*結・続*
「アイツの両親、中学のとき離婚してた」
「ありゃりゃ、それは可哀想に」
「で、父親の方に引き取られて、それ以来母親とは会ってない――つーか、会っちゃいけないみたいなんだけど、一回だけ手紙が来たらしいんだ」
「ほうほう、手紙が……。ちなみに内容は?」
「いや、さすがにそこまでは分からなかったけど、結城が言うには『頑張ってますね』みたいな内容じゃないかって」
「『頑張ってますね』?」
「ちょうどその直前、大会で優勝した馬渕が大きく新聞に載ったんだけど、多分それを見た母親の手紙だろうって」
「なるほど。娘の元気な姿を見た母親の手紙、か……。もしかしてそれが翔子ちゃんの原動力だったりするのかい?」
「本人は、否定してるみたいだけどな。だけど誰がどう見ても、もう一度優勝して新聞に載るために――自分の姿を母親に見せるために、頑張ってるようにしか見えないって結城が」
「なるほどなるほど、見えてきたよ。おそらく、翔子ちゃんにペガサスが宿ったのはその本心が原因だろうね」
「本心?」
「ああ、本心――本当の心の内。そういうのは往々にして口にも顔にも行動にも出せないものなんだよ、君のモノローグと違ってね」
「うるせぇ、ほっとけ」
「だから誰にも打ち明けられないそれは、ストレスとなる。そしてさらに翔子ちゃんの場合、それに焦りと重圧というストレスもプラスされて、ますます本心の願いに依存して、だけど発散できないそれはまたストレスになって。そんなことを延々と繰り返した先でペガサスが生まれた――ってとこだろうね」
「……もしそれが原因なら、どういう対処法があるんだ?」
「そんなの簡単だよ。彼女のストレス発散に付き合ってあげればいいのさ。そうすれば一時的にだけど願いの無限ループから解放してあげられる」
「ストレス発散に付き合うって、一体オレは何すればイイんだよ?」
「大丈夫、何も難しいことは必要ないよ。彼女の本心を――誰にも打ち明けられなかったそれを、君がとことんまで聞いてあげればいいだけさ」
「聞いてあげるだけ……」
「ああその通り、聞いてあげるだけでいい。女性っていうのは大概、お茶でもしながら愚痴を聞いてもらうのが大好きなんだよ。……まぁ、そんな風に至極普通に――穏便に済めばいいけどね」
どすん、という大砲みたいな轟音。
撃ち出された砲弾は、オレの身体。
だけど、砲門と呼ぶべき体育倉庫の出入り口――スライド式の扉を、砲弾がブチ破ったことから、これはどう見ても暴発。
少なからず、オレにとっては暴発だ。事故以外の何ものでもない。
……まぁ、予測していた事故ではあるけど。
だから後ろ向きに吹き飛ばされたにも関わらず、オレは倒れることなくグラウンドを踏みしめ、土埃を巻き上げながら滑走し、そしてようやく勢いを殺しきった。
「全然穏便じゃねぇな、この展開」
やっぱり準備してきて正解だったな、と思いながら自分の身体を見下ろす。
そこにはオシャレ過ぎるほどにダメージを負った服と、その隙間から見える赤い傷口。
鋭利な『何か』による無数の切り傷。
「何で――」
と、ゆっくりとした足取りで体育倉庫から出てくる馬渕。
その背中には、腕の長さほどに大きくなった純白の翼。
袖を通しただけのジャージは翼によってめくれ上がり、スポーツブラが丸出しの状態になってしまっている。なってしまっているが、そこから色気のようなものは一切感じないし、感じられない。
その姿から感じられるのは、天使のような神々しさ。
吸血鬼が最も苦手とする――聖域の力。
そしてゆっくりとした歩みのまま、オレと一緒に吹き飛ばした扉の手前で、彼女は立ち止まる。
「何であの人の話なんかするのよっ!」
馬渕が言った――いや、吼えた。
その表情が怒りなのか驚きなのかは、オレには分からない。
しかし確かに分かるのは、それに反応するように背中の翼が再び巨大化したこと。馬渕の身長を超えるほど、爆発的に大きくなったこと。
今まで溜め込んだストレスを爆発させるかのように。
「あの人のことなんて、私に訊かないでよ!」
「何でだよ? 何でも訊いてイイっていったのはお前じゃねぇか。だから教えろよ、自分の母さんのことを――」
「あんなの、母親なんかじゃないっ!」
自分を抱きしめるように、異物を払うように、馬渕が一度両翼を羽ばたかせた。
もちろんヴィアンの言う通り、そんなことをしても人間は飛べない。精神世界ならまだしも、現実世界では不可能な話だ。
だけど、その羽ばたきは風を生んだ。
無数の白刃と化した羽根を乗せた、一陣の疾風を。
「――っ!」
とっさに身を縮め、オレは腕で急所を隠す。それだけの時間は――いや、それだけの時間しかなかった。文字通りそれは風のように速く、速過ぎると感じた頃には通り過ぎていた。
全身に痛みが走る。身構えたおかげで今回は吹き飛ばされなかったが、オレの服と皮膚はミキサーに突っ込んだみたいに切り刻まれていた。
「あの人は――」
馬渕が閉じた翼を広げる。
その動きは、風を起こすための予備動作。
そして、速過ぎる攻撃に対応できる唯一の時間。
「私を置いて出てった。捨てていったのよっ!」
翼が空気を叩くより一瞬早く、オレは真横に跳んだ。
それも、十メートル弱をたった一歩の踏み切りで。吸血鬼“もどき”の血の力を全開で。
しかし。
翼より早く動いたところで、風より速く動けるわけではない。第一、風を躱そうなんて考え自体が甘かった。
影や、炎や、髪や、牙や、水よりも。
風は速く。そして、
――攻撃範囲が広過ぎるっ!
そう理解できたのと同時に、オレは白い疾風に呑み込まれた。
しかも今度は体勢が悪い。躱そうと思っていたから防御はしてないし、身体は宙に浮いたまま。
結果、オレは疾風に吹き飛ばされ、白刃に切り刻まれ、全身を地面に強く打ち付けながら転がった。
「……やっぱり相性最悪だな」
そんなことを口に溜まった血と一緒に吐き出し、オレは一向に傷が治らない身体を立ち上がらせる。
聖域の攻撃力に対しての、闇の治癒力。
どっちが強いかなんてバカ日本代表でも分かる。実に分かりやすい話で、実に分かりきっていた話だ。
だって吸血鬼“もどき”の力が最低まで封じられた戦いを、オレは一度経験しているから。
だけど――あの時のオレとはもう違う。
そして、アイツとペガサスも違う。
ペガサスの攻撃は、数は多いが威力は低い。到底致命傷にはなりそうにない、羽根のように軽くて薄い一撃だ。
「馬渕!」
随分と遠く離れてしまった彼女を真っ直ぐ見据え、その名を呼んだ。そして返事を待たず、
「お前、母さんから手紙もらって嬉しかったんじゃねぇのかよ!?」
オレは一直線に駆け出した。
「――そんなわけあるはずないっ!」
否定の言葉と共に、馬渕が羽ばたく。
白い疾風が飛んでくる。回避不能の白刃の群れが。
だけど。
――躱せないのなら、躱さなければイイ。
覚悟さえ決めてしまえば簡単な話だ。ペガサスの力が尽きるのが先か、吸血鬼“もどき”の血が尽きるのが先かの我慢比べ。
だから、目前に迫る疾風に向かって走り続け、頭だけは両腕でガードして、オレはそのままの勢いで突っ込んだ。
足が止まる。風が壁のように立ちはだかり、前に進めない。
だけど一瞬で通り過ぎていく壁は、一瞬しかオレを止めることができない。
オレも、止まる気はない。
小細工一つなく、ただ走る。
「それがあったから、陸上頑張り続けてきたんじゃねぇのかよ!?」
「――違うっ!」
いくつもの壁に阻まれようとも。
「頑張り続けられたんじゃねぇのかよ!?」
「――違うっ!」
どれだけの白刃に切り刻まれようとも。
「頑張り続けてるんじゃねぇのかよ!?」
「違う、違う違う、違う違う違う違う――違うっ!」
たとえ相手の心に土足で踏み込むことになろうとも。
「お前の本心は――」
バカみたいに真っ直ぐ足を進めて、
「母さんのことが好きなんじゃねぇのかよっ!?」
オレは、吼えた。
もう既に馬渕は目の前で、そんな風に声を張り上げる必要はなかったけど、そうしなきゃいけない気がした。
そうすれば、馬渕の本心に届くような気がした。
そして。
彼女の答えは――否定の言葉ではなかった。
風のない穏やかな夜に、
「何で――」
と、小さく零した。
「あの人は私を置いて出てったのに。捨てていったのに。勝手に手紙なんか送ってきて、今さら母親面してるのに。そんなのあの人の自己満足なのに。どこまでも無責任で自分勝手な人なのに」
――何で? 何で? 何で!?
「何で――あの人を嫌いになれないの?」
と、涙を零した。
そして彼女は涙を追うようにその場に崩れ落ちて、泣き崩れた。
はぐれた子どものように、わんわんと。
お母さんに会いたいよ、と泣き続けた。