店長さんの、長い休日。
静かに波打つ海峡。
その波の向こう、西大陸の大国ダルメシア。
その片隅に、姿の見えない東大陸を睨み付ける青年が居た。
「いよいよ、明日か・・・」
「そうよ、だから貴方ももう寝た方が良いわアーサー」
王都でも屈指の豪華な宿から出てきたハリウッド女優のような女に、アーサーと呼ばれた青年は振り返る。
短く切り揃えられたアーサーの明るい金髪が月光を受けてキラキラ輝く様に、女は僅かに目を細めた。
「ジュリア、君も寝た方が良い」
「ええ、判っているわ」
女――ジュリアはアーサーに向け微笑を浮かべてそう答えながらも、彼の隣に並んで海峡に視線を向けた。
「暖かいベッドなんて、あちらには無いんでしょうね」
「そうだな・・・」
アーサーの呟きのような答えの後、沈黙が辺りを包んだ。
「兄さん・・・」
「・・・ジュリア、もう寝よう」
ぽつり、と呟いたジュリアの肩を叩いたアーサーは、宿に帰る為踵を返した。
「魔王・・・、兄さんの仇・・・」
アーモンドの様な緑色の瞳に涙を浮かべ、海峡の果てを睨みつけたジュリアはアーサーを追うようにその場を後にした。
翌日、西からまた勇者の一団が東へ渡る。
* * *
それから一月後の朝であり、臨がスクルドを部屋に泊めた翌日。
三つ目の鐘が鳴り終え、街が活動を始め、赤い飛び魚も何時も通り賑わう頃。
臨は未だベッドの中に居た。
休日の朝寝坊や二度寝は、誰しもがやるんじゃないだろうか?
違う人も居るだろうが、まあ誰しも一度位は経験があると信じたい。
そんなご多分に漏れず、臨はスクルドを送り出した後二度寝を決め込んでいた。
因みに、自室の鍵を失くしたか忘れたかでスクルドが臨の部屋に転がり込んだのは今月三度目だ。
「ノゾムさーん朝っすよー」
休日の度に朝食をタカリにやって来るシャムのお馴染みのノックと共に、ドアに下がったフライパンがガチャガチャと騒音をたてる。
唸りながら布団の中に頭を引っ込めた臨だが、ノックの音は止まない。
「ノーゾームーさーん、飯食わせて下さいってー」
トットトトン、トットトットトン。と、妙な節をつけてドアを叩き始めたシャムの背後でドアが開き、朝の仕事を一通り済ませたジムが呆れた顔を見せた。
身支度を終え、腰に剣を佩いている辺り、一足先にギルドに向かうのだろう。
「・・・おはよう、シャム」
「あ、ジムさんはざーっす。早いっすね」
「ああ」
「それで、まだ寝てるのか?」「みたいっす、反応無いし」等とドアの前で会話しながらも、しつこくノックを続けるシャムに、布団の中で唸って居た臨がキレた。
布団を怒りに任せて剥ぎ取ると、靴も履かずにノックされ続けているドアを勢い良く開け放つ。
「朝っぱらからうるせぇ!! スクルドの朝飯で家の食材は空だ!!」
そう一喝した臨の姿に、シャムとジムが固まった。
寝癖のついたボサボサの頭を掻く臨は見るからに寝起きだ。
肩紐が片方落ちたタンクトップと、腰ではかれている綿のハーフパンツ、足元は裸足。
「ノゾム・・・」
「あ゛?」
額を押さえたジムの少々呆れが滲む呼びかけに、修羅場時の様なドスの利いた低い声が返る。
「靴は履け・・・後、何か羽織れ。女だろ」
一応は。と溜め息を吐いたジムの言葉に、自分の格好を確認した臨はくありと欠伸を漏らすと不機嫌さを剥き出しにした顔を一つ撫でた。
「ああ、悪い。・・・忘れてた」
「主語はなんだ?」
「靴と上着に決まってるだろ。じゃあな」
流石に自分の性別は忘れようが無い。
僅かな懸念を抱いたジムと今だ固まり続けるシャムに向け、そうぼやいた臨は追い払う様に手を振ってそのままドアを閉めた。
ドアが閉まった衝撃で、フックに掛けられている銀のフライパンがガチャンと音を立てる。
その音で我に返ったシャムが、くっと拳を握り締めた。
「前々から美脚だとは思ってたけど、あんな美乳隠してるとか勿体ねッ・・・さーせんッした!」
健全な青年としては、なんら間違っていない感想を述べるシャムの鼻先を掠めた銀色と乱暴なドアの開閉音に、ジムは本日二度目の溜め息を吐く。
「またか・・・」
ここ一年と言うか、正確には臨にタカる輩の出始めた約半年で、刺傷の耐えない自室のドアと、そこに突き刺さる投擲ナイフを眺めて呟いたジムは、シャムの後ろ襟を掴んでギルドへと向かった。
一方、ドアの内側では。言動や見た目によって、当人を良く知る者であっても“ついうっかり”性別を忘れてしまいそうになる女性――臨はガシガシと頭を掻きながら盛大な舌打ちを一つ鳴らす。
因みに、片手を腰に当てての仁王立ちである。
「ッそ・・・寝る気が失せた」
まあ、ベットから飛び降りてそこそこ動き回っていれば当然の結果だ。
二度寝・・・否、三度寝を諦めた臨のその後の行動は迅速だった。
ぐしゃぐしゃになったベッドを適当に整えた後、身支度と朝の一仕事をさっさと終らせ、拭き掃除や細かな所の掃除と約三日分の洗濯。
洗濯の前に朝食を・・・と思うも、いっそ清々しい程に食材棚は空だ。
今朝、スクルドの胃袋に収まった分で本当に食材が底をついた。
朝食を諦め、珈琲だけ流し込んだ臨は、洗濯板を使ってじゃぼじゃぼと衣類を擦る。
洗濯物を洗い濯ぎながら、頭の中では買う物のリストアップだ。
「(荷物が多くなりそうだから、ギルドで荷物持ちを頼むか。)」
子供の小遣い程度の依頼料で、ギルドでは荷物持ちや家具の移動などに必要な人材派遣も行っている。
老人や力の無い人などが頻繁に利用する、無くてはならないサービスだ。
勿論、小遣い程度の依頼料では、傭兵達の稼ぎにはならない。
なので、プラスで現物支給だったり“心付け”所謂チップ制が暗黙の了解となっている。
「ま、取りあえずは飯だな」
パンっと、シワを延ばして最後の一枚を干し終えた臨は、
“護身用”として周囲に押し付けられた投擲ナイフと財布が入った革製の鞄を腰に巻き付けて部屋を出た。
無論、ジムの部屋のドアに刺さっているナイフの回収も忘れない。
太いベルトに、厚手の革で作られた長方形のポーチと、その半分の幅のシザーケースのような物が両サイドに下がるウエストポーチは、ギルド職員への支給品である。
その証拠に、ポーチのフタには風見鶏の意匠が焼印で押されている。
実の所、一部の者にとっては憧れの代物だ。
“近衛騎士の鎧”と同じように、ギルド職員の身分証代わりと言っても過言ではないのだが、臨は『丈夫だし、貰ったからには使わないと勿体無い』位の感覚で使っていたりする。
赤い飛び魚を出た臨は、飛び魚から一番近いカフェで少し遅い朝食を済ませてからギルドに向かった。
理由は荷物持ちゲットの為だ。
そうでなければわざわざ休みの日まで職場に顔を出したりしない、用もなく言ったら最後休日が潰れるのは目に見えている。
食堂側のドアの外を素通りした臨がギルドの事務所側に入った瞬間、食堂側からギャイギャイと喧しい声が聞こえてきた。
大方、外を素通りした臨の姿に気付いた数人が、誰が荷物持ちに着いて行くかで揉めているのだろう。
突然食堂側が賑やかになった事にギョッとしていた事務所側に居た者たちは、食堂と事務所を隔てる壁に呆れた視線を向ける臨の姿に「ああ」と一様に納得した表情を見せた。
臨の場合、“お手伝い”の報酬は現物支給・・・つまり食事である。
店で出す事が少ない手の込んだ物や、創作料理、試作品などその日によって変わるが、
口に出来るチャンスが少ない物ばかりで、美味い物だと言うことに代わりはない。
そもそも、何でもかんでも自力でどうにかしてしまう事の多い臨が、こうして依頼に訪れること事態が稀な為、
休日に臨が事務所に顔を出すと大抵食堂に集う傭兵達は揉めるのだ。
「ノゾムさんモテモテですねー」
「私は飼育係りになった覚えは無いんだけどな・・・」
カウンターに頬杖をつき小さく笑うメルに苦笑を返しながら、依頼用紙とペンを受け取る。
「あはは!飼育係!確かに、そっちのほうがしっくり来るかもー!
あ、指名しちゃいますか?するなら5Dy、しないなら3Dyですよ」
「ジムが居たら指名したかったけどな、居ないだろ?」
「はい。残念ですけど朝から護衛の依頼でいらっしゃいませんよ」
じゃあ誰でも言いや。と、財布からコインを取り出した臨は微妙な気分になる。
馬の合うジムが居なかった事に対してではなく、硬貨に対してだ。
この大陸の通貨は金、銀、銅のコインを用いる、Dyと言う単位の物だ。
銅貨30で銀貨1、銀貨30で金貨1。
銅貨1枚=1Dy。
日本円に換算すると1Dyが約100円程だ。
Dyと言わずに銅何枚、銀何枚などと言う事もある。
金貨の上にも別種の通貨があるのだが、余程の金持ちでなければお目に掛かる事はないので大体こんな所だ。
まあ、そこまでは良いだろう。
ファンタジーのお約束で、一般的に普及している通貨に紙幣が無いのは許せた。
だが、一年以上をこの世界で過ごす臨が未だに硬貨に対して微妙な気分になる理由は・・・
「やっぱりどう見ても、銭貨・・・」
「はい?」
不思議がるメルに、首を振って見せた臨が手にする銅貨は、中央に四角い穴が開いた時代劇で良く見るアレだ。
詳しく言うなら岡っ引きの銭形さんが投げたり、有名な戦国武将の旗印に六つ並ぶアレ。
因みに銀貨は一朱銀で(小さな長方形の銀貨)、金貨は一朱金と呼ばれる小さな正方形の金板だ。
初めて通貨を見せられた時、臨はどこの時代劇だ!と思ったそうだ。
手続きを終えると、普通ならば受付を担当職員(この場合はメル)が食堂へ声を掛けるのだが、勝手知ったるなんとやら。
臨はカウンターを離れると、さっさと食堂の戸を開けた。
開けた瞬間、丁度よく最後の勝負がついたらしく甲高い歓声と野太い悲鳴があがった。
「で、今回は誰だ」
「はいはーい!あたし!」
「はい、却下」
勢いよく手をあげたボンテージ娘をばっさり切り捨てた臨に、手を下ろしたアリソンは頬を膨らませる。
「えー!何でぇー?!」
「女の子に大荷物持たせるぐらいなら自分で持つから」
真顔で言い切った臨に、その場に居合わせた女子達がキュンとした。
が、次の瞬間、ああ、チクショウ!何で店長女の子なんだろ!
と、揃ってこっそりと悔しがったそうな。