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お風呂に入りたかったから、二階の自分の部屋から階段で降りてくると、ちょうど七海が帰ってきたところだった。
僕とは違って七海は、小学校の頃から近隣で有名なほど運動が出来たのだ、と叔父叔母から聞いていた。だから、まだ学校が始まって二日しか経っていないというのに、様々な部活からすでに勧誘されているのだ。
僕が昼頃に帰ってくるのに対し、七海は部活動で夕方になったのだ。
「あれ? アユくん、さっきまで出かけてなかったの?」
靴を脱ぎながら彼女は、玄関を上がる。
しかし、七海が僕に対して何を言っているのか、わからなかった。
「帰り道の途中でアユくんを見かけたの」
それはおかしい。
だって、僕は先程までベッドで寝ていたのだ。家からなんて一歩も出ていないはずだから、七海の見間違いだと考えは至る。
「そう言われると見間違いかも……」
「なんだよ……」
「そういえば制服じゃなかったし、髪の毛が長かったんだよね。そうだよ、黒の長髪だったよ。でもなぁ、顔は全く同じだったんだね」
それなら、ただの間違いなんだろう。
もしかすると、顔が似ている人間がいてもおかしくはないはずだ。
そんな時、廊下の向こう側で何かが落ちるような音を僕は耳にする。
そちらに目を向ければ、おばあちゃんが立っていた。
引っ越してきてから、僕とおばあちゃんは目を合わせていない。あの日のように僕の顔を見て倒れるようなことはないのだけれど、食事の時は絶対顔はそっぽを向いてしまっているし、日常生活の中でこうして会うことも少なかった。
「どうしたの?」
七海が声をかけるのだけれど、おばあちゃんは反応しない。
よく見れば、唇が紫になりかけ、体中が震えているように見えた。ここ数日はあまり僕の顔を見ることはしてくれなかったけれど、背筋が真っ直ぐで気の強そうな人のはずなのに、今は何かに怯えているようだった。
「な、七海……。それは……、本当かい……?」
声はひどくか弱く、震えていた。
問われた七海は、正直に頷く。
するとおばあちゃんは、力が入らなくなってしまったのか、操り人形がだらんとその場に倒れ込んでしまうように、おばあちゃんも腰が抜けて廊下に座ってしまう。
「おばあちゃんっ! 本当にどうしちゃったの!?」
僕がこの家に来てから、ずっとこんなんだ。
おばあちゃんなんかに頼んなければ良かったのだろうか。
「……七海、もうその話はしないでおくれ……」
「歩くんよりも綺麗な人はいないと思うけど?」
なぜ、そんな話になるのだろうか、美咲さん。
「でも、この街には歩くんよりも綺麗な人が、一人、いたそうよ」
「……いた?」
美咲さんはなんで、僕と女性を比べるのか、よくわからない。
元々こんな話になったのは、昨日七海とすれ違った女性が僕に似ていたということをずっと引きずっているからだった。七海の情報からだと、僕とは全く別人の人らしいのに、その話を美咲さんにも話してしまったのだ。
僕は机に伏せて、寝ていることを主張していたのだけれど、僕の頭の上では言葉が何度も飛び交っていた。
「別に歩くんも綺麗だからね」
わざわざ僕に話しかけないでいいのに。
「七海は《綾子さん》って知ってるでしょ? ほら、《綾子さん》に会った子どもは二度と自分の家に戻ってくることはできない、ってやつ」
「知ってるけど、……見たことあるの?」
「幽霊なんだから、見たことないに決まってるじゃない」
彼女たちは何を話しているのだろう。特に理由もなく、どこかの幽霊の話を出したのだろうか。女子の話はいまいちわからない。
「街一番の美女で、小さい頃から男たちが彼女を娶るために良く家に迫ってきた、なんて話があるくらいなのよ」
どうやら、さっきの話の続きらしい。
そうなると、七海がすれ違った際に会ったのは、その幽霊ということになるだろう。
だけど、なぜそんな綺麗な女性が幽霊になってしまったのだろうか。
「ある日に、《綾子さん》が街から消えるのよ。北の大きな桜の木があるんだけど、そこで綾子さんの衣服が残ってて、街の人たちは誘拐されたか、殺されたんじゃないかって噂が広まるの。でも、遺体も見つからないし、彼女がどこに連れらたのか、ずっとわからなかった」
物騒な話になってきて、僕は少し気になり始めていた。
そう思ってしまうのは悪い気がしたのだけれど、それでも続きを聞きたかった。
「みんなが忘れ始めた頃。ある時、山を越えて隣町に行こうとしたおじいさんが幽霊を見たって騒いだのよ。相当顔が真っ青だったからみんな心配したらしいよ。で、おじいさんが見たその幽霊というのが――」
――《綾子さん》だったというわけか。
「そのあとも、色んな人がこの街を出ようとすると《綾子さん》に出くわすようになったそうよ。あとは北の桜の木でも。特にその木には怨念が憑いてしまっているみたいで、昔はお花見をしてる人も多かったらしいけど、《綾子さん》がいるのにそんなことはね、出来るわけないよね」
「でもさ、最近は《綾子さん》が子どもを拐ったとか聞かないよね」
七海は一応《綾子さん》の話を知っているようだったけれど、美咲さんも七海も彼女に会ったことはないと言っていた。
「消えたわけじゃないと思うよ、私は。だって、彼女の顔を見てないだけで、もしかしたら知らないうちに会ってる可能性もあるんじゃない?」
「う~~ん。それだったら、あの噂は違うの? ほら、子供を誘拐するって――」
「最近は誘拐された子供もいないようだし、それは嘘だったんじゃない?」
ちょうどその時、担任が教室に入ってきたため、話は打ち切られてしまう。
僕は顔を上げて、先生の話を聞き始めたのだけれど、頭の中では放課後のことをすでに考えていた。
部活動に入るつもりのない僕は、放課後は暇だった。それに家に帰る気にもなれなかったから、僕はお散歩気分で大木のある場所へと向かうことにした。