僕を一人にしないでおくれよ
1978年、12月10日。ハリウッドの高級住宅街の一つ。1960年代に一世を風靡した映画プロデューサー、コモン・センスの邸宅で一人の女性の銃殺体が発見される。
彼女の名前はジャクリーン・メネス。駆け出しの女優で将来を嘱望されていたものの、なかなか大役に恵まれず、伸び悩んでいた女性だ。
時と場所はベトナム戦争が敗戦に終わり、憂鬱と倦怠に支配されるアメリカ。それは60年代の明るく陽気な世相、文化が遠のいた時代が影を落とす事件でもあった。
ジャクリーン。彼女のブロンドに染まる、毛先が軽くカールした髪の毛は、それは美しく魅力的で、人々を魅了してやまなかった。彼女の、今は閉じてしまった瞳は蒼い輝きを放っており、ミステリアスな印象さえあったという。
そんな彼女の銃殺事件。自殺か他殺か。警察はこの事件を署内随一の敏腕捜査官コンビであり、日系人捜査官でもある、タバタとタテオカに委ねる。タバタとタテオカは早速捜査を始める。
若々しく、躍動感溢れる長身が特徴のタバタ。そしてそのタバタに、絶対の信任を受ける四十代半ば、やや猫背な、だがその推理力の高さをうかがわせる、鋭い目つきが印象的なタテオカ。
その二人がまず最初に目をつけたのだが、この種の事件の王道。銃殺体の第1発見者であり、通報者でもあったコモン・センスだった。
タバタとタテオカは、コモンを事情聴取のために呼び寄せ、取り調べを始める。
「僕が? 僕が彼女を手に掛けた可能性があるだって? 警察官の想像力がたくましいのも考え物だが、B級映画並みのセンスだな。飛躍が過ぎるし、第一荒唐無稽だ」
そう言って、呆れ気味に両手を広げるコモンだが、彼がジャクリーンを手に掛ける動機は十分にあった。タバタとタテオカは先に聞き込みをしていた映画関係者の話を思い返す。
「コモン。そう。コモンとジャクリーンは付き合っていたんだよ。たしかに30も年の離れた二人だったが、なかなかに相性も良かったらしい。何よりコモンはジャクリーンの才能を認めていたし、彼女の適役を探そうと懸命だった」
そしてその映画関係者は付け加える。
「ジャクリーンの方も、そんなコモンを愛していたし、何よりコモンは一時期ハリウッドで全盛期を築いた男だ。勉強熱心なジャクリーンはそんな彼、コモンのことを大いにリスペクトしてもいたんだよ」
痴情のもつれ。タバタとタテオカはこの映画関係者の話を思い出すにつけ、コモンの動機に迫っていく。
タバタとタテオカに問い詰められたコモンは、自身の華やかなりし時代の逸話、そしてやや誇張された現況に触れて、それを否定する。
「痴情のもつれ。この僕が一人の女性に執着して、法を犯しでもすると思うのかい? ましてや殺人事件だなんて。考えづらい。この僕がどんな男か知ってるだろう。映画に興味のない人間でさえも、名前だけは聞いたことがあるはずだ」
コモンは大袈裟な身振りを交えて、煙草を燻らせる。
「僕の全盛期はそれは素晴らしいものだった。洗練された美男美女、あるいは才気溢れるクリエーター達が僕のもとを訪れては、僕に認めてもらおうと懸命だった。その来客はあとを絶たなかったくらいだ。僕はハリウッドのキング。王様だったんだよ」
コモンは深い二重瞼、瞑想状態にあるかのような魅惑的な瞳を、大きく見開いて話を続ける。
「これは過去の自慢話に聞こえるだろう? だがそうじゃない。さすがの僕も盛時の勢いは衰えたが、僕はやはりキング、王様のままなんだよ。だからこそジャクリーンのような若く美しい、才能溢れる女性が僕に魅了され、虜になったんだ」
タバタとタテオカは半ば独演にも思える、コモンの話にひたすら耳を傾ける。
「だから、この僕が、孤独感に苛まれて一人の女性に執着する、そして殺人にまで及ぶ。それは考えられない。あり得ないことなんだよ」
上気した様子のコモンは、ダメを押すように更に付け加える。
「彼女は僕の目の前で自殺したんだ。僕の猟銃を、銃器庫から取り出して衝動的にね。試しに事件に使われた猟銃を調べてみるといいよ。2年前に丁寧に手入れをして以来、僕はその猟銃に一切触れていない。僕の指紋なんて見つからないはずだから」
そこまで取り調べを終えて、コモンは一旦は釈放され、在宅待機を命じられる。コモンの言葉に半ば飲み込まれてもいたタバタはこう口にする。
「タテオカ警部。この事件、コモンの言う通り彼の手によるものではないかもしれません。ジャクリーン、彼女は、なかなか前途の開けない将来を悲観して、自殺した。コモンの目の前で引き金を引いたのは、愛するコモンの目に、その姿を焼き付けようとしたからだった。この線もあり得るかもしれません」
するとタテオカは思案げに口元へ、年輪の刻まれたその指先をあてる。タテオカにとっては、もしジャクリーンが自殺でなく、他殺であったなら、一番の容疑者はやはり彼、コモンになることは間違いがなかったからだ。
「いいや。わからないぞ。タバタ。安易に彼の話に引き込まれるのは邪道というものだ」
「邪道。なるほど」
そうして推理を進める二人のもとに、捜査班の一派から、コモンとジャクリーンが最後に言葉を交わした電話の履歴が送られてくる。そこにはコモンとジャクリーンの言い争う様子が残されていた。
タバタとタテオカが籠もる取調室に響き渡るコモンの声。そして言い抗うジャクリーン。
「ジャクリーン。僕のもとから離れるな。君は僕のもとにいれば、きっと才能が開花する。今は、今はたしかに、大役を引っ張ってくることは出来ていないが、必ず君はハリウッドスターとして活躍出来る。僕のもとにいればだ。これだけは約束出来る」
「コモン。その言葉は、何十回も何百回も、それこそ何千回も聞いたわ。私は、だからあなたのもとを離れなかった。私は3年も待ったわ。それなのにあなたの言葉が現実になることはなかった。私も限界よ。コモン。別れましょう?」
「ジャクリーン。バカなことを言うな。君は僕のことをなんだと思ってる。僕はハリウッドの王様、キングだ。僕の影響力がどれほどのものだと思っているんだい? 軽視し過ぎるのは危険だよ。ジャクリーン。事実、僕の声一つで一人の才能を潰す、あるいはハリウッドから抹殺することだって出来るんだ」
「今度は脅迫するの? コモン。あなたのそんな作り話にはもううんざりだわ。付き合い切れない。実際あなたのハリウッドでの影響力は落ちている。だから、私は待ちくたびれたの。愛も枯れた。別れましょう。コモン。それが二人のためでもあるのよ」
その言葉に敏感に反応したコモンは、懇願するように、ジャクリーンに呼びかける。
「待て! ジャクリーン! 僕から離れるな。それはきっと不幸と悲劇を二人に招き寄せる。だから君は僕のもとにいるべきだ。お願いだ。ジャクリーン。僕から離れないでおくれ。いや、僕から離れるな! お願いだから……!」
そこで通話の履歴は途絶え、音声はノイズに変わっていた。捜査班に訊くと、あと少しでコモンの最後の言葉も修復出来るという。電話の履歴を聞き終えたタバタとタテオカは言葉を交わす。
「動機の面では、これで決まりですかね。タテオカ警部」
「ああ、あとは状況証拠をどう揃えるかだ」
タバタとタテオカはさらに聴き込みを続ける。二人は、コモンとジャクリーンの関係が破綻し、それが理由で殺人事件にまで発展した証言を集めようとする。
先の映画関係者とはまた別の男。プロデューサー、あるいは小さな映画会社の社長でもあるリガー・エステメントに、タバタとタテオカは接触する。彼は僅かだが、コモンとも親交のあった人物だ。
リガーはこう証言する。
「いや。実のところ、ジャクリーンとコモンの仲はもう壊れる寸前だったんだ。コモンは彼女との約束を果たしきれていなかったし、ジャクリーンはジャクリーンで別の映画プロデューサーの手で、大役に抜擢されかかっていたからね」
「それに」と言って悲しい事実をリガーは付け加える。
「コモンの影響力はもう衰えていた。彼は前妻と別れて以来、孤独だった。借金も抱えていたようだし、過度のアルコール中毒にもなっていたようだ。彼がジャクリーンを手放したくないと思ったのは、その寂しさゆえ。あり得るかもしれないね。色々と」
タバタとタテオカはこの証言を筆頭に、コモンがジャクリーンに執着せざるを得なかった理由を、犯人立証のためにも幾つも集めていく。
タバタとタテオカは取調室にて煙草で一服すると、話をまとめる。
「コモンの周辺事情から察するに、コモンは私生活で非常に逼迫した状況にあった。彼のプライベートは彼が誇張するような、派手で華やかなものではなかった。つまりは」
そのタテオカの言葉をタバタが引き継ぐ。
「彼は最早、ハリウッドのキング、王様ではなかったということですね」
「残念だが、その通り。かつて盛時を誇った彼も、一人の人間だったというわけだよ。超人にはなりえなかった。彼の名前がコモン・センス。『普通の感覚』だったとは皮肉な話だ」
タバタは一瞬悲しげな瞳を見せるも、職務に忠実であろうとする。
「さて。あとは彼が、コモン・センスが、至近距離から彼女、ジャクリーンを射殺したという証拠を集めるだけですね」
その言葉を聞いたタテオカは短く刈り上げた、自分の髪の毛に手櫛を入れる。
「その点だが、ほら、彼は言っていただろう。『猟銃から僕の指紋が見つかるわけがない』と。事実、綺麗に手入れされた猟銃からは、ジャクリーンの指紋しか見つからなかった。彼が二年前に手入れした時も手袋か何かをはめていたのだろう」
「その穴をどう埋めるかですね。タテオカ警部」
タテオカは煙草の火を揉み消すと、立ち上がる。
「さぁ、事件現場をしっかりと調べてくれた監察に向かおう。そこで全てが明らかになるはずだから」
そう言って監察に向かったタバタとタテオカは、そこでコモンによるジャクリーン殺人の決定的な証拠を得る。監察官はタバタとタテオカに告げる。
「猟銃には、たしかにコモンの指紋は残っていませんでした。しかし」
「しかし?」
タバタが尋ねると監察官は答える。監察官の調査と、彼のもとに集まった情報はほぼ完璧なようだった。
「手袋の素材の一つ。アンゴラの毛が付着していましてね。同時にそのアンゴラの手袋を、事件の三日前にコモンが購入したのも確認されています」
「なるほど。では銃器庫についた指紋の方は?」
ついに核心に迫ったタテオカはもう一つの盲点について訊く。
「それなんですがね。銃器庫にジャクリーンの指紋は見つかりませんでした。つまりは」
その言葉をタテオカは引き継ぐ。
「つまりはジャクリーンが銃器庫から、猟銃を取り出したというコモンの証言は」
「全くの嘘偽りということになりますね」
その監察官の言葉を聞き届けたタバタとタテオカは、早速コモンの招集礼状を取り寄せる。
再び呼び寄せられ、いよいよジャクリーン殺人事件の犯人と特定されることになるはずだったコモンだが、事件は悲しむべき結末を迎える。
コモンが短銃自殺したのだ。その弾丸でこめかみを貫いて。
事件現場に到着したタバタとタテオカ。コモンの哀れむべき死体を見つめてタテオカは零す。
「王は失墜し、殺人犯となる前に、自害す。か」
タテオカの言葉をタバタが引き継ぐ。
「彼は、コモンは、自分が殺人犯と立証されることを覚悟していたのでしょうか」
「恐らくな。遺書には意味ありげにこう綴られていたよ。『王は愛の褥に横たわり、罪を悔い、愛すべき人のもとへと旅立つ』とね」
感情に流されることの余りないタバタも、さすがに切なげだ。
「それは詩的、ですね」
「さぁ、これで事件は一件落着だ。署へと戻ろう。そこでは、コモンが最後にジャクリーンに言い残した言葉を聞けるはずだから」
そうして警察署に戻ったタバタとタテオカのもとには、修復され、聴き取れるようになっていた、ジャクリーンとコモンの会話のやり取りが届けられていた。
二人の最後のやり取り。そこではたしかにコモンはこう言っていた。哀願するように、切なげに、今にも泣きはらさんばかりに。こう。
「お願いだ。ジャクリーン。僕から離れないでおくれ。いや、僕から離れるな! お願いだから……!」
一瞬の沈黙ののち、痛切に響き渡る、コモンの声。
「僕を一人にしないでおくれよ」