空想フレンド
「――――気持ち悪い」
彼女はそうハッキリ言うと廊下に座り込んだままの俺を、何の感情も窺えない目で見下ろした。その無表情な顔に、俺は動くどころかまともな言葉すら出てこない。
「――っあ、」
できたことと言えば、喉につっかえてかすれた、情けない声を出すことだけだった。
そんな様子の俺には興味がないのか、彼女はすぐに顔を上げてこちらに背を向けると立ち去ってしまった。
廊下の先で小さくなっていく彼女の背中を、ただ茫然と眺めていた俺は視界の端に映り込む物を見つけ、ハッと我に返る。
立ち上がると、開いた窓から入り込む風にはためくそれを急いで拾い上げてチャックが開きっぱだった鞄の中へと乱雑に突っ込んだ。
ふっ、と口から短く息を吹きだして心をひとまず落ち着ける。そうしてから、ふと、さっきまでの光景を誰かに見られていないか不安になり辺りを見回した。
誰もいない。窓の外から部活に勤しんでいる生徒の掛け声が聞こえてくる。廊下は自分以外に人の気配はなく、外とは対照的に静かだ。
早く帰ろう。
生徒用の下駄箱に向かうため、慣れない廊下を力なく一歩踏み出した時だった。
ポケッ。
何か柔らかくて軽い物が足に当たった。
それは俺の進行方向から少し斜めへ滑るように進み、壁に当たって止まる。蹴ってしまったことで、初めてその存在に気が付いた。
青いクマ。力なく廊下の隅に横たわるそれはストラップにしてはかなり大きい、ぬいぐるみだった。
近づいてそれを片手で拾い上げる。
……手作り?
クマだと思ったそれは、明らかに左右ずれた位置に小さい耳があり、目の部分には色も形も不揃いなボタンが縫い付けられ、鼻は黒い糸でYの字にぬってある。中の綿が少ないのか全体的に平たい体と頭、縫い目は荒く、上から何度も縫い直したあとがあった。
こうやって近くで見ると、『………………くま?』と首をかしげたくなる。
流石に売り物ではないだろう。こう言ってはなんだが、これを作った奴は下手すぎるし、センスがない。
薄汚れた青色をまじまじと見つめて、はっとした。
そういえば、さっきの彼女、手元に何か青い物を持っていなかったか……?
そして、去り際には何も持っていなかったような。
こんな所に落ちているのだから、誰かの落とし物なのは確かだが、誰が落としたかなんて俺に分かるはずかなかった。
しかしこの時の俺は何故か、コイツの持ち主は彼女の他にいないと、そう、確信していた。
――さて、どうすりゃいいかな……。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
高校一年の秋、俺は転校することになった。
せっかく受験して入った高校とは、たった数か月でおさらば。夏休みの間に編入試験を受けなくてはいけなくなった時は流石に親父の転勤を恨んだ。
こういう場合、普通は単身赴任とかになるんだろうが、専業主婦で親父を頼りにしているおふくろは離れて暮らすことを嫌がった。ついでに俺を一人残していくことも拒んでくれちゃった訳だ。
まあ、恨んでいたのも編入試験の時と転校初日くらいだったが。
十月に入り、衣替えから新しい制服になった俺は放課後のチャイムが鳴ったばかりの騒がしい廊下を進んでいた。向かう先は渡り廊下を行った先の第二校舎だ。
転校して来てから一か月もたてばこの校舎にもなれ、迷うこともない。
渡り廊下に出ると乾いた風が頬を撫でていった。気持ちの良い風に目を細める。
まだ暑い日もあるが夏に比べると湿気もなく、過ごしやすい日が続いていた。けれどやっぱりまだブレザーを着るには少し暑いと感じてしまう。
涼むのもそこそこに、第二校舎へと入った俺は目的の教室に向かった。
俺には他人に知られたくない秘密があった。
名前、辻本旭、年齢、十七歳、至って健全な男子高校生。
趣味、特技は――――、手芸。
おふくろの趣味に影響を受けてしまった俺は気が付いたら手芸が上手くなっていた。最近ではおふくろにねだられてレース編みなんかを始めたばかりだ。
運動が得意じゃない俺としては、指先で物を作り上げていく手芸は中々楽しかったりする。
……が。
男として、この趣味はどうかと思う自分がいる。こんな、女々しい物……知られればきっと、バカにされるに決まっている。
俺は、誰よりも自分の趣味を恥ずかしいと感じていた。
当然、この小さな秘密は新しい環境でも変わらず隠していく。
――あ、いや……隠していく、つもりだった。
あの廊下で彼女とぶつかるまで……。
「ちーっす」
ガラリと目の前の扉を横にスライドさせて開く。難なく滑る軽い扉は未だに慣れない。前の学校ではどの教室の扉も建付けが悪く重かった。
そのせいか、勢いよくスパーンッと開いてしまうこともあったが今日は静かにできた。
「……あれ、まだ誰もいない」
チョークで薄っすらと白くなった黒板、六人がけの大きな机が六つ、その机の上にひっくり返して置かれた背もたれのない丸椅子、窓際に並べられたミシン台、丸裸で寒そうなトルソー。
被服室には誰もいなかった。
普通教室と変わらない大きさの室内は閉め切られていたのか廊下に比べて暖かい。
とりあえず空気の入れ替えの為に窓に近づいた。
「あだっ」
不意に後ろから誰かの声が聞こえて振りかえる。しかし、振り返った先には誰もいない。被服室内は静まり返ったままだ。
「……? 空耳か」
不思議に思いつつも窓を少し開くとさらりとした空気が教室に入り込んでくる。
さて、昨日の続きでもするか。
背中のリュックに入った作りかけの物を思い返しながら近くの机から椅子を降ろして、椅子の代わりに空いたスペースにリュックを置いた。
その時、視界の隅に何かが横切った。
机と机の間の通路、そこに何かが通った気がして、その場から動かずにまじまじと見てみるが、特に何かがあるようには見えなかった。
もしかしてゴキブリ……? いや、それにしてはデカかったような。
あの黒光りする害虫だったとしたら、後々面倒なことになる可能性もあるし、ヤッといた方がいいかもしれないと、リュックを開いて中から今日帰って来た用済みのプリント数枚と教科書を取り出す。教科書を筒状に丸めてその上にプリントを重ねた。
流石に虫の残骸が付くことだけは避けたい。
即席の虫叩きを右手に装備してそろそろと何かが駆け抜けた辺りに近づく。
ゴクリと唾を飲み込むとそっと机の端に手を置いて、その先、机の影を上から覗き込んだ。
そこにそいつはいた。
ぽむぽむ、まるで体に着いた塵を払うような仕草をしている青いクマ。
青いクマ。
「は?」
気の抜けた声が開いた口から漏れる。
こっちに気が付いたそれが俺を見上げ、目が合った……ような気がする。
被服室内の時間が止まる。
クマも俺も固まったまま動かない。
そんな中、先に行動したのは青いクマだった。
「……い、いやーん、えっちぃー、だベア」
ギギっと音がしそうなぐらいぎこちない動きで胸元を隠すように両腕を重ね、内股でもじもじと体をくねらすクマ。
「む、無理あるだろっ!」
――そのごまかし方は苦しすぎだっ!
気が付いたら、見当違いな事を叫んでいた。
……、いや、落ち着け俺。今突っ込む所はそこじゃないだろ。
「ぬ、いぐるみが、しゃ、喋って、う、動いてる……!」
そう、今の問題点はこれだ。
なんなんだ、こいつ。え、機械式の奴だったけか、これ!? い、いや待て、そんなはずはない、だってこれは……!
混乱して、頭の中がグルグル回っている俺は額に右手を当てたまま、そこから動けずにいた。
「っく……、こうなったら……!」
キラリ、その一瞬、クマのボタンで出来た目が光った気がした。
「記憶とおさらばバイバイしてもらうしかないだベア!」
「はあ!?」
何か不吉なことを言い出したクマは素早い動きと凄い脚力で机の上に飛び乗った。
その勢いのままこちらに飛びかかってくる!
「スーパーくま太キィィィック!!」
「うぶっ!」
顔面に柔らかい物が勢いよくぶつかる。
まさか顔に体当たりしてくるとは思わなかったのと、視界が遮られたせいで体のバランスを崩した俺はそのまま後ろへとよろける。
反射的に動かした足はたたらを踏み、態勢を立て直すことは出来なかった。
キックじゃねぇーー!
「ぐっ……!」
背中に衝撃が走り、間髪容れず尻からも衝撃が這い上がってきた。
い、痛ってぇーーーーっ!
思わず、そう叫びそうになったが、顔に張り付いた物のせいでくぐもった声しか出ない。
じわじわと広がっていく鈍い痛みに耐えながら、俺から視界と言葉を奪い続ける邪魔者をなんとか顔から外すために片手でそれを掴んで引っ張る。
「アアン、もっと優しく扱ってベアー」
「むぐ、ぐぐぐ!」
気持ち悪い声を出すんじゃねぇーっ!
綿しか詰まっていない体のどこからそんな力が出ているのかと思うぐらい、しつこくしがみ付くクマを勢いに任せて引きはがす。
「ぶっは!」
やっと取れたことに安堵しながらも、引っ掴んだまま持ち上げた俺の顔と同じくらいの大きさである青いクマを睨みつけた。
「い、いやん、恥ずかしいベア。あんまり見詰めないで欲しいベア~」
目元を隠すように両手で自分の顔を覆ったクマは、またもじもじとし始めた。
その姿に、さっきまでの驚きよりも、腹の底から湧き上がってきた苛立ちの方が上回る。
「ふ、ふざけんなよ、お前……!」
こちとら、お前のせいで背中とケツが痛いんだよっ!
「きゃーっ! ぼ、暴力は良くないベアーっ!」
まだ何もしていないのに、悲痛な叫び声をあげたクマはじたばたと暴れだす。
俺たち以外に誰もいない部屋の中は音が反響して、やけにその声が大きく聞こえた。
「ぼっ……!」
暴力で解決しようとした奴が何言ってんだよ!
そう吐き出そうと、声を上げた瞬間だった。
俺たちの近くにあった扉がガラリと開いた。
「…………」
首だけを動かして開いた扉の方を見る。
紺のソックスにこの学校指定のスカート、ブレザー、リボン。扉向こうの廊下にはショートヘアーの女生徒が冷ややかな目で俺を見下ろしていた。
「…………」
「…………」
「…………」
いきなりやってきた沈黙が痛い。
音が仕事をボイコットしてしまったんじゃないかと思うくらいの無音が教室内を満たしていた。
あれだけ騒いでいたクマはぐったりとしたまま動く気配もない。まるでただのぬいぐるみだ。
「……よ、よう、」
「…………誰か、いた?」
「お、俺一人だけど?」
反射的にそう答えていた。
「……そう」
「そう!」
「………………」
「………………」
そしてまた沈黙。
動かない彼女とクマを持ったまま床に座り込む俺。この状況に少しのデジャヴを感じた。
「……それ、気に入ったの?」
――喋りかけるほど。
ピシャーンッ!
俺の脳天から足のつま先まで落雷のような衝撃が駆け抜けた。
こいつの声やらなんやらは廊下まで聞こえていたのかもしれない。そうすると、彼女からしてみれば俺はぬいぐるみと会話をする、イタイ奴ってことか……!?
さっきの反射的に言った言葉を後悔した。
「ちっ! 違う! べ、別にそんなことしてないから! 七海さんの聞き間違いとかじゃないかな!? 俺はただ、こいつが落ちてたから拾っただけで……!」
「……そう」
ピクリとも動かない表情のまま彼女はコクリと頷く。何故かその様子が少し落胆したようにも見えた。
何かを期待していたかのようでもある。
……俺は彼女にどういう奴だと思われているんだろうか。
「し、しかも拾う時にすっ転んじゃってさー! ……あ、あはははー」
「……………………そう」
いや、そもそも俺に興味なんてないか。
虚しい俺の笑い声が反響した。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
「ぷぷっ」
目の前のクマが鼻の下、口元辺りを片手で抑えて忍び笑いをする。嬉しいのを抑え込んでいるようにも見えるが、その声にはこっちをバカにした色が混じっているような気がしてならない。
夕日色に染まる被服室には俺とこのクマしかいなかった。
一つだけ机から降ろした椅子に腰かけた俺とその前の机の上に座るクマ。
自分でも片眉がピクリと上がったのが分かった。
「こーんなぷりちぃなテディベアが動いて喋るなんて、普通は言えないベアねー」
「お前のどこがプリティんだよ」
「むっ! ヒナちゃんは可愛いって言ってくれるベア! ヒナちゃんのことをバカにする気ベア!?」
「べ、別に、そこまで言ってないだろ」
そ、そうか、七海さん的にはこれは可愛いのか……。
七海陽、俺と同じ一年生で別のクラスの女生徒。俺が転校初日に廊下でぶつかってしまった相手でもあり、このクマの持ち主だ。
ショートヘアーと少し吊上がった目を持つ彼女の最大の特徴はそのあまりにも変わらない表情だったりする。ポーカーフェイスと言うよりか、無、と言った方がしっくりくるほどだ。
って、話が逸れた。
「それよりも、お前なんなんだよ」
「ん? オイラはヒナちゃんが作ったテディベアだベア」
「それは知ってる」
「むふっ、それはそうだベア~。廊下に落ちちゃったオイラをヒナちゃんに届けたのは旭だベア~」
含みのある言い方にイラッとした。
喋って動くこのぬいぐるみは落ち主と同じように表情は変わらないのだが、何故かニヨニヨと笑っているように見える。
「いやぁ、それにしても、あーんなこと言われて、良くヒナちゃんを追いかけたベアね~」
「落とし物を持ち主に届けるのは当たり前だろ」
「でもヒナちゃんと同じ手芸部に入ったベア。あ、もしかして旭って巷に聞くMってやつベア?
「ちげーよっ!」
さっきから、こいつは何が言いたいのか。
べ、別に俺は七海さんが気になって手芸部に入ったわけじゃなくて、ただ、転校初日に彼女に言われたことが、頭から離れなかっただけだ。
「……あんなこと言われたの、初めてだったんだよ」
不注意で彼女とぶつかった俺は、すっこけただけではなく、肩にかけていたスクールバッグも廊下に落とした。その時、ちゃんと閉めていなかったバッグの中から、他人には見られたくない物が飛び出してしまった。
レース編み・初級。
可愛らしいレースの写真が表紙のその本を彼女に見られた俺は、聞かれてもいないのに、あれこれ言い訳を並べ立てた。
結局、無表情で聞いていた彼女に耐えきれなくなった俺は、
「……お、男がこんなの、気持ち悪いだろ」
最後にそんなことを零した。
「……別に。何かをやるのに男とか、女だとか、関係ないと思う。好きなら好きで良いし、むしろそんなことを気にして隠している方が、気持ち悪い」
そう、彼女は言った。
好きな物を好きと言って何が悪いのか。
真っ直ぐに向かってきた彼女の言葉に少なからず衝撃を受けた。
好きな物を好きと、ずっと言えずに来た。もしかしたら、隠さなくてもいいのかもしれない、何故か、そう思った。
「……ヒナちゃんは何でもストレートに言っちゃうんだベア。そのくせ、言葉が足りなかったりするから、あの時追いかけてくれて、オイラ嬉しかったんだベア」
「べ、別に」
彼女のことが、あれから気になっているのは事実で、手芸部に入ったのも、自分に素直になってみようと思ったのと、七海さんみたいな人がいるのなら、もしかしたら大丈夫なのかもしれないと思ったからだった。
ただ、Mではない。俺は断じてMではない。
「って、ことで、このくま太さんが恋のキューピッドになって、あ、げ、る、だベア!」
「何でそうなんだよ!」
きゅぴっ。
ブリブリと可愛い子ぶるクマに、俺は力の限りツッコんだ。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
俺の斜め向かいには黙々と十一月にある学園祭に向けて作品を作っている七海さんがいる。
今、被服室には俺と彼女しかいなかった。
手芸部の主な活動曜日は月水金。その他の曜日も顧問に言えば被服室を使えるのだ。
今日は火曜日、正式な部活動のある日じゃない。
彼女が今作っているのは手のひらにすっぽりと収まってしまうぐらいの小さなクマだった。チクチクとカラフルな羊毛を先がかぎづめ状になっている針で刺している。
最近流行りのニードルフェルトというやつだ。おふくろもハマっていて良くやっている。
くま太のクマ再現度や制作技術からして、彼女の腕前はどんなものかと思っていたが、実際はとても上手い。
俺が見ている限りだと、ぬいぐるみ、編みぐるみ、ニードルフェルトと、動物系の物を作るのが好きで得意らしかった。
「七海さん」
「……何?」
レースのコースターを作っていた手を止めて七海さんに話しかけると、彼女は作業をしながらも答えてくれた。
さっきから、彼女の後ろ、窓際の棚の上に置かれたくま太がこちらを見て「話しかけろ」と合図を送ってきていた。
「くま太のことなんだけどさ、あれって、いつごろ作ったの?」
くま太の体は薄汚れていて、少し時を感じる。
「……小学三年のころだったと思う」
「え、三年生? 三年生でぬいぐるみ作ったのか」
「うん、くま太が初めて作ったぬいぐるみ」
相変わらず手を止めない彼女だが、くま太の話題だとスムーズに会話が進む。
……七海さんは普段、無口であまり話さない人で、話しかけても会話にならずに終わってしまうことが多い。
「初めてであそこまで作ったんだ、すげー」
正直な感想だった。
確かに最初にくま太を見たときは下手だと思ったが、そんな子供の頃に初めて作った物としては、良く出来ている。
「……辻本くんは、初めて作ったのは何?」
「えっ?」
動かしていた手を止めて、七海さんは俺の目を見た。
まさか、彼女の方から話題をふってもらえるとは思わなかった俺は一瞬、反応が遅れる。
「あ、ああ、なんだったっけかな……」
確か、きっかけはおふくろがいつも楽しそうに手芸をやっていたから、自分もやってみたくなった所からだった。
「ぬいぐるみの、マフラーだったかな」
「……ぬいぐるみの?」
「そ、おふくろが作ったウサギのぬいぐるみの」
初めてやったのは編み物だった。表編みだけの簡単で小さなマフラー。そういえば、引っ越しの時に出てきた懐かしいそれを、おふくろが嬉しそうに新しい家の棚に飾っていた。
「小二の時だったからさ、網目を飛ばしたりしてボロッボロだったけど」
「……そんな前からやってるの」
「まーね」
表情は変わらないけど、少し驚いているようだった。
最近、分かってきたが、七海さんは別に他人と距離を置いているわけでも、気取っているわけでも、気難しいわけでもなく、ただ、感情を表に出すのが得意じゃないだけなんだろう。
あと、話すのも苦手。
よくよく見ていると案外素直で分かりやすい性格だ。
今だって、自分の好きな手芸の話題で楽しそうだ。彼女の周りに花がまっている幻覚が見える。
こうなってくると人間、欲が湧いてくるものだ。
……笑顔が見てみたいな。
ふと、気が付けばそんな事を思っていた。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
「むっふっふっふーん。上手くいってるベアねー?」
「……何がだよ」
「えー? かまととぶってんのぉ? だベア」
「いちいちムカつく奴だなお前」
誰もいない被服室での会話はここに来た日の恒例行事となっていた。おかげで、最近の戸締りは新参者の俺がしている。
目の前の青いクマは上機嫌だった。そんな姿を見ながらふと、思った。
「そういえば、何でお前はここに置かれてんだよ」
ここで作られたわけでもなく、ずっと七海さんの家にいたはずのくま太が何故、学校にいるのか。
持ち主の七海さんが持って来たのは明白だけど、ずっと被服室に置かれたままである理由が分からない。
彼女の話を聞いていると、名前まで付けて大切にしているのが分かるのに、何故なんだろう。
「若者よ、たまには距離を置くことも愛が長続きするコツなんだベア」
「愛ってなんだよ……」
仁王立ちしたくま太が、ちっちっち、と口を鳴らして諭すように腕でこっちを指してくるのに、溜め息交じりでツッコんだ。
こいつの相手は疲れる。
「で? 本当のところはなんなんだよ」
いつも話を逸らしてくるくま太だが、今日は逸らさせないように話題を戻す。
「……知りたい?」
「知りたい」
急に大人しくなったくま太はこっちを伺うように不揃いな二つの目を向けてきた。
俺が頷くと、少し迷うな素振りを見せた後、ぽてり、と力なく座り込んだ。
「……お別れの準備」
俯いて、自分の座り込んでいる机を見つめたくま太が、ぼそりと呟いた言葉の意味が分からず、俺は首を傾げた。
「お別れ? ……て、なんだよ」
「お別れはお別れだベア」
くま太はこっちを見ない。バランスの悪い耳がへにょん、と垂れているように見えた。
「……ヒナちゃんは、不器用さんだから良く勘違いされるんだベア」
それは、まあ、分からなくもない。
「そのせいでちっちゃいころはお友達がいなくて、オイラが唯一のお友達だった。今だってあんまり人間のお友達はいないベア」
……手芸部には随分と馴染んでいたから、知らなかった。でも、普段の彼女の様子からして、それもおかしくはないだろう。
「でも、このままじゃ、だめ。……オイラは、ヒナちゃんに幸せになって欲しいんだベア。いつまでもぬいぐるみが一番のお友達じゃ、だめなんだベア」
「……」
「だからお別れするって決めたんだベア。もう、ヒナちゃんとはお話しない、ヒナちゃんの前では動かないことにしたの。最後にお話しした時に学校に置いてって、てオイラがお願いしたベア」
あの日、俺が七瀬さんと廊下でぶつかってしまった日、こいつをその廊下で拾った日。その日、彼女は友達の最後のお願いを聞くために連れて来たんだ。
こいつは、彼女のために、ただのぬいぐるみになろうとしている。
「ふーん……でも、それってさ、」
俺が思ったことを言いかけた時だった。
背後のドアが勢いよく開く音がする。驚いて振り返るとそこには、七海さんが立っていた。
「……くま太」
小さく動いた彼女の口から、友達の名前がこぼれ落ちた。
机の上には座り込んで俯いたまま動かないくま太。まるで、ただのぬいぐるみのようだ。
「ねえ、くま太」
七海さんがふらふらと歩いてきて、くま太の前に立った。くま太は動かないまま。
「ねえ、まだ喋れるんでしょ? ねえ」
震えた声でくま太に話しかける彼女に、俺は。
「おい、七海さん泣いてるぞ」
ピクリとくま太が動いた。
そろそろとくま太が顔を上げて七海さんを見上げる。
「……ヒナちゃん」
くま太が彼女の名前を呼んだ。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
――イマジナリーフレンド。空想の友達。
人付き合いが苦手だった七海さんが作り出した『友達』がくま太だった。
子供には結構よくある話らしい。何もない空間に話しかけたり、ぬいぐるみや人形と話をしたり。
大体は大人になっていくにつれ、自然といなくなるものらしいが、まれに大人になってもイマジナリーフレンドを持っている人もいるようだ。
彼女もそのうちの一人だけど、彼女の『友達』は少し特殊だった。
実際にしゃべって、動く。これは俺も目の当たりにしているわけで。
「もう、くま太と話が出来ないと思ってた」
「オイラも、そうだベア。旭がヒナちゃんが泣いてるーっていうから思わず動いてしゃべっちゃったベア」
「俺のせいにすんなよ」
「嘘は良くないベア!」
「普通のぬいぐるみのフリしてたお前に言われたくねーよ」
……それに、俺は嘘は言っていない。涙を流すだけが泣くという事じゃないし、俺には七海さんが泣いているように見えた。
「辻本君、くま太と仲いいね」
七海さんが、俺とくま太を交互に見る。
「むふふ、ヒナちゃんだって旭と仲良いと思うベア」
「え」
「おいこら、お前こんな時までふざけんなよ」
くねくねと腰をくねらせているくま太はすぐに変な方向に進むから油断できない。七海さんが反応に困るような事をいうのはやめて欲しい。
「ふざけてないベア。オイラはね、二人が仲好くしてくれたら、すっごく嬉しいベア」
「……」
「あ、あのなー……」
黙り込んだ七海さんに俺の精神的なライフがゴリゴリ削れる。
これ以上は、もう、本当にやめて欲しい。やっと会話が成り立つようになったばかりなのに。
「……くま太。私は別に」
ザクッ。
淡々となんの感情も窺えない冷たい声で言われて心に何かが突き刺さった。
「嘘は良くないベア。ヒナちゃん、旭とお話するの、楽しいでしょ? オイラは何でもお見通しだベア」
「……それは」
「旭は口下手なヒナちゃんのこと、ちゃんと理解しようとしてくれてるベア」
恥ずかしすぎる。なんだこのクマは。
俺はただ、七海さんみたいな子が初めてだったから、こんな動いてしゃべるクマを作ってしまったのが彼女だから、だから、少し気になっているだけだ。好奇心だ。
そんなこと、言ってもらえるような、純粋なものじゃない。
「だから、ヒナちゃんも、ちゃんとそれに答えなきゃ、だめだベア」
七海さんがこっちを真っ直ぐ見る。何故か、彼女の目から、目を反らせない。
「二人とも、きっと、もっと仲良くなる、これオイラの予言! 百発百中だベア!」
明るい声にはっとして、くま太を見る。
「あのね、そしたらきっとね、オイラ安心できると思うの。だからね、旭、ヒナちゃんとお友達になってくれる?」
くま太はまるで自分のことのように、もじもじとしながら恥ずかしそうにそう言う。
「……オイラ、そろそろ、本当にお別れしなくちゃいけないから、だから、あのね」
俺からの返事がないことに不安を覚えたのか、自信なさげに様子を伺うように俺を見上げてくるくま太は、何だからしくない。
「お前、バカだろ」
思わず口をついて出た言葉だった。
「ば、バカじゃないベア!」
「いや、バカだ」
二度目のバカを言ったのと同時に、最終下刻時間が迫っていることを知らせるチャイムが鳴った。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
くま太がいなくなった。
次の日の放課後、被服室に行くとそこにくま太はいなかった。その代わり、一番乗りで来たであろう七海さんが、一人、呆然と立ち尽くしていたのだ。
彼女は昨日、くま太を連れ帰っていない。誰かがくま太を移動させるか、もしくは自分で移動しないかぎり、いなくなることなんて、ないはずだ。
途方にくれる彼女に、俺は一緒にくま太を探すことを提案した。
探すと言っても心当たりがない。
あのクマがいそうな場所は被服室以外、思い浮かばなかった。それでも、俺と七海さんは二手に別れて、広い校内でくま太の姿を求めて捜す。
しらみ潰しに探し回っている時だった。
「あれって、勝手に捨てて良かったのかなあ」
「どう見てもゴミだったでしょあれ。きっと面倒だから被服室におきっぱだったのよ」
被服室。その単語が廊下ですれ違った二人組の女子の会話から聞こえて来た瞬間、くま太が思い浮かんだ。
「ちょっとごめんっ!」
「え、な、なによ」
「それって青色のクマっぽいヤツ?」
「はあ? ……確かに青色でクマっぽかったような気がするけど、何? あれ、あんたが放置してたわけ?」
絶対、くま太だ。捨てられたとなると、流石に心の中に焦りが生まれる。
「で、それ、どうした!?」
「……捨てたけど」
「たぶん、今ならゴミ捨て場にあると思うよ」
突然話かけられ、訝しげに答える女子に反してもう一人の方が今一番欲しい情報をくれた。
「っありがとう!」
ゴミ捨て場へとはやる心を抑えながらもお礼を言い捨てると、俺は駈け出した。後ろの方では「やっぱり勝手に捨てちゃだめだったんだよ~」などと呑気な声が聞こえてくる。
そう思ったんなら、捨てないでいてくれたらよかったのに……。
少しだけ、しょっぱい気持ちになった。
最近覚えたばかりのゴミ捨て場までの道のりで、表情自体はいつもと変わらないものの顔色が真っ青の七海さんと鉢合わせした。
ゴミ捨て場にいるかも知れないことを伝えると彼女はコクリと頷いて、一緒に向かうことになった。
ゴミ袋が積まれたその場所。カラス防止策でネットがゴミ袋の上にかかっているのだが、その上から、一羽のカラスが何かをつついていた。
「や、やめて~……。綿がでちゃうベア~」
情けない小さな声が聞こえてくる。俺と七海さんはそれに慌ててカラスのいる場所に駆け寄った。
「こらっ!」
怒鳴りながら近づくと、カラスはその場から飛んでいった。
そのカラスがつついていた辺りを覗き込むと、薄汚れた青色が見える。俺がそれを引っ張り出すと、思っていた通りの顔がゴミの中から出てきた。
「くま太っ!」
最初に声を上げたのは七海さんだった。そんな彼女にくま太を差し出すと、そっと腕に抱え込む。
「ヒナちゃん……」
彼女の腕の中にいるくま太は右の脇腹辺りから綿が飛び出て、いつもより更に汚れていた。
「……よかった、」
かすれた声でつぶやく七海さんをくま太は力なく見上げた。
「オイラね、ヒナちゃんとお別れするって決めてたのに、なのに、カラスにつつかれてる時ね、もう会えないんだなって思ったら、凄く、悲しかった、怖かった」
くま太は震えていた。……いや、七海さんの震えがただ伝わっているだけのかもしれない。
「このままお別れは、嫌だって、思ったベア」
「私だって、」
「むふふ、嬉しいベア」
弱弱しいものだったが、本当に嬉しそうな、優しい声でくま太は笑った。
「旭も、オイラを捜してくれたんだベアね、ありがとう」
「当たり前だろバカ」
「オイラ、バカじゃないベア」
不服そうに言い返したくま太は身じろぎひとつしない。そのことが少し、気にかかった。
「……ヒナちゃん、聞いて」
「な、に?」
「オイラ、もう体が動かせないんだぁ」
七海さんの体がピクリと動いて、固まった。
「きっと、これが最後のお別れだベア」
また、冗談言って、からかって。
そう、言いたかった。けれど、きっとこれは冗談なんかじゃないんだと、分かってしまった。
「ねえ、旭ぃ……」
「なんだよ」
くま太の呼びかけに対して俺は、ぶっきらぼうにしか返せなかった。
「……あのね、オイラね、お友達がヒナちゃんしかいないの、だからね、オイラと……お友達になってくれる?」
昨日、くま太から聞いた言葉と似たそれは、昨日とは違い、ストン、と俺の中に落ちてくる。
「……もう、友達だろ、バカ」
自分でもびっくりするぐらい言葉が素直に出て来た。この年になって、こんな臭い事を言うことになるとは思わなかったが、不思議と恥ずかしさはなかった。
「そっかー。もうお友達だったんだね。むふふ、気が付かないなんて、オイラって、バカなのかもしれないベア」
「気づくの、遅くないか?」
覗き込んだくま太の顔は、表情なんてないはずなのに、凄く幸せそうに笑っていた。
「……よかったね、くま太」
七海さんが、笑った。
初めて見た、彼女の笑顔は優しくって、悲しかった。
「うん。……ヒナちゃんがオイラを作ってくれたおかげだベア。この八年、ずっと楽しかった、ありがとう」
「私の方こそ、ずっと傍にいてくれて、ありがとう」
七海さんの瞳からあふれ出た涙が、くま太のボタンで出来た無機質な目にこぼれ落ちた。
……くま太も一緒に泣いている。
「ヒナちゃん、お友達として、最後のお願い、聞いてくれる?」
「……なに?」
「オイラのお友達の旭のこと、よろしくね」
「おい」
思わず、ツッコミを入れてしまった。
……こういう時って、普通は逆じゃないか? 何で俺のことを七海さんに頼むんだよ。
昨日と言っていることが違うことに、少しの不満が湧き出てくる。
「……わかった」
複雑だ。
「旭も、陽のこと、よろしくね」
「っ……ああ」
最後の最後に、持ってくるなんて、卑怯だ。
「むふふ、オイラ、すっごく幸せだベア」
そう、言ったっきり、くま太はしゃべらなくなった。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
いつも通りの放課後。いつも通りの被服室。
窓際の棚の上には脇腹を縫い直したくま太が腰かけている。この間のようなことが無いように、その前には『手芸部の作品、捨てるべからず』と書いた張り紙が張り付けてある。
「あ、七海さん」
「……なに?」
教室の戸締りをしている最中に、俺は思い切って彼女に話しかけた。
「あのさ、そろそろレース編みの糸とかが、キレそうなんだけどさ、ここら辺の店とかまだ良く知らないくて……えーっと」
何べんも頭の中で繰り返した言葉が出て来なくって、グルグルと視線を泳がせる。
だめだ、かなり不自然だ。
「……品ぞろえの良い手芸屋知ってるよ、今日行こうと思っていたところだし、一緒に行く?」
「えっ!?」
「嫌なら、地図だけ書くけど」
「嫌じゃない、です」
「……じゃあ、早く戸締りして行こう」
まさか、向こうから言ってくれるとは思わなかったせいで、しどろもどろになってしまった。
遅くなるとじっくり店を見れないし、と急いで戸締りに不備がないか確認して俺らは被服室を出た。
扉を閉めようと教室を振り返ると、丁度、オレンジ色の光を背にしたくま太と目が合う。
「……じゃあな」
小さく囁いて、俺はゆっくりと扉を閉める。
――閉めきる瞬間、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
「むふふっ」
【完】