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雨降りとロリンズ

作者: たのシイナ

 会社から出た途端、カオリの顔に雨粒がかかった。彼氏居ない歴二年。カオリは我が家へと歩みの速度を早めた。


 駅までなんとか行けると急いだが、ものの100メートルも行かないうちに本降りになってしまった。慌てて飛びこんだのがCDショップの軒先。大手ではなく、こじんまりとした店だ。


 すでに同じような雨宿りで立て込んでいる。

 いち早く店員が軒先の雑誌類の上に広げた透明ビニールの上にも、点々と雨垂れがついていた。


 雨宿りの男女の濡れた衣服や髪の毛から、ケモノの匂いが立ち昇り、それが女たちの香水や、男たちの整髪料の匂いと混じって、ほとんど耐え難くなってくる。


 カオリは首だけねじって、後方の店内にまだ多少のスペースがあるのを認めると、人々を掻きわけて奥へと進んで、見るともなくタイトルを眺めていた。


 背後ではまだ道に落ちる激しい雨の音がしている。レジの店主とおぼしき中年の男が、自分ばかりをチラチラと見ているような気がした。


 雨宿り代に千数百円を払うのはきびし過ぎるだろう、とカオリは思いながら、それでも素振りだけでもと適当なCDに手をかけた。その時だった。


「その二つ隣りのソニー・ロリンズ、最高に面白いよ」

 という男の声が、カオリのすぐ耳の背後でした。

 あまりにも近いので、男の温かい息が皮膚に感じられるほどだった。


 余計なお世話だと、チラっと横目で見ると、黒のショルダーバッグを肩から提げた若者。年はカオリと同じか、下かもしれない。

 カオリは徴かに肩をすくめる程度にとどめた。


「良かったら、どこか感じのいいバーで、フィノ・アモンティリャードでも飲みながら、ソニー・ロリンズについて話しませんか?」


 まずまずの囁き声で熱い息とともに、彼はそうカオリの耳の中へと吹きこんだ。


「わたしに言ってるの?」

 カオリはその彼の方は見もせずに、片方の眉だけを上げて言った。


「ボクのこと、馴れ馴れしい奴だと思ってるんでしょう?」

 彼は少しも怯まずに笑顔をつくって見せた。


「その通りよ」

 と、カオリは男から離れながら言った。


「誰にでも声をかけるような男だと、思っているんでしょう?」


「違うの?」


「だとしたら、あなたは自分を低く考え過ぎているな。そこら辺にいる女の子と同じように、自分のこと思っているんですか?」


 なかなかのセリフだと思ったが、その風態にはおよそ似合わない。男は顔とは言わないが、言っていいセリフと悪いのとがある。


 爽快さなど微塵もなく、滑稽感まで漂ってくる。カオリはその点に同情を禁じ得なかったが、彼女にも趣味というものがあった。


 彼は中肉中背。肩はがっちりとしているが、どこか鈍重。硬そうで多めの髪。フケ性かも知れない。

 そんな分析をささっとやって、カオリは言った。


「悪いけど、興味ないわ」


 まるで顔の前をブンブン飛んでいる蝿でも追い払うような仕種と共に、そう冷たく言い放った。


「し、しかし、ロリンズのブローは絶品なんだがなあ」

 彼は慌てて食い下がる。


「そうじゃなくて」


「フィノ・アモンティリャードが嫌いなら、何か別の飲みものを」

 必死のあまり、唾液を飛ばしながら言い募った。


「あのね、興味がないのは、あなたなの」

 カオリはとどめを刺すように言った。


 一瞬、彼の表情が酷く驚いたようになった。次に、見開かれた両の目に痛みとも悲しみともいえない色が浮かんだ。


 なんと大袈裟なと内心思いつつも、カオリは急になんとも後ろめたいような気分に襲われた。


 彼から滲み出す幼児のような無防備さは、彼女に嫌悪の情をもよおさせたが、同時に踵を返して歩み去り難い気持ちもした。


 彼の目からは今にも涙が零れ落ちそうだと思った。

 彼女はうろたえたが、それを隠すように出入り口に向かうと、彼も黙って付いて来る。


 街に煙る雨は、だいぶ小降りになっていた。軒下で雨宿りをしていた人々の数が減っていた。

 すぐ背後に、まだ男が付いて来るのがわかった。


「どこまで付いて来るつもり?」

 振り返りもせずにカオリが訊いた。


「その先に素敵なカフェバーがあるんだけど」

 と、彼はカオリと肩を並べながらおずおずと言った。


 再び雨降りの街。カオリは投げやりに肩をすくめた。




 カフェバーは別に素敵でもなんでもなかった。湿った革とカビの匂いがしていた。


「何を飲む?」

 彼は気を遣いながら、まだ少しおずおずと訊いた。

 自分で誘っておきながら、カオリがその場にいるのが信じられないといったふうだった。


 奇妙な可笑しさと、あきらめの感情がふつふつと湧き起こるのを感じながら、カオリが言った。

「そうね、じゃ、フィノ・アモンティリャードを」


 それを聞くと、彼の顔がぱっと輝いた。

「フィノ・アモンティリャードを二つね」

 彼は嬉しそうな声でバーテンダーに注文した。


「さて、と」

 彼はもみ手をしながら、カオリの横顔を覗き込んで言った。「だけどちょっと意外だな。あなたみたいな女性がどうして」と、今更のように。


「それよりソニー・ロリンズのことを話してよ」

 カオリは彼の言葉を途中で遮って言った。


「え? ……ああ、そうね」

 彼は急にうろたえたように視線を宙に泳がせた。


 そこへグラスに注がれた飲み物が二人の前に置かれた。


「じゃ、まず乾杯といきますか」


 彼はグラスを持ち上げたが、カオリは相手とグラスを合わせず、それを口へ運んだ。


 チビチビと舐めるように飲む男を尻目に、彼女はぐっとふた口であけてしまうと、軽く音をさせてグラスを置いた。


「ソニー・ロリンズなんて聴いたこともないんでしょう? それにフィノ・アモンティリャードも初めてなんでしょう?」


 横で彼が赤くなって視線を落とした。

「すいません」


 なんだか可笑しくなって、カオリは笑った。

 彼もつられて笑っていた。

 でも、お腹の中は冷えびえと寒かった。


「はぁっ」

 と、この世のものとは思えないほどの溜息をつくと、カオリは首をすくめて窓を見た。


 もうっ……晴れたらいいのにな。

 窓ガラスを伝う大きな雨粒がひとつ、途中でふた手に分かれて落ちた。


 ‐了‐


ジャンルを恋愛としていますが、なんとも成就しない話で……いやはや……。


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