*転*
「ペガサス」
例によって例の如く、ヴィアンは開口一番そう言った。そして続けて、
「何度も言うようだけど、僕は専門家じゃないから正確な情報じゃないかもしれないけど、それは承知しといてね」
と、お約束の前置き。
「ペガサス、天馬。その存在は諸説あるから、ここで僕が言及することは控えさせてもらうんだけど、とりあえず確かに言えることは、ギリシア神話とローマ神話に登場する、天駆ける翼を持つ馬。それがペガサス」
「それが、馬渕に宿ったモノなのか?」
「まぁ、十中八九の九分九厘そうだと思うよ」
――僕が実際に見たわけじゃないから、言い切れはしないけどね。
と、肩を竦めるヴィアン。
「別に俺も見たわけじゃねぇよ。話を聞いただけだ」
結局、オレは馬渕から“症状”だけを聞いて、家に帰って来た。そしていつも通り晩飯を食べ、いつも通りオレの部屋でヴィアンに報告。……正直、これが習慣化しているのもどうかと思うが。
「できれば翼を見てきてもらえれば、僕も断言できたかも知れないんだけど……まぁ、僕以上に専門家じゃないチルチルくんにそれを求めるのは酷な話か」
それに、人気のない体育倉庫で女性に上を脱いでもらうなんて、若さ故の暴走を招きそうだしね、とニヤつくエロオヤジ――いや、ヴィアン。
「でも、その翔子ちゃんは『白い翼が背中から生えた』って確かに言ったんだろう? なら、ペガサスだと思って間違いないよ」
「……あんまり言いたくねぇんだけど、宿ったのが『天使』って可能性はないのか?」
馬渕のあの性格からは到底似つかわしくないけど。似せようにも似てないけど。でも、白い翼と聞いてオレが最初に想像したのが天使だった。
人の背に翼。その姿は天使そのもののような気がした。
すると、いつも通りのヘラヘラとした笑みで、
「ムリムリムリ。天使なんてそんな存在、宿そうとしたって宿せないよ」
ヴィアンは大袈裟に首を横に振った。
「天使ってのはご存知の通り神の使い。神聖なる存在。穢れた人間にとっては不可侵な聖域だよ。それとも何かい? 翔子ちゃんは純真無垢な女の子だったりするのかい?」
「……大丈夫だ。馬渕に宿ったのは間違いなくペガサスだ」
純真無垢な女の子は『×××』なんて絶対言わない。
そんな穢れた馬渕にはペガサスがお似合い――
「いや待てよ。何でそれでペガサスなんだよ? ペガサスだって天使と同じく神聖な存在なんじゃねぇのか?」
神話に出てくるくらいだ。ペガサスも不可侵な聖域なんじゃないのか?
「まぁそれはそうなんだけど、言ってしまえば格が違う。天使とペガサスでは神聖さのレベルが違う。それがどんな意味を持つかは、身をもって経験したチルチルくんなら説明しなくてもイイだろう?」
「……あぁ」
そう頷いて、オレは視線を落とす。そこには確かに自分の左腕が――神聖なる炎に受けた傷なんて一つもない腕が、しっかりとつながっていた。
もし。
もし、あの戦いが精神世界じゃなかったら。
もし、オレに吸血鬼“もどき”の血が流れていなかったら。
もし、あそこでヴィアンがオレを無理矢理連れ帰ってなかったら。
オレは腕どころでなく、命を失っていただろう。
…………。
――そういえば、あのときの礼、まだ言ってねぇな。
そう思って視線を上げ、目の前の男を見る。あのとき、自分の力不足を八つ当たりしてしまった相手を。
何かを言おうとしてオレの唇が微かに動いた。しかし次の瞬間、それに何より、とヴィアンは言葉を続けた。
「速く走れる馬に、高く飛べる翼。走り高跳びの選手である翔子ちゃんには、ぴったりの願いだろう?」
「……まぁ、確かに」
結城の話じゃ、最近は記録が伸び悩んでいるらしいし。しかも大会が間近なら、何が何でも頼りたい相手だろう、ペガサスは。
「――って、ちょっと待てよ。それじゃ馬渕だけじゃなく、他にもペガサスを宿したヤツがいてもおかしくないんじゃねぇか? 別にウチの高校の走り高跳びの選手は、馬渕だけじゃないんだ」
するとヴィアンは鋭い牙を見せ、
「チルチルくんもなかなか分かってきたねぇ」
と、ニヤリと笑った。
「確かに君の言う通り、それだけじゃペガサスは宿らない。その程度の願いで“僕ら”は宿っちゃいけない。だから、翔子ちゃんの願いはその程度じゃないんだと、僕は思うよ」
「どういう意味だよ?」
「ペガサスに対する願いは『速く走りたい』や『高く飛びたい』ってのがポピュラーで、まぁ翔子ちゃんの場合はその両方なんだろうけど、おそらくその願いの重みが――想いの重みが違うんだよ」
「想いの、重み?」
一瞬、つまらないダジャレかとも思ったが、言った本人からはそんな雰囲気は一切なかった。
「あぁ。記録の伸び悩み、大会が近い、エースと言う重圧……なんて、正直“僕ら”からすれば大した想いじゃないんだ。そこから生まれるのは、軽薄な願いでしかない。そよ風で吹き飛んでしまうような、軽くて薄っぺらなモノさ」
――それこそ、羽根のようにね。
「だから、翔子ちゃんの願いには裏があるはずなんだ。いや、この場合は『根がある』と言ったほうがいいかな」
「何だよ、それ?」
「願いの根底にある想い、ってことさ。長い時間を掛けて、ゆっくりとじっくりとしっかりと積み重ねられた想い。それは強くて重い、“僕ら”を宿せるだけの願いとなる」
チルチルくんも身に覚えがある話だろう、とヴィアンがオレに問い掛ける。
「…………」
それは、実に身に覚えのある話だ。肉体的にも、経験的にも分かりやすい話だ。
結城は、サキュバスに。大神さんは、狼男に。魚住さんは、人魚に。オレは、ドッペルゲンガーに。
長い長い時間を掛けて、強く強く願った。
『蒔かぬ種は生えぬ』――だけど、その種がすぐさま花を咲かせるわけじゃない。
種から根が出て、芽が出て、茎が伸び、葉が増え、ようやく花が咲く。
日の光のように熱く、雨のように悲しく、降り注ぎ続けた願いが“ヤツら”を生み出す。
「だからね、君は翔子ちゃんの根を知る必要がある。いくら格が違えどペガサスも神聖な存在で、強敵には違いない。そんな相手の力の源を知っておいて、得することはあっても損することはないはずさ」
まぁ女の子の秘密なんて、他の意味でも無敵アイテムだけどね、とニヤつくヴィアン――いや、エロオヤジ。
もちろん、そんなのに付き合ってる暇はないし、付き合ってあげるようなオレではない。
「だけど秘密なんて、どうやって知るんだよ? 自分の秘密をベラベラ喋るヤツなんていねぇし、特に馬渕は意地でも言わないタイプだぞ」
解決のためにと、翼を見せてくれるよう頼んだけど、それすら拒否されたんだ。そんなことを簡単に教えてもらえるはずがない。
すると、一つ呆れたようにため息を吐いて、
「ホント、チルチルくんはお子様だねぇ」
と、ヴィアンは残念な目でオレを見た。
「異性に対するアプローチってのは、ストレートに限ったモノじゃない。時には変化球も大事なのさ。例えば――相手の友達から情報を仕入れる、とかね」
「友達って……アイツの交友関係なんて全く知らねぇぞ」
「やだなぁ、いるじゃないか一人。翔子ちゃんを昔から知っていて、仲が良くて、君からの突然の電話を迷惑どころか喜んでくれる人物が」
「…………」
なるほど。確かに一人いるな、信頼できる情報源が。
だからケータイを手に取り、手慣れた動作で見慣れた番号を表示させる。そしてそのまま電話を掛けようとした指を、ああそうだ、とヴィアンが止めた。
「ペガサスとの決戦は今夜なんでしょ? だったら、ラブラブトークは程々にね」
「うるせぇ、黙れ、殺す――略して黙殺するぞ」
「無視されるの!?」
それはそれでキツいなぁ、と呟くヴィアンを尻目に、今度こそオレは電話を掛けた。
ベルが鳴る。まだ相手は出ない。
そんな様子を見て、ところでさ、とヴィアン。
「翔子ちゃんとの待ち合わせは、どこだっけ?」
「第一体育倉庫。昼間と同じだ」
「へぇ、夜の体育倉庫か……。何とも響きがいやらしいねぇ」
と、ニヤつくエロオヤジ――いや、エロオヤジを、オレは宣言通り黙殺した。