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「――やっぱり僕には無理だ……」
僕は笑顔を作っているけれど、まぶたに溜まってしまった涙は流れてしまう。
それを見て綾女さんは、「仕方ないなぁ」と呟いて、また胸に僕の顔を埋める。
それによって僕は、綾女さんが震えていることに気付く。
「歩がそんな顔を見せたら……、私だって泣いちゃうでしょ」
僕がこうして泣いているのだ。
綾女さんだって、泣いてもおかしくはないのだ。
「……ごめん」
「謝ることは何もないよ。……昨日のことを守ってくれようとしていることはわかるから。でも……、歩には無理ね。純粋無垢な子なんだから」
僕は綾女さんが思っているほど、純粋な心を持っているつもりはなかった。
「こうして泣いてくれていることが綺麗な心を持っている証拠なの」
綾女さんは僕を体から離して、瞳を見つめる。
彼女の顔はやはり僕となんら変わらなかった。
いつ見ても、まるで双子のように、僕と全く同じくらい目元が真っ赤に腫れてしまうくらい、泣き崩れていた。
「……綾女さん」
「ん? え……、ど、どうしたの?」
綾女さんが戸惑うのも無理はない。
僕はいきなり彼女を抱きしめたから。
「もっと感じていたいんだ。もっと綾女さんの温かさを感じていたいんだ」
彼女はまるで生きているように思えた。
心臓の鼓動を、肌から伝わってくる温かさを、僕はちゃんと綾女さんから感じ取ることができていた。
彼女は幽霊なんかじゃない。
綾女さんは僕たちのように、今こうして、ここに、同じ時間に生きているんだ。
「……うん」
僕の突拍子な行動を綾女さんは頷いて抱きしめてくれる。
何分、何十分。
ずっと抱きしめていたかった。
一生別れることとなると、この感触を覚えておきたかった。
忘れることをしたくなかった。
「ねぇ、歩」
「はい……?」
耳元で囁くように聞こえてきた綾女さんの声に僕は反応する。
彼女は少し嗚咽混じりの声だったけれど、一旦息を整えると僕に教えてくれる。
「人は出会いの数だけ別れがあるの」
人が出会い、何年何十年という時を過ごしたとしても、いつかは別れが巡ってくる。
それは必然であり、僕たちではどうしようもないこと。
人との間には永遠はないんだ。
「そうじゃないの。確かに人は生まれて、子どもから大人へと姿を変えていって、そして死んでいく。その一世紀の間に私たちは何十人、何百人、何千人もの人と出会う。そして別れていくもの。だけど、そうじゃないの」
僕は綾女さんの優しく、柔らかな声を聞いた。
彼女の言いたいこと。
それらを全て受け入れるために。
「私と歩の間ではもう二度と会えないかもしれない。けれど――それで私たちの心が途切れるということは決してないの」
人が死んでも、僕たちは想い続けることが出来る。
それは死んでしまった側も変わることはない。
一生という定められた期間じゃなくて、何世紀、何十世紀という永遠のような長い時間、忘れることなく、そういう気持ちがあるのであれば、僕たちは繋がり続けることが出来るんだと思う。
「だから歩が悲しくなることはないの」
そう説得してる綾女さんが泣いてしまっているじゃないか。
僕はそう指摘したかったけれど、涙が溢れて声が出なかった。
泣いちゃダメだと思っても溢れてくる涙を止めることは出来ない。
「幸せだったの。……最後の最後に沙奈恵と言葉を交わせた。それは歩のおかげ。……私は最後の最後までずっと自分の人生が悲惨なものだと思っていた。でも……、でもそうじゃなかったっ! そうじゃなかった、って言えるのっ! それがどんなに幸運なことなのか、私はちゃんと感じることが出来ているの」
この涙を止めるにはどうすればいいのだろうか。
心が締めつけられるくらいに痛いのはどうしてなのだろうか。
「宗博と我流は私たちをずっと想い続けてくれた……。頑張って私たちを助けてくれた。だから感謝の気持ちを全部話しきれないの。……それは歩、あなたにも言えることなの。あなたのおかげで私は最高の最後を迎えることが出来たの」
僕の後ろには、おばあちゃんと七海と我流さんがいる。
七海は綾女さんと一度も言葉を交わしたことはないし、《綾子さん》によって事故に遭ってしまった。なのにこうしてここに来ているのは、七海自身が全てを見守りたいとのことだった。だから恨んでいる様子もなく、たぶんおばあちゃんと肩を寄せ合って泣いていることだろう。
「私は先に行った二人のように天から見守るよ――」
我流さんは手に持った松明を一歩ずつ木へと持ってくる。
それに続いておばあちゃんと七海も木を囲むように松明を持ってくる。
別れの時だ。
僕は綾女さんから手を離す。
そして僕は我流さんから松明を受け取る。
「――いつまでも、いつまでも――」
綾女さんは宙に浮く。
まるで天女のように、すぅと体は大きな木の上空へと浮いていく。
「私はこの街が好きですっ! この透き通るような空気、星々が輝き続けるこの星空、そして一生懸命に生き抜く人々。この街にはそれら全てが詰まっているの」
一斉に松明は木の根元に置かれる。
火は徐々に木を焼いていく。
完全に火が木へと移ると、僕たちは一歩ずつ離れていく。
「ねぇ、歩」
僕はその声を聞いて、空を見上げる。
火によってゆらゆらと視界が霞むからなのか、ちゃんと綾女さんの姿を見ることは出来なかったけれど、大きく手を広げて僕の方を見つめているのはわかった。
僕は叫ぶ。
「何ですかっ! 綾女さんっ!」
嗚咽混じりだったけれど、声は届いたと思う。
そして彼女は告げる。
「歩のことが好きだったよっ!」
火の粉が風にのって空へと舞い上がる。
その瞬間――。
今まで枯れていたはずの桜の木が咲き誇ったような気がした。
暗闇のなかで咲く桜。
真っ赤に燃える桜の花びらが舞い降りてくる。
その花びらを僕は手に収める。
熱くはなかった。
やけどなどしない。
だって、この温かさは綾女さんのものと同じだったから。
「綾女さんっ!」
僕はまたも叫ぶ。
燃える桜の木の上にいるはずの彼女は見ることは出来ない。
けれど、僕は叫んだ。
「僕もっ! 僕も綾女さんのこと、好きでしたっ!」
最後の最後で僕は笑顔を見せることが出来た。
本当の笑みだ。
彼女とは永遠の別れじゃない。
いつかまた会えるような気がしたんだ。
僕は大いに手を振って別れを告げたんだ。
全てを吐き出した。
自分の気持ちに素直になれた。
綾女さん。
僕はずっと想い続けるんだ。
「ありがとう、綾女さん」
第四章《終》




