
『自分を責めないでほしい。 麻斗さんが悪いわけじゃない。
全ては自分の出生が悪いのだ』と。
時間がないと焦っていた。
どういう意味だと尋ねたが、逃げられてしまった」
「それだけですか?」
「いや、最近あった電話ではかなり疲れて、何かに追い詰められているようだった。 何があっても守を守ってほしいそう言われた。
随分な過保護ぶりだと思ったが、何か別の事を心配しているようだった。
冷静になって今の状況を説明するように言ったが、申し訳ない。
そして自分の代わりになる、新しい女性との婚姻を麻斗に勧めてくれ、そう言われた。 離婚届には署名も捺印も済ませてあるかあらと、それで知っていたわけだ。
連絡は毎日定期的にあった。
初めの電話で、定期的に時子が温室に行く朝の水やりの時間に、電話するように指定した。 ちょうど家政婦も来ていない時刻だ。
だが二日前に突然、『これから連絡できなくなった』といって連絡が切れた。 電話は常に公衆電話からだった」
「あなた他にまだ隠してることはありませんか?」
長い話の後だと言うのに、最後の告白の一滴まで搾り取ろうとするように、時子が微笑む。
「一度だけ、香月さんが奇妙な言葉を言ったのを覚えていた。
『しとけいかく』このことを、知り合いに尋ねたら、そのことは口にしない方がいいと釘を刺された。
独自に調べを進めたが出て来たのは最重要機密だった」
「なんですか?それは」
「知らないが、香月さんはこの計画に十中八九、彼女は関係していると睨んでる」
ボーンボーンボーン……。
六時を告げる置時計の鐘がなった。
「そろそろ守のところに行ってやらないと。 守の検査は今日で終わったのか?」
「はい、採血と体のレントゲンや脳波の検査などで、二時間ほどで終わりました。 今はマンションの薫のところに預けています」
「じゃあ、俺は長谷井と一緒に帰るから、父さん香月から連絡あったら伝えてくれ、『俺は絶対離婚届になんか、署名も判も押さないからな』って」
「わかった。 安心しろ、萩原さんとこの令嬢の話は嘘だ」
「そうですか。 良かった」
ほっと胸を撫で下ろし出ていく麻斗に、武文は目じりを和ませた。
「まるで父と母の若い頃を見ているようだ」
「今のあなたと私もそうでしょ?」
耳ざとい時子がそう言った。
麻斗が運転する車で長谷井が帰っていた。
「あの、麻斗様。 私が運転変わりましょうか?」
「いや、いい。 人の運転だとなんだか落ち着かないんだ。
知ってるだろう? 俺が乗り物に弱いの」
乗り物に弱い人は、自分の運転では一般的に酔いにくいらしい。
「それと、今は二人だし、これから薫さんと守のところに行くんだ。
学生時代みたいに普通に呼べよ」
視線は車道に据えたまま、麻斗が言った。
「しかし」
「いいから。 守にも普通に接しろ。 様をつけるな。
小さいことから奢ることを覚えさせたくないんだ」
「麻斗は相変わらずですね。 したたかな顔で、麻斗を追い落とすことを狙っていた頃が嘘みたいだ」
相変わらず穏やかな顔だが、自嘲気味なその顔は笑っていた。
「お前も変わったよな。 昔は穏やかに微笑んでいても、どこか抜身の刃みたいな雰囲気があったが。
俺や薫さんと関わるようになってから丸くなったな」
「ええ、あのころは自分が蛇のようだと思ってました。
したたかで、冷たくて、仮面のような笑みを張り付けてた。
薫に告白されたときも心は小指ほども動かなかった」
「でもしかしすごいよ。 薫さんはお前の仮面引っぺがして、蛇のような男でもいい、全部受け止めるから吐き出せ!ってお前に鉄拳いれたんだよな」
「ええ、あれは結構きました」
「腹抱えて悶絶してたもんな」
「昔の古傷です」
「あれからお前が本当に笑うようになったんだ。
ああ、お嬢様じゃなくて惚れたのが、レディースの総長ってのがすごい傑作だったな。
お前、政略結婚以外はしないって言ってたのに」
「ええ、あのころの私は秘書である養父を見習い、旦那様の後を乗っ取ることしか情熱を傾けてませんでしたから。
あの正直で、まっすぐな気持ちは眩しかったです」
「聡、お前はいいのか?
親父が認知すればお前も御鈴院の子息として扱われるんだぞ?」
「何をいまさら……」
「いや、今だからもう一度よく考えろ。
俺は確かに実子で直系の長男だ。 だから家の後は当然俺が継ぐ。
だが、俺は別に曾祖父の代から築いてきたすべての財産や、政治的基盤は受け継ぐ気はない。 逆に期待に応えられなかった俺に、兄弟がいたとわかって嬉しかったくらいだ」
「財産はいいんですか? かなりの物ですよ?」
「お前、俺が稼いでないと思ってるか?
この家柄と容姿のおかげで普通の人よりは恵まれてるぞ」
「ははは、麻斗らしいですね。 私はいいですよ、このまま長谷井の姓で。 気に入ってるんだ、それに養父母には可愛がってもらえた」
「実の父を父親と呼べなくてもか? 母さんはそんなの気にする人じゃないぞ?」
「いいんです、本当に。 父は養父だけで十分だ」
赤信号、停止した車内で視線が交錯する。
「はっ、負けたよ。 いい、今の話忘れてくれ」
「はい。 麻斗、今日からしばらくうちでご飯食べませんか?」
「ん? でも夫婦水入らずを邪魔するのは野暮ってもんだろう」
「いえ、薫も気にしないと思います。
二人だとあのマンションは少し寂しいでしょう?」
「まあ、な」
「それにこれから香月様の……、香月さんの行方を探す仲間なんだから気にしないでくれ」
「でも、お前仕事が……」
「今日旦那様の前で宣言したじゃないですか。
『優先させたい私事を優先するって』」
「まいったな。 確かに一人じゃ動きにくい。
頼むよ、他の奴らも仕事があるのに巻き込んでるしな」
「その点、私は身内ですから遠慮なく」
青信号になって、車はスムーズに走り出す。
ほどなくしてマンションについた。
長谷井がドアのカギを開けると、奥から薫が出て来た。
ベージュのマタニティドレスを着た、栗色の髪の大きな黒い目の小顔の女性だ。
「おかえり、あ、麻斗君も。 守君待ってるよ」
「なぁ、薫、悪いんだがしばらくうちで、麻斗と守君を食事に招待してもいいか?」
「あったりまえよ! なんでも言って!
私もそのつもりで用意してたし」
「あっ、長谷井のお兄ちゃん、お父さんお帰り」
「じゃ早く入って、入って。 今日寒いからシチューにしたの」
「洗面所借りるよ、薫さん」
そう言って麻斗は手洗いうがいをし始めた。
その後に続こうとする長谷井に、薫がジャケットの裾をクイクイと引っ張る。
「守君ハンバーグ嫌いだっけ?」
「いや? どちらかと言うと好物のはずだが?」
「夕食の献立何がいいって聞いたら、『ハンバーグ以外』って言ってたから。 どうしてって尋ねたら『嫌いになったからいいの』って」
なんか変な感覚にとらわれて、二人は首を傾げる。
四人はシチューのお皿と、それに合わせて買っていたパンや付け合せのサラダを食べる。
「おっ、偉いね、守君。 お野菜しっかり食べてるじゃない」
もともと面倒見の良さと、カリスマ性を買われてレディースの総長にだった薫は、子供好きな主婦だ。
「うん、お母さんがいつもほめてくれてたの。
頑張って食べれたねって」
「そっか、香月さんらしいね。 褒めて子供を伸ばすなんて。
そうだ、守君苦手なお野菜ある?」
「あるよ、ピーマンとニンジン。 でも、頑張って食べるよ」
麻斗と長谷井とは高校時代からの付き合いのある薫は、自分より先に母になった香月が少し羨ましかったり、憧れていたりするのだ。
「どうやっていっつもお母さんはピーマンとニンジン出してたの?」
「うーん、みじん切りにしたり、すり下ろしたり、ニンジンは切って茹でてお母さん手作りのソースにつけてきゅうりと一緒に出してくれた」
「へぇー、麻斗さんは知らないの?」
「まあ、あいつは結構ガサツに見えて、家事は意外にうまかったからな。 離乳食も夜中、守が寝た後に作り置きして、冷凍庫にいつもいくつかストックしてたぞ?
確か育児本は捨ててなかったから今度あったら貸すよ」
「助かるわ。 新しい本もいいけど、料理のレパートリーはたくさんあった方がこの子も喜んで食べてくれそうだし」
そう言って薫は出っ張ったお腹をさする。
「赤ちゃんいつ生まれるの?」
守がシチューで口の周りをベタベタにしながら、薫に尋ねた。
「うん? 五月の予定よ。 守君は七月生まれだから誕生日が近いね」
「赤ちゃん、どっちかな?」
「それは残念ながら聞いてないの」
「へー、聞いてないのか?」
麻斗がティッシュを一枚もらい、綺麗に畳んで守の口の周りを拭きながら口をはさむ。
「うん、どっちが生まれても、祝福してあげようって決めたんだよね?」
「ああ」
「なるほど、それで香月が妊娠の祝いに黄色選んだのか」
「うん、ちょっと前にもらったけど、あれたぶんどっちが生まれても着れるようにしてくれたんだよね。 流石よ、香月さん。
でも、今思えばその頃にはもう、出産直前に会えないからって渡してくれたのかな」
「きっとそんなことないさ。 彼女は強い人だからね」
「そうよね、ゴメンゴメン。 しんみりさせちゃって」
照れ隠しに笑う薫に、麻斗は軽く頭を下げた。
「絶対見つけて謝らせるから待っててくれ」
「約束ね」
食事を終えて、洗物を麻斗と長谷井、守のお風呂を薫が入れたいと言ったので、風呂場で一緒の二人。
「守君、香月さんにべったりなんですね」
「お前はいつも皿洗いか?」
痛いところを突かれて、麻斗は密かな反撃に出たが、長谷井はそれを流した。
「お風呂は普段どっちが入れるんです?」
「ん、香月だな。 俺は仕事柄深夜や早朝に出るときが多いから、守のことはほとんどかまってやれてない。
仕事人間の駄目な父親だが、それでも守も香月も文句を言わない。
恐らく香月が気を利かせて守に何か言ってんだろう。
今回のことでいかに俺にも、守にも香月の存在が大きかったかわかった気がする」
長谷井が洗った皿を次々と水でゆすぎながら、麻斗はしんみり答える。
「そう言えば守君、ハンバーグ嫌いになったんですか?
今日、薫が晩御飯なにがいいって聞いたときもハンバーグ以外。
奥様が守君を預かっていた時も、ハンバーグには手を付けずに残したらしいんですが?」
「もしかしたら守なりの願掛けなのかもしれないな。
もしくは香月がいなくなった日に最後に食べたのが、ハンバーグだったから忘れられないのかもしれない」
「願掛け……ですか?」
「ああ、香月の数少ない昔話の一つだそうだ。
好きなものを一つ我慢すれば、願い事が一つ叶うんだそうだ」
「なるほど、香月さんは酷い人だ。
なにか大事な理由があるとはいえこんな子供や、周りに心配かけるなんて」
「ああ、全くだ。 酷い奴だ。
なんなんだろうな、『しとけいかく』って」
洗物を終えて手を洗い、タオルで拭くと。 風呂場からも声が聞こえた。
「お風呂あがったよー」
あったまったからか頬がリンゴのように赤い守に、麻斗はしゃがみこんで「帰るか」と告げた。
「もう少しゆっくりしていきなよ。 どうせ二人じゃ寂しいでしょ?」
「だが……」
「麻斗、明日の事も話したいし。 もう少しいたらいい」
「そうか、そうだな」
しばらく色んな話をしたが、守は麻斗のふとももに頭をもたせて、眠ってしまった。
薫がすぐにフランネルの薄手の毛布をかぶせてくれる。
「香月さん、元気かな。 妊娠してるし心配だよ」
「ああ、今年の冬は特に冷えるからな」
「あいつのこと、ほんと俺知らなかった。
あいつ自分の親や、祖父さんに家に取り残されたことがあるらしい。 聞いて初めて今更ながらに、あいつの過去を垣間見た気がした」
「そうか、辛かっただろうな香月さん」
「明日は香月が、十歳から引き取られて育てられたっていうT町の家に行ってみようと思う」
「わかった。 守君は私が預かるから二人で行ってきて」
すやすや眠る守を見ながら、薫が言った。
その時、パチッと目を開けて、ガバッと守が身を起こした。
「お母さん」
寝ぼけてぼーっとしている守に、麻斗が声を掛ける。
「どうした、なんか夢でも見たか?」
「うん、お母さんが泣いてる夢」
「またか……」
「今度は違うよ? 場所が今度は変なところだった」
守の話は拙く、なかなかよくわからなかった。
薫が趣味で描く絵の下書き用の鉛筆と紙を持ってきた。
「守君、これにさっき見た夢の絵を描いてくれるかな?」
「うん」
まず紙の上半分に十字架を描いて、その下に幅広の四角い図形。
最後にその絵が少し隠れるように、黒い線を上から下に何本も一定の幅同じ長さ何度も鉛筆で塗りつぶすように描く。
どうやら女性の後ろ姿のつもりなのか、肩や手、スカートを描く。
「守、これがお母さんなのか?」
なんとなく墓と対面している女性の後ろ姿、それを見ながら守に尋ねる。
「うん、そうだよ」
「これって墓ですよね?」
長谷井の言葉に、麻斗も同感だった。
普通によくある和型と呼ばれる、台石二枚の上に細長い直方体の棹石の日本でよくみられる墓ではなく。
イメージ的には欧米などでよくありそうな、石の墓碑があり、四角い台石で蓋してあるようなそんな墓に近い。
「まるで日本の墓じゃないような感じだな」
「というか、こんな墓、守君は見たことあるんですか」
「いや、ないはずだ。 守こんな墓どこかでみたのか?」
「ううん、ないよ。 だから夢で初めて見たときちょっと怖かった」
「まあ、とりあえず今日はこれで失礼するよ。
長谷井、明日から頼む」
「ええ、頑張りましょう」
お礼を言って二人は帰った。 守を抱っこして麻斗が、家に入る。
「守、お母さんが帰ってくるまでお父さんと一緒に寝ような?」
「うん、わかった」
そうして二人で眠った。
木曜日、朝食を済ませて、守を連れて長谷井の家に行く。
「おはようございます。 麻斗、守君」
「守君、お姉ちゃんと一緒にお留守番してようね?」
守は頬を膨らませて、麻斗にしがみついた。
「やだ、僕もお父さんとお母さん探す!」
「こら、守。 言うこと聞きなさい」
「嫌だ。 僕お母さんに会いたい!」
守は滅多に駄々をこねる子ではなかったが、母親がいなくなってよほどこたえているのだろう。
「守、お母さんはお前の事を一番心配してるんだ。
もしお母さんが帰ってきたときに、守が元気じゃなかったら、お母さん心配するぞ。
お前にできることは、大人しくお留守番していることだ」
麻斗が守に言い聞かせると、うっと息を詰まらせ、みるみるうちに涙がたまっている。
「守君、薫お姉ちゃんが心配なんだ。 一緒にいてくれないかな?」
「なんで? 薫お姉ちゃんいつも一人でしょ?」
不思議そうな顔をして、長谷井を見る守に、長谷井はしゃがんで目線を合わせる。
「薫お姉ちゃんはお腹に赤ちゃんがいるだろう?
守君のお母さん、香月さんもお腹に赤ちゃんがいるんだ。
心配だろう? ここで薫お姉ちゃんと一緒にお祈りしといてくれないかな」
しばらく考えるように、守はじっとうつむいていたが、顔を上げた。
「わかった。 僕お留守番する」
「ありがとう、守君」
長谷井はそう言って守の頭を撫でた。
麻斗と長谷井は二人で電車に乗って、S県の北にあるT町に向かった。