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だけど、現実は上手く進んではくれない。
希望で包まれている空は、またも黒い雲によって塞がれてしまう。
僕たちに希望など見せないように。
綾女さんが不意に僕に抱きついていた腕を解く。
それと同時に僕は誰かが近づいてきていることに、ようやく気付く。
僕は立ち上がって後ろに振り返って、綾女さんが向いている方へ目を動かす。急に雲で太陽が隠されてしまったために、辺りは暗くてバス停に続く道から誰かが近づいてくることはわかっていても、その人がいったい誰なのかわからなかった。
でも、わかることが一つだけあった。
綾女さんが口元を抑えて泣きそうになっていたのだ。
「ど、どうしたの、綾女さん」
彼女は僕の問いかけなど聞こえてないらしく、ただ一点を見つめていた。その一点というのは、近づいてくる人間にだ。
だんだんと形がはっきりしてきて、体格からして男性だとわかっていく。
そしてある程度近寄ると、彼は立ち止まって言葉を発した。
「久しぶりだな、綾女」
「っ!?」
僕はその男の発した言葉に驚きを隠せず、綾女さんの方へと顔を向ける。
僕以外にも綾女さんを知る人物がいる。それは有り得ない話ではなかった。僕がこうして知る機会があったのだから、そういう可能性があってもおかしくはないのだ。
けれど、おかしい部分が出てくる。
彼女はずっと、この街の住民から離れるために、ずっとここで隠れていたことを僕に話してくれた。
それなのに彼女を知る人物がいる。
その男が発した「久しぶりだな」という言葉からも想像すると、それはつまりずいぶん長い間会えていなかったということになる。
彼はいったい誰なのか。
僕は目を凝らして、その人物を見つめていたとき、彼女はその人物の名前を告げる。
「……我流?」
僕は今度こそ聞かずにはいられなかった。
「我流って、草壁我流さんのこと?」
「歩、また会ったな。これは偶然、ということでいいのかな?」
僕が綾女さんに確認をする前に、相手からそう言われてしまう。
暗くても顔が見えるところまで歩み寄った人物は、声からも言葉からしても――我流さんで間違いなかった。
「我流っ!」
完全に男の正体がわかると、綾女さんは我流さんに向けて走って胸に飛び込む。それをちゃんと我流さんは受け止める。
「いつ帰ってきたの? 大丈夫だったの?」
「一週間前に一回帰ってきてたんだけど、ちょっと用事があって今になったんだ。すまないな、心配させて」
「そんなことないよ、生きてくれていたことがうれしいの……」
二人の姿を見ていると、やはり僕が知らない彼女がいるのだ、ということを突きつけられてしまう。せっかく近づいたと思ったら、また距離が離れる。
そんななか、我流さんは僕に顔を向けて口を開く。
「歩、ちょっとすまないけど、二人だけにさせて欲しい。綾女に伝えなきゃいけないことがあるんだ」
我流さんの目は真剣そのもので、何か大事なことを伝えるのだと一瞬で理解する。
僕はその目を見たとき、「……はい」としか言えなかった。それほど力強いものであったから、従わないわけにはいかなかった。
いったい二人に何の関係があるのか、気になった。
幽霊である綾女さんのことを知っているのだから、僕以上の関係に違いなかった。
そのことに嫉妬している自分がいることに気付く。
我流さんは僕を救ってくれたというのに、そんな人に僕は今嫉妬している。その現実に僕は目を背けたかった。
僕は木から、二人から少し離れることにしたのだけれど、そうする前にポケットの中に入れていた携帯が震えだして、取り出してみると七海から電話がかけられていることを画面上に書かれていた。
携帯に耳を当てると、案の定七海の声が聞こえてきたのだけれど、なぜか焦っているようなそんな雰囲気を感じた。
『アユくんっ! 今どこにいるのっ!』
「え……?」
僕はまず時間を確認する。
七海からそんな電話が来るということは、もう夕食の時間なのだと思ってしまう。だけど、まだ夕方にもなっていない。時計はまだ三時頃を指していた。
それに今、《綾子さん》が出ると噂される、あの木の近くにいるなんて言えなかった。
いったいなぜ、そんなことを聞いてくるのかわからず、返答に困っていると彼女は言葉を続ける。
『近くに人とかいる? いるならわかる名前だけでも言って!』
訳がわからないけれど、僕は我流さんたちの方へと顔を向ける。
綾女さんは入れないことにして、我流さんが近くにいることを伝えると、七海が何か受け止めたくない現実に立たされたような、悲鳴に近い声が耳元から鳴る。
「な、何があったの?」
僕はそう聞くと、七海は少し間を空けて、こう聞いてきた。
『まさか――《綾子さん》のいるあの木の近くじゃないよね?』
「っ!?」
僕は息を呑む。
どうしてそんなことがわかるのか、考えられなかったからだ。
口が震えだす。
どう答えていいのかわからなくなる。
悪いことはしてないはずなのに、まるで悪いことをしているように思えてしまって、声が出ていても言葉にならなかったし、どう答えていいのかもわからなかった。
耳元からは彼女が走っている声が聞こえてくる。
吐く息とともに、彼女は僕に警告する。
『アユくん、今すぐそこから逃げてっ! じゃないとアユくんが――』
しかし、全てを言い切ることなく電話が切れてしまう。切れる直前に何か金切り声のようなモノが聞き取れたのだけれど、何が起きたのだろうか。それに七海と電話が切れる前に言った言葉、『逃げて』を僕は理解できなかった。その場から逃げろと言っていたけれど、そうする必要があるのか、わからなかった。
綾女さんも我流さんも、僕の方を見て心配そうな顔をしている。今の電話は思いのほか外部の人間にも響いてしまっていたようで、我流さんは僕の方へと近づいてくる。
「その携帯、ちょっと貸してくれ」
そう言われるままに、僕は我流さんに携帯を渡す。
我流さんは僕の携帯を耳に当てると、険相な顔をして僕に叫ぶ。
「早く家に戻れっ! その子が危ないっ!」
言われている意味がわからず、僕はただその場から動けなかった。
そんな僕を我流さんは、無理やりでも良いから手を引っ張って中心部へと向かうために、坂を駆け下がっていく。
完全に坂を降り切った時に、手に握っていた携帯が震えて、僕はその発信元が叔母であることを確認してから出ると、非常に残酷な言葉が耳に届いた。
『ナナちゃんが交通事故にあったの』
第三章《終》




