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大きな木の下で  作者: 小田 浩正
第一章
7/30

1-6





「――あの話は真実でございますから」






 そう言うと老人は立ち上がり、僕に会釈をする。そしてベンチから立ち上がってさらに山を登っていってしまう。

 僕は言葉を失っていた。身動きが取れないでいた。

 あの話は事実ではない、そう心の中で何度も唱えるのだけれど、心のどこかで《綾子さん》は実際にいるんじゃないかと信じてしまう。

 どんどん心の中が黒い何かで飲み込んでいって、僕は駆け出していた。

 この場からいち早く離れるために。

 二度と近づかないようにするため。

 まだ《綾子さん》には会っていない。会っていないから、拐われることはないと思う。だから、会わないままこの場を去ることにした。

 日は沈んでしまっている。

 この時間帯では、幽霊に出会う確率は相当跳ね上がるはずだ。

 だから僕は明るいところを目指した。

 街に向かって思いっきり走った。

 これでも野球をやっていた人間だ。体力にも速さにも自身があったから、とにかく腰が抜けなければ走り続けることが出来る。

 だけど、僕は立ち止まってしまう。

 バス停から百メートルほどしか離れていない、坂をほんの少し下ったところで僕は、足を止めることとなる。

 なぜなら、僕は見てしまったから。





――黒髪のワンピースを着た少女を。





 肌が白く、それに加えて少女は青白いオーラに包まれている。

 肌が恐ろしいほどこの空間で目立っていた。

 しかし、そこにいることが感じられない。

 距離はどのくらいなのか。彼女は近づいてきているのか、それとも離れているのか、何か行動を起こしたとしても、気付ける自信がなかった。

 少女は道の真ん中に立っており、まるで通せんぼのように、僕を通らせようとはしていないことが一目瞭然だった。

 僕は頭の中が真っ白に染められていく。

 彼女が恐怖の対象へと変わる。

 拐われた子どもは帰ってこなかったと聞いた。それは自分にも当てはまるはずだ。

 一歩下がる。

 また一歩下がることで、彼女との距離を長く保っていたかった。

 だけど、どれくらい下がったとしても彼女との距離が広まったようには思えなかった。

 そう思ったときに、僕は完全に後ろを振り返って走り始めた。

 あのご老人が向かった方へ。僕は、おじいさんなら匿ってくれると思ったから、思いっきり坂を駆け上がった。

「……っ!」

 ちょうどバス停の前を通ろうとしたとき、そこでも僕は立ち止まった。

 なぜなら、またもやそこに少女が道の先で立っていたから。

 どうしてそこにいるのか、という疑問は湧かなかった。

 幽霊――《綾子さん》ならこのくらいのことなら出来るんじゃないか、とそう頭が信じてしまっていた。

 僕は後ろを振り返る。

 だけど、僕が逃げようとする方に顔を向けば黒髪の少女が視線の先に存在していた。

 逃げる場所がない、そう思ったとき僕はあの木に通ずる道に目を動かした。

 そこには少女は現れない。

 早計な考えだったけれど、今の僕にはとにかく少女から逃げたい一心だったから、考えることもなくそのまま木へと向かう。

 街路灯がないから、舗装されていない道で走ると途中でちょっとしたところで、つまづきそうになる。

 それでも僕は走った。

 月明かりで一応何があるのかわかるから、あの木にはたどり着ける。

 そこで僕は一度振り返る。

 やはり、そちらから少女が僕の方――木へと向かって来ていた。

 暗闇の中でだいぶ目が慣れてしまったようで、彼女の青白いオーラがより際立っていた。

 腰が抜けそうになる。

 足が生まれたての子羊のように震える。

 彼女はだんだんと近づいてくる。震えている足ではなかなか動こうとしない。一度足を止めてしまえば、一歩ですら必死になって動かさなくてはいけなくなるように思えた。

 彼女との距離は縮む。

 そして顔が髪によって隠されている少女から言葉が発せられる。

『あなた、なんでこんなところに来たの』

 ひどく凍えるような冷気が僕の頬を掠める。

 足元が周りの空気とは違った何かによって包み込まれていく。

 恐怖が心臓を握りつぶそうとする。

『さぁ、こっちへ』

 彼女が手を伸ばしてくる。

 その手はひどく細くて綺麗だったのだけれど――それが何よりも怖かった。

 徐々に近づいてくる彼女と目が合う。

 彼女の瞳。

 黒い瞳が僕を飲み込もうとする。

 僕は耐え切れなかった。



「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」



 最後の希望に僕はすがる。

 夕方はこの木までしか歩み寄らなかったけれど、まだこの先に道は続いていたことは知っていた。

 その先には街明かりが見えていたから、もしかすると街へと続く道で帰ることができるんじゃないか、そう思って僕は思いっきり走った。

『待って!』

 後ろから叫びに近い声が僕の耳に届く。

 それを耳にした時、僕はなんで彼女がそんなことを言ったのか理解できた。





 僕が走っていた道は――目の前で途切れていた。





 ふらついた足で崖の目の前で体を止める。

 下を見れば崖になっていた。

 崖には木々が生えていたけれど、そこに飛び込んでも助かるようには思えなかった。

 崖の端で僕は元来た道に目を移す。

 少女が迫ってきている。彼女は先ほどのように歩くような速さではなく、一生懸命僕のことを捕まえたいようで、思いっきり良く走ってきていた。

 戻ることは出来ない。

 自ずと足を引いてしまう。

 その時、僕が引いた足が地面に着くと、崖が崩れる。

 僕の震えていた前足ではそれに対応できなくて、





 ――落ちる。





 あぁ。

 呆気なく落ちる。

 僕の人生はこれで終わるらしい。

 悔いがないわけじゃない。やることはいっぱいあったと思う。

 でも仕方ない。

 僕の早まった行動でこういう結果を招いてしまったのだ。こうなることは予想していて当然だったのだと思う。

 この場合だと自殺になるのだろうか。

 この辺りに近づく人はいなさそうだから、もしかすると僕は死んだあと遺体が見つからないかもしれない。

 そういえば、子どもがいなくなった理由は、今の僕のようなことが起きたからなのかもしれない。この崖に落ちてしまって、子供たちの遺体はは見つからなかったのんだ。だから《綾子さん》に誘拐されるなんて、噂が広まったのかもしれない。それなら《綾子さん》の話がわかる。

 その話に僕も含まれることになるのだ。

 たったのそれだけのことだ。

 体が傾いていく。

 重心が元々後ろに傾いていたから、それに体の中でも重たい部分といえば頭だから、勝手に崖の下へと向かっていってしまう。

 頭がちょうど空の方へ向いた時、目に入ってきたのは星空だった。

 月明かりが少し強いからか、全体を見渡すと星一つ一つをくっきりと目に焼き付けることは出来ないのだけれど、晴れていて、こうして都会では見れない夜空が見えたのだから、最後には良かったのかもしれない。

 そして僕は目をつぶる。

 この現実を受け入れる。

 しかし、





「踏ん張ってっ!」





 諦めかけていたところに、そう叫ぶ声がまたも耳に届く。

 手には確かな感触。

 小さいのだけれど、暖かく、力強く、僕の右手を握ってくれている。

 その手が――あの《綾子さん》の手であることに僕は驚く。

 目を開けた僕は崖の方に目を向ける。

 体が斜めになった状態の僕を、なんとかして自分の方へと持っていこうと頑張って僕の手を引っ張っていたのは、――《綾子さん》だった。

「……なんで……」

 僕はそんな言葉を呟いてしまう。

 彼女が僕を助ける理由なんてないはずだ。

 なのに、こうして一生懸命僕を助けようとしてくれている。

 それに対して彼女は叫ぶように言う。





「目の前で死にそうな人を助けないなんておかしいでしょっ!」





 僕はハッとなる。

 この人は幽霊なのに、ただ助けようとしてくれている。

 僕はまだ崖に踏みとどまっている方の足を縮める。

 そうすれば、彼女の方にだいぶ負担がかかるのだけれど、このままの状態では手を離してしまえば崖に落ちてしまう。

 だったら、崖に体が近づいていればどこかに手を引っ掛けることが出来ると思ったので、僕は足を縮めて、もう片方の方の足を崖にかける。彼女が頑張って僕を引っ張ってくれていなければ、そうすることはできなかった。

 そして、後は自分の足と彼女に引っ張ってもらって、崖から脱出した。

「……ふぅ」

 地面に仰向けになって寝ると、安心感が体に行き渡る。

 吹き出していた冷や汗が妙に気持ち悪く感じた。

 生きている心地というのは、こういうことなのかもしれない。

 僕は一度息を肺の中に溜める。

 そして溜まっていたもの全てを吐き出すように吐く。

 肌から吹き出していた汗を拭って、僕は彼女の方に目を向ける。

 少女は僕の横に体育座りになって座り、僕の方には視線を向けずに、崖の向こう側に見える街の明かりを眺めていた。

 よく見ると、僕とあまり歳が変わらないようで、少し幼いようにも見えた。

「……あの、ありがとう、ございます……」

 僕はとりあえず感謝の言葉を伝える。だけれど、なぜか敬語になってしまう。たぶん、日頃から人と喋っていないからだ。今の僕ではそういう言葉しか使えなかった。

「私は何もしてないよ。この世界にいないモノなんだから」

 ざっくりとそう言われてしまい、僕はその後、何も言えなくなってしまう。

 でも、僕は聞きたいことがあった。

「……《綾子さん》なんですよね?」

 もし《綾子さん》なら、なぜ助けたのか、わからない。

 先ほどは「目の前で死にそうな人を助けないなんておかしいでしょっ!」と言われたけれど、その言葉と彼女の幽霊話とは矛盾点が生じてしまう。

 でも、先ほどの行動からでは、どうも恐ろしい幽霊とは違うようだった。

 だから僕はまず《綾子さん》なのか、という根本的なことを聞いたのだ。

「《綾子さん》ねぇ……。まだまだ私はそう言われ続けるのね……」

 その言い方だと彼女が《綾子さん》で間違いはないらしいのだけれど、彼女は頭をがっくりとさせていた。

「私の名前は綾女。……《綾子さん》じゃないから」

 そう言うと彼女は僕の方へ顔を向ける。

 その顔を見て、僕は目を見開いた。

 彼女は僕の顔を見て不思議がる。「どうしたの?」と声をかけてくれるのだけれど、僕はそれに答えられない。





なぜなら目の前にある顔が――僕だったのだから。





「《綾子さん》……じゃなくて綾女さん、その顔って」

「うん? 顔に何か付いているの?」

 わざとそう言っているのかと思ったのだけれど、どうやら本気でわかっていないらしい。彼女自身が顔を変えているようではないから、これが彼女の素顔らしい。

「たまたま似ているだけでしょ? 別に気にしなくていいんじゃないかな?」

 彼女はそう言うのだけれど、僕はそう思っていなかった。

 彼女が幽霊だから良いのだけれど、もし現実でちゃんと生きていたら双子と間違われてもおかしくなかったと思う。

 顔の輪郭も目が二重なところも、何から何まで同じようで今自分が鏡を見ているように思えてしまった。ただ違うところといえば、僕の髪型が茶髪に近いショートヘアだったのに対し、彼女は黒髪の長髪だったところだけだ。

「ねぇ……、私ってやっぱりまだ色々言われているんだよね?」

「……僕の周りではそうですね……」

 同年代に見えるのだから、もう少し柔らかく喋ることができればと思う。けれど、やっぱり僕には気軽に喋りかけることはできなかった。

 しかし、僕のことはどうでも良いのだが、彼女は僕の言葉を聞いてがっくりとしてしまう。あまり自分のことについて言われることが嫌らしい。

「はぁ、いつまでこうなんだろう……」

 そのため息混じりの声はひどく重たく感じられた。

 僕は空を仰ぐ。

 本当に彼女があの《綾子さん》なのだろうか。あの子供を誘拐する幽霊とはだいぶかけ離れているように思えた。

「そういえば、あなたはやっぱり私を探しに来たの?」

「えっとまぁ、そうですね……。暇だったんで」

 僕は正直に答える。

 幽霊を探すなんてあまり良いとは言えない行いだけれど、ここで嘘をついても何にもならないからそう言ってしまう。

「そう……。最近この辺りを歩く人なんて全然いなくなったからさ、それも私がいるから近づきたくないようで、あなたのような人と会うのなんて十年ぶり、だったかな?」

 こういう状態が十年近く続いているのか。僕だって、あの老人以外は人と会っていないから、それは真実なのだと思う。

「ちょっとだけね、あなたと話したかったから姿を見せたんだけど、あなたも怖がっちゃって逃げるから、本当はがっかりしているんだよね。それに、思いっきり崖の方に走っていくから死ぬ気なの? なんて驚いちゃって、私の方が心臓が止まりそうだったよ」

 僕はあなたに殺されるんじゃないかと思っていたんです。どちらかといえば、あなたよりも僕の方が心臓を止められそうだったと言いたくなる。

「でも、話はまた今度だね。もうこんな時間だから」

 僕はそう言われて携帯を開く。彼女はそれを見て目を丸くしていたけれど、気にせずに画面にある時刻を見れば、既に七時を回ってしまっていた。家にたどり着く頃には八時も過ぎてしまうだろうから、完全に夕食には間に合わず、七海と叔父に怒られる。

「そうだ、あなたの名前は?」

 僕が立ち上がった時、彼女はそう聞いてくる。

「歩、目前歩です」

「そう、歩ね。女の子らしくて可愛いよ。またどこかでね」

 そう言うと彼女は徐々に姿が消えていく。

 あの、僕は男なんですけど、とそう言う前に彼女は消えてしまった。

「はぁ……」

 毎度毎度のことだから慣れてしまっている。彼女にも誤解を解かなければならない。

 彼女は「またどこかで」と言ったのだ。

 つまり誤解を解く機会が存在するのだと思う。

 僕は不思議な出会いをした、幽霊と。

 引っ越してからまだ一週間も経っていない。

 この出会いによって、僕の人生を歩ませる一歩を大きくさせてくれたとは、まだこの時はわからなかった。






第一章《終》

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