3-5
外は雲によって太陽が隠されてしまい、陽は大地まで行き届くことが出来ずに、暗かった。今にも雨が降りそうだったけれど、僕は前へと進む。
僕は歩きながら思う。
今ままで人を疑っていた、そういう気持ちに自分自身が気付いていなかった。
ずっと症状のせいだと思っていた。
たぶん、それは逃げていたということなんだと思う。
「……」
僕はまたここへと来た。
前は曖昧な理由で。
今回は明確な理由を持って。
大きな、大きな孤独な木が見えてくる。
ここに来るといつも冷気に包まれているようで、不気味に感じてしまう。
でも、ここにいる彼女はそうじゃない。
「ふぅ……」
深呼吸する。
僕はあの時のことを思い出す。
綾女さんが僕を崖から引っ張り上げてもらったときのことを。
僕を助けてくれた時に感じた手の温もりは温かく、その手は確かなもので、この場所に漂う雰囲気とはまるで別物だった。
彼女は幽霊に違いはないのかもしれない。
でも、それでも彼女は僕のことを助けてくれたのだ。
恐ることはないんだ。
「……綾女さん」
だけど、いざ声を出してみると、ひどく小さなものだった。
やっぱり震えているんだ。
気づいていたけれど、気にしないようにしていたけれど、それでもいざこうして、この木の目の前に来ると、震えが出てしまう。
「……っ!」
僕は一度歯を噛み締める。
体全体に力を入れることで無理やりでも良いから震えを止めさせる。
「綾女さんっ!」
そして僕はもう一度声を出す。
今度こそ辺りに響き渡る。
この僕の声に返答するものは何もなかったけれど、必ず彼女には届いたと思う。
だから、そのまま僕は言葉を発する。
「昨日はすみませんでしたっ! いきなりあんなことをしてしまって、ここから逃げてしまって、すみませんでしたっ!」
僕は木に向かって頭を下げる。
周りから人が見ていたら不思議がるだろうけど、そんな心配はしない。元々ここは人が通ることなんてないし、何より恥ずかしさなど感じていなかったから。
そして、僕は謝るだけで済まされるとは思っていなかった。
全てを伝える。
「怖かったんです……。綾女さんは幽霊で、それ自体が怖かったんです。……知らないんです。あなたのことを僕は何にも知らないんです……。それが怖くて、危険に感じて、逃げ出したんです」
そうじゃない。
それが言いたいんじゃない。
「僕は、綾女さんが幽霊だから怖いと思ったんじゃないんです。……あ、でも、やっぱり最初は幽霊だから、《綾子さん》と呼ばれている幽霊だから、怖かったんです」
もう自分で何を言っているのかわからなかった。
僕は一度深呼吸する。
僕の言いたいことをちゃんと整理して、口を開く。
「だけど……、幽霊のあなたは……、僕を助けてくれた」
あの時、僕はそのまま死ぬと思っていた。
《綾子さん》という幽霊が奈落の底へと落とすのだと思っていた。
でも、違ったんだ。
綾女さんは僕を崖から引き上げてくれたのだ。
殺されると僕は思っていたのに救ってもらった。そうなるとは全く予想だにしなかったことだった。
あの時の彼女の顔は必死そのものだった。
それは今でも思い出せるし、忘れることはない。
「それなのに僕は綾女さんの――《綾子さん》の話を思い出してしまったんです……。綾女さんのことじゃないのに、僕はあなたのことを《綾子さん》だと思ってしまったんです」
僕は彼女を、彼女の偽りの顔を重ねてしまったのだ。
『無意識で疑ってるんだよ、人間っていうのは』
そうなのかもしれない。
実際、僕はそうだった。
自分ではそうと思っていないのに、僕は人を勝手にその人の上から色を塗りつぶしていったのだ。
黒く、暗く、薄気味悪い色へと塗って、全くその人の本来の色を見ていなかったのだ。
元々目に入っていなかった人は白のままだ。何も知らないから、何色をしているのか全くわからない。 だからすれ違う人の大半はみんな白だった。
でも、僕が少しでも危険だと思った人には、すぐさま黒で塗りつぶしたんだ。その人の中身など見たくなかったから。
怖かったんだ。
怖いものは怖いものだと、すぐにでも認識してしまいたかったのだ。
「そうすることで逃げていたんです、僕は……。その人の気持ちがわからなければ、すぐにでもその人に疑いをかけて、危険だと思ったらすぐさま危険なものだと思い込んでしまったんです。――その方が楽だから」
いったい僕がどれだけ、それだけで楽になることが出来たのだろうか。
野球チームから抜けようとした時、僕は背を向けることに罪を感じていた。
一つの嘘で簡単に抜けられると思った。
でも、そうはならなかった。
本当は僕の肩は動かせる。だけど、あの試合で嘘をついて投げられないことにしたのだ。
そしたらどうなったか。
僕のついた嘘は影響が大きかった。肩を痛めたということで、その原因になった子から泣きながら謝られることになった。
ちょっとした嘘が大きな罪になっていたのだ。
それから逃げるために、僕は逃げるための口実として――症状が出たのだ。
さらなる恐怖から逃げたいと思うことで僕は、チームメイトからの目線も気にすることなく、ただ『恐怖』という大きなモノから逃げたのだ。それが簡単な逃げ方だったから。
「僕はそんな人間だったんです……。綾女さんにもそれを言ってしまったんです。綾女さんはそんな人じゃないのに、僕はそう思ってしまったんです」
今はそれに気づいたんだ。
気づくことが出来たんだ。
「謝るだけで許されるとは思っていません」
僕は木を見つめる。
彼女の気配は感じない。
だから待つことにした。
彼女が僕の目の前に現れるまで、いつまでも待ち続ける。
知ってほしいから。
そして知りたかった。
確実なモノが欲しかった。
まだ僕には少し疑いが残っていた。
彼女が《綾子さん》のような、恐ろしい幽霊なのか。
幽霊であることが引っかかってしまっていたのだ。どうしても幽霊という良くわからない存在が症状によるものではなく、ただ単純に人間の本能として恐れていたのだ。
だから知りたかったのだ。
知ることで恐怖が取り除けると思ったから。
それが上手くいくかわからない。
だけど、もう《逃げる》という言葉は、僕の中にはなかった。
「僕はあなたと仲良くしたいんです」
思いを伝える。
口だけでは伝わらないことだっていっぱいあるんだ。
それでも、せめて口から伝えることができることを口に出す。
思いっきり声を張り上げる。
「綾女さんのことを知りたいんですっ! 何でも知りたいんですっ! だから――」
「――もう言わなくていいよ」
背中から包み込まれるように、僕は誰かに抱きつかれる。
温かくて、確かな感触。それがじんわりと少しずつ温もりを肌で感じる。
その声から僕は悟る。
「……綾女、さん」
後ろから「うん」と頷くとともにそんな優しい声が聞こえてくる。
その声を聞いたことで彼女に会えたという安心感とともに、存在を感じるのに行動の読めない状況に恐怖も感じていた。
「歩、あなたって、良く恥ずかしいことを言えたね」
「……?」
「――あなたのこと全てを知りたい。それって私への告白の何かなの?」
「っ!?」
そう言われてから気付く。
それじゃあまるで僕は、愛の告白をしていたかのようじゃないか。
恥ずかしさなんてない、と言ったけれど、やっぱり恥ずかしかった。
頬が真っ赤になっているのが自分でもわかるくらい、熱かった。
「で、私をどうしたいの?」
「あ、綾女さん……?」
その言い方だと何を考えているかわからないんですけど。また症状が出てしまうんですけど、そう言おうと思ったのだけれど、僕がそうやって口を開いて言葉を発する前に彼女から僕に告げる。
「歩の思っていたことはちゃんと聞いていたよ。私のことが怖いということも聞いた。……それは仕方ないと思う。幽霊はそういう存在で間違いないと思うから……」
急に抱きしめられている腕がさらに強く抱きしめられる。
僕は後ろの綾女さんが気になった。
「でも、歩は気付いてくれていたんだよね? ――私が《綾子さん》とは違うことを」
僕はゆっくりと頷いて肯定する。
すると、耳元で嗚咽混じりの声が届く。
「……っ! ……私は《綾子さん》じゃないの……。別人なのっ! そうじゃないのに、そうじゃないのに、どうしても声は届かなくて、みんな私を避ける……。それが辛くて、嫌でここから動けなかったっ!」
彼女は震えていた。
何もかも彼女の気持ちが肌を通じて伝わってくる。
「だから……だからね、歩と会えたことが嬉しかったのよ」
僕は驚きを感じずにはいられなかった。
もう、この人は幽霊には見えなかった。
同じ顔だけれど、僕とは全く別の人間、それも今もここで生きている人間のように、僕はそう思えた。
「……私も歩のことを知りたかった。知りたくて、近づいたけど……。やっぱり歩も他の子供たちと同じで、私のことを恐れて逃げたんだと思った」
彼女も僕とはまた違った辛い思いをしていたのだ。
でも、それは違う辛い思いだった。
僕は近づけられれば自分で逃げていく、人に近づけない辛さ。
彼女は近づきたいのに人が離れていくという辛さ。
全く真反対の辛さ。
だけど、痛いほどその気持ちがわかった。
理解できないわけじゃない。理解できるんだ。
どんどん彼女との距離は近づいていく。
心へと手が届きそうなところまで来る。
「でも、歩の話してくれたことで、私はホッと出来たの。歩にも歩なりの事情があったんだね」
「すみませんでした。――もう、ああなることはないです」
《思う》から《確信》へと変わる。
もう綾女さんを怖がることはない。
「綾女さん」
「……何?」
僕は彼女の腕に触れる。
青白い、ひどく白い肌をしているけれど、そこからは彼女の温かさを感じることが出来た。
僕は安心して思いを伝える。
「全部教えてください。――綾女さんの全てを」
綾女さんはそれを聞いて顔を僕の背中に埋める。
「えぇ、伝えるわ。歩なら、私の話を信じてくれると思う」
その瞬間僕は思った。
分かり合うことが出来た、と。
もう今までの僕じゃない。
病に怯えることなく、生きていくことが出来ると思えた。
暗かった空は、少しずつだけれど、雲がかき分けられていき、一筋の光が僕たちを照らす。
遠かった現実は、今では手の中に収まっている。
僕は木の方を見上げる。
徐々にだけれど、枯れていたはずの孤独な木が光によって、蘇っていくように思えた。
晴れ渡っていく空は、希望に包まれている。
そう思えた。




