*結*
月が大きく傾いた頃。津々浦第二高校。校門前。
「アンタ一人で来てって言ったはずなんだけど?」
明らかに不愉快そうな声と顔で、上下ジャージ姿の馬渕はそう言った。
「いや、あの、まぁ、気にすんな。コイツは……保険みたいなモンだから」
部屋での作戦会議後、オレとヴィアンは待ち合わせの時間より一時間早く家を出た。
その理由は二つ。
一つはヴィアンが認識阻害って術式(毎度の如くの回りくどい説明で理論はよく分からなかったが、使用には条件が色々あるらしい)を学校に掛ける準備のため。
もう一つは馬渕との約束を守るため。オレ一人で来ないと、問題の翼を見せないというモノを。
だから早めに術式を準備して、念のためヴィアンにはその辺に隠れててもらおうと思っていたのに。
のに――オレとヴィアンは馬渕に会ってしまった。それもガッツリと。
というか、馬渕はすでに校門前で待っていた。「ゴメン。待った?」なんて爽やかに言わなくてもいい時間に。
「保険?」
と、眉をひそめながら、オレとヴィアンの顔を交互に――というより上下に見比べる馬渕。
もちろん、その高低差が生まれるのはヴィアンが大き過ぎるせいだということは言うまでもない。
「あれだ。オレが相談してみるって言ってた専門家――みたいなヤツがコイツのことだ。大丈夫。万が一の時のために連れてきただけで、いざという時以外は学校の外で待機させるから安心しろ」
「そうそう、僕のことは全く気にしないで。ご主人様が死んでも待ち続ける忠犬ハチ公の如く、しっかりとお留守番しとくから」
と、いつも通りのヘラヘラとした笑顔のヴィアンが言う。そして、
「後は若いお二人でどうぞごゆっくり」
どこかで聞いたことのあるような台詞を残し、緊張感なく手を振りながら立ち去っていった。
「…………」
その姿を、馬渕は一切見ていなかった。
ただただ、オレの顔を見ていた。それもガン見。つーか、普通に睨みつけていた。
「ま、まぁとりあえず中入ろうぜ。いつ誰が通り掛かるか分からないし、いつまでもこんなところに突っ立ってても話進まねぇしさ」
と、少し早口で言ってみると、
「…………」
無言のまま、頷くこともなく歩き出す馬渕。
うわー、確実に怒ってらっしゃる。面倒なことになったな、と思いながら気乗りしないがオレもその後ろに続く。
つーか、コイツに対してオレはずっと劣勢な気がする。脅され、怒られ、散々だ。
ちなみに、こんな田舎の学校には防犯意識など皆無なので、校門は開きっぱなしだし、センサーみたいなものがあるはずもない。
つまりヴィアンの術式が完成すれば、中で何が起ころうと誰も気づくことはない――いや、気づくことができない。認識阻害の術とは、そういうものらしい。
だから、たとえ人が死んだとしても、誰も気づかない。
誰にも気づかれずに――殺される。
「あの外人さ」
唐突に。
校舎の横を通り過ぎ、グラウンドの中ほどまで歩き進めた時。足を止めることも、オレの方を振り返ることなく馬渕が言った。
「ホントに信用してイイの? ホントに中に入って来ないの?」
「……まぁ一応、信用して大丈夫だ。胡散臭くて、話が無駄に長くて、身長も無駄にデカくて、意味不明発言多数のヘラヘラとしたヤツだけど、悪いヤツじゃねぇから」
性格は悪いヤツだけど、そこは一応伏せておこう。話がこじれる気がする。
「それに、もし何かあったらオレが責任取るから安心してくれ」
と、オレは『津々浦第二高校・女子陸上部』と書かれた背中に言ってみた。
ホントに何かあった時、一体オレがどんな責任を取れるかは不明だが、ヴィアンが無意味に約束を破ることはないだろう。
……別に、アイツを信用してるわけじゃねぇけど。
すると、その背中から、
「ふぅん。ま、アンタがそこまで言うなら信用しとくわ」
実にあっさりとした言葉が返ってきた。
正直、そこまでと言えるほど何か言ったつもりはないし、あんな“もどき”ヤロウを簡単に信用するのもどうかと思うが、それじゃ話が進まないのでオレとしてはありがたい。
そんなことじゃ、ここまで来た意味がない。
グラウンドの隅。第一体育倉庫。本来の待ち合わせ場所。
馬渕がポケットから取り出した鍵で、スライド式のその大きな扉を手慣れた手つきで開く。そして、一度周囲を確認してから中へ入った。
オレも一応、周囲を見る。見回す。見渡す。見通す。
もちろん、人の姿はどこにもない。こういうところは田舎で良かったな。そう思いながら、オレも馬渕に続いて中へと入る。
「……狭いな」
馬渕が倉庫の電気を点ける。すると放課後に来た時とは違い、そこにはぎっちりと体育用具が並んでいた。唯一入り口付近には何も置かれていない状態。おそらくあの時は使われていたモノが、収納されたんだろう。
「仕方ないでしょ。それとも、これからアンタの部屋行く?」
私は一向に構わないけど、と鼻で笑う馬渕。
放課後、オレたちが再びここで会うことにした理由は『背中の翼を見る』から――つまり、馬渕に服を脱いでもらうからだ。
もちろん、そんなことを野外でするわけにはいかないから、どこか誰もいない室内を見つける必要があった。
そして田舎の高校生が一番に思い付くそれは、互いの部屋。しかし、両者とも『家族がいるから』という理由で即NG。
だから、夜の体育倉庫への不法侵入という現状に落ち着くしかなかった。まぁ、陸女のエースということで馬渕がスペアの鍵を持っていたし、それにグラウンドという“もしも”の際に便利なモノも付いてるから悪い環境ではない。
「いいや、ここでイイ。つーか、ここがイイ」
こんな時間に仮の仮にも女子を連れて帰ったら、家族――特に姉ちゃんに何て言われるか分かったもんじゃない。
「あっそ。それじゃ、少し後ろ向いててくれる?」
「後ろ?」
「上、脱ぐから」
と、自分のジャージを指差す馬渕。
「それとも何? アンタは人の脱衣シーン見て喜ぶタイプなわけ?」
「オレにそんな趣味はねぇよ」
「そうよね。アンタは見られて喜ぶタイプだもんね」
「そんな趣味もねぇよ!」
それなら見る方がイイよ!
――とは、口が裂けても言わないし、言えないけどな!
「じゃあ、さっさと後ろ向いてくれる? ていうか、脱ぐんだから扉閉めてくれる? ホント気が利かないわね」
「気が利かなくて悪かったな」
そう言ってオレはその場で反転し、馬渕に背を向けるカタチで扉を閉める。そして言う通りに、そのままの体勢で立ち止まった。
それにも関わらず、背後から、
「そんなんだからモテないのよ、アンタ」
追撃のダメ出し。
「うるせぇな。別にモテたいなんて思ってねぇよ」
「モテない男はみんな、そうやって言い訳するのよ」
「…………」
何だろう。全ての退路を断たれた気分だ。いや、別にモテたいなんてホントに思ってないけど、ここで何か言っても言い訳になるような気がする。
と、言い返せなくなったことで――室内が静かになったことで、オレは気づいた。
ファスナーを下げる音に。
もちろんその音源は、後ろにいる馬渕のジャージからだろう。
続いて、布が擦れる音。
それがやけに大きく、オレの耳に届いた。自分の心音がうるさいにも関わらず、はっきりくっきりと。
あれ? もしかしてオレ、緊張してる?
いやいやいや。ないって、それはないって。相手は『×××』とか平気で言う女子だぞ。そんな女子が、二人きりの夜の体育倉庫で、服を脱いでいるだけじゃないか。緊張する要素なんか、一切ないじゃないですか。
まったく……ヴィアンが変なことを言うから、絶対にありえないことを考えて――
「もうこっち向いてイイよ」
との言葉に、オレの思考は全て停止した。ついでに一瞬、心臓も止まった気がする。
「――って言って、私が全裸だったらウケる?」
「……、……ウケねぇよ。本気で笑えねぇ」
今のフェイントも、な。心臓に悪いわ。
「何だ、つまんない。つまんない男。だからアンタはモテないのよ」
「それでウケるのがモテる男なら、オレはモテたくない」
「それなら問題ないわ。アンタは一生モテないってキャラ設定だから」
「その設定資料、今すぐ持ってこい!」
微塵になるまで斬り刻んでやるわ!
「で、話を戻すけど、ホントにもうこっち向いてイイよ」
「……全裸じゃねぇだろうな?」
「私に露出狂のキャラ設定はないわよ」
肌寒いから早くしてくれる、と馬渕。
「お、おう」
と、オレは返事をした。
一応、するにはしてみたが、改めて考えると何この状況?
振り向いて、見る、という決定権は全てオレにあるというのに、試されているような気がするのは何故だ? 気のせいか? いや、違う。オレは間違いなく試されている。……なるほど。つまりこれも一種のフェイントだな。全裸の話をしておいて、オレがすぐに振り向けるかどうかを試しているんだな。上等だ。上等じゃねぇか、馬渕。男子の底力、見せてやろうじゃねぇか!
と、オレは勇ましく、しかし慎重さを忘れずゆっくりと、身体を反転させた。もちろん、まさかの事態に備えて視線を下げておくことも忘れない。
――靴だ。
使い込まれたスニーカー。メーカー物のイイやつだ。
それの踵が見える。とりあえず全裸ではないようだ。
つーか、踵が見えるってことは、今度は馬渕が後ろ向きってことか。
そう分かると――顔を合わせずに済むと分かると、何となく安心して視線を徐々に上へと移動させた。
ジャージの下も、馬渕はちゃんと穿いていた。これで靴以外全裸という高難易度露出テクを駆使していないことも判明。
さらに視線を上げてみると、当然ながら腰があった。アスリートみたいに引き締まった、くびれた細く白い腰。
それが、オレの目に映った。つまり、宣言通り馬渕はジャージの上は着ていない。全裸じゃないが、半裸であることが確定した。
意を決する。これより上は、二つの意味で聖域だ。だが、ここで引き下がるなんて男じゃない(断じてエロい意味はない)。
一つ深呼吸してから、オレは馬渕の背中に視線を移した。
ブラは――着けていた。爽やかな水色の、スポーツブラって種類のヤツだろう。
だけどそんなモノ、オレの目にはほとんど映っていなかった。オレの意識は、その上――肩甲骨の辺りから生えている“それ”に、全て奪われていた。
それは、白い翼だった。
あらゆる穢れを知らない白。
何物にも染まることのない気高き白。
生まれる影さえも飲み込んでしまうような白。
――綺麗だ。
素直に、率直に、そんな言葉が自然と出てきた。
むしろ、口にしなかったことが不思議なくらいだ。いや、もしかしたらこのときのオレは言葉という概念を忘れていたのかもしれない。
ただそれ程に。
ただそれ程に、美しい白い翼だった。
……オレのとは正反対だな。
しばらく(自分的にはかなりの時間)見蕩れた後、ふとそう思った。
やっぱり、宿したモノが違う。
ペガサス。天馬。神話の存在。
ドッペルゲンガーとは伝説としての格が違う。……なんて言うとオレの影は拗ねるかもしれないけど、でもそれが真実であり、事実だ。
どうしようもなく事実、オレたちはアイツに勝てなかった。
格が――いや、次元が違い過ぎていた。
勝てる、なんて思ったのが間違っていた。間違い過ぎていた。
だけど。
だけど、勝とう、とは今でも思っている。勝率の問題ではなく、意志の問題として。
オレは、勝たなくてはならない。
だから、別格だろうが異次元だろうが関係ない。
そして、オレだってあの頃のままではない。格や次元はともかく、レベルは上がったはずだ。
もう二度と、アイツに宿ったあの――
「あのさ。あんまりジロジロ見ないでくれる? アンタに変な気持ちになられても困るし」
その言葉のせいで、オレの決意は完全に砕け散った。それはもう、ガラスでも叩き割るような音で。
「……変な気持ちってのは、腹の底から沸き上がるこの赤黒い感情のことか?」
少なからず劣情だったり、欲情だったり、発情だったりはしてない。
そりゃ、健康的な背中だとは思ったけど。
けど、それだけだ。
あいにく、オレは結城以外に劣情だったり、欲情だったり、発情だったりはしない。断じて、しない。
そう堂々と宣言したいのは山々だが、それには危険な香りが漂うのでしないだけだ。なんとなく、何かを失ってしまう恐れがあるからだ。
……もう既に手遅れな気もしないでもないが。
まぁ何にせよ、一瞬でもコイツのことを『綺麗』なんて思ったオレがバカだった。
つまり、バカな男代表だ。
もしかしたら日本代表も狙えるかも。
「大丈夫、確実にベスト4には入れるって。そしてアンタがバカでチビだってことは読者全員が知ってるって」
「よぅし、言いたいことは色々あるが一つだけにしといてやる」
今、赤黒い感情は真っ黒い感情に変わった。これでオレもミチルと同じカラーリングだ。影と同じダークでブラックだ。
「『オレの』『モノローグを』『読むな』」
「別に、そんなモン読んでないわよ。アンタのバカ面に書いてあんの」
「オレはそんな面した覚えはねぇよ!」
「じゃあチビ面」
「そんな面はねぇ! オレより少し、少しだけ、ほんの少しデカいからって調子に乗るなよ!」
「……必死ね、アンタも。“たかが”身長のことで」
「…………」
くそ、文字通り見下されてる。
やっぱりオレ、コイツ嫌いだ。
結局、白と黒は混じり合うことはないんだろう。
なんて、オレがモノローグを語っていると、何故かノッポ面をやや赤く染めて、
「でさ、薄原。私そろそろ服着てイイ?」
と、彼女は言った。
「結構肌寒いんですけど」
「おう、悪ぃ。とりあえず着てくれ」
そう言うと、オレに背中を向けたまま、馬渕は手に持っていたジャージに右腕を通し始めた。どうやら下着の上に直でジャージを着ていたみたいだ。多分、すぐに翼を見せられるように。
「で、どうすればこの翼は消えるわけ?」
右腕を通し終わり、次は左――と移ろうとした馬渕の動きが止まった。ジャージが翼に引っ掛かって、思うように動けなくなったからだ。
「あぁもう、邪魔くさい。ホント意味分かんない。薄原、何でもイイから早く消して」
そんな風に苛立ちながら少しジタバタした後、ようやくジャージを羽織り、左の袖にも腕を通す馬渕。
放課後、この体育倉庫で聞いた話の通り、その背中に生えている翼は手の平くらいの、大したサイズじゃない。
だけど所詮、異物は異物。あって困ることはあっても、なくて困ることはない。日常生活には支障をきたすし、人前で着替えもできない。
そして何よりその突起物は、走り高跳びの邪魔にしかならない。上を目指す者の、足枷にしかならない。
高く跳びたいという願いを――決して叶えてはくれない。
『たとえ翼が生えたところで、人間が飛べるわけがない。そういうのは幻想の中だけの話。そして結局、幻想は幻想でしかないのさ。なのに翔子ちゃんは願った。だから中途半端に叶った。“僕ら”はそういう存在だからね』
願いから生まれ、願いを叶えない存在。
所詮、ペガサス“もどき”――か。
「……放課後と違ってさ、オレから一つだけ質問してもイイか?」
ジャージによって隠れた白い翼を見ながら、オレが訊くと、
「何でもどうぞ。それでこの邪魔な翼が消えるなら」
放課後と同じく、彼女は背中越しに答えた。
だからそのまま。
「それじゃ遠慮なく。馬渕、お前さ――」
無防備な女子の背中に――不可侵の聖域に、オレは“言葉の刃”を突き立てた。
「自分の母さんのこと、どう思ってる?」
その瞬間、オレは穢れなき白に呑み込まれた。