「婚約者の手柄を奪うな」と言われたので、次の試験では何も教えませんでした
「君に教わったなどと言いふらすな。僕の手柄を奪うつもりか」
持っていた紙の端が、指の中で小さく鳴った。
セドリックは、私を見るときには滅多に見せない険しい顔をしていた。少し前まで彼を囲んでいた同級生たちも、口を閉じている。中庭の噴水だけが、変わらず水を落としていた。
私は彼の筆記総合首席を祝うために、ここへ来た。
ついでに、昨夜頼まれた演習の解説を渡して、今夜の勉強会を何時から始めるか確かめるつもりだった。
「私は、何も話していません」
ようやく出た声は、思ったよりも細かった。
きっかけは、同級生の何気ない一言だった。
二人でよく勉強していたものね、と。
その人は図書室で私たちを何度も見かけていて、「勉強会が役立ったんだね」と笑った。ただ、それだけだった。
「あなたがたくさん勉強したことは、私も知っています」
セドリックの記憶力は、学院でも抜きん出ていた。一度説明した式を正確に覚え、次の日にはよどみなく書く。試験前の夜も、遅くまで机に向かっていた。
だからこそ、今日の発表を見た私は嬉しかった。
廊下を歩きながら、最初に何と言って祝おうか、考えていたほどに。
「なら、余計な誤解はさせるな。僕は自分の力で首席になったんだ」
解説を握る指に、力が入った。
先月、保温術式の演習で、彼の装置が動かなかった夜を思い出す。
セドリックは教本と装置を交互に見て、「どこを直せばいい?」と私に聞いた。私は測定器を持ってきて、式を変える前に素材の反応を測りましょう、と答えた。けれど彼は翌朝が早いから結論を先に教えてほしいと言った。測った結果を短くまとめ、必要な調整を紙に書くと、彼はすぐに理解した。その紙を鞄に入れながら、「助かった」と笑った。
あの笑顔を思い出したせいで、目の前の顔をうまく見られなくなった。
「セドリック様」
明るい声がして、フローラ・ローデン嬢が彼の隣へ並んだ。薄桃色のリボンが、肩のあたりで揺れる。
「首席の方に教えるなんて、ずいぶん自信があるのね」
彼女の視線が、私の手元へ落ちた。
「それも、ご自分でお作りになった解説?」
「昨日、頼まれたものです」
セドリックを見る。
彼は紙を受け取ろうとせず、フローラ嬢へ少し身体を向けた。
「リネット。ちょうどいい機会だから言っておく。僕たちの婚約は解消しよう」
噴水の音が、急に遠くなった。
「……解消、ですか」
「僕はフローラと付き合う。彼女とは、将来の話もできるんだ。いつまでも君の小言を聞く生活は、もう終わりにしたい」
彼女の手が、彼の袖へ添えられた。
私たちは同じ十八歳で、親同士が決めた婚約を、幼い頃から知っていた。
学院に入ってからは、互いに忙しい中で一緒に勉強できる時間を、私は楽しみにしていた。演習が終わってから聞く、彼の一日の話も。
昨日まで続いていたその時間が、目の前で別のものに置き換えられていく。
「昨日も、解説を頼んでくれましたよね」
聞いてから、自分が何を確かめたいのか分かった。
私に会いたかったことが、一度くらいはあったのか。
せめて、机を並べた時間を、同じように覚えているのか。
彼は眉を寄せた。
「君が世話を焼きたがるから、付き合ってやっていたんだ。それを恩に着せられても困る」
私は紙を見下ろした。
彼がよく取り違える符号に、印を付けてある。その隣には、昨夜三度書き直した説明があった。
紙の端の折れ目を指でなぞり、半分に折った。もう一度折って、鞄の内側へ入れる。
「分かりました」
それだけ言うと、喉の奥が痛んだ。
一度息を吸い直す。
「両家への連絡は、私からもいたします」
「そうしてくれ」
セドリックは、ほっとしたように肩を下げた。
私は小さく頭を下げて、中庭を離れた。
「研究助手のお話は、もう決まっているのでしょう?」
背後から、フローラ嬢の声が聞こえた。
「ああ。当期の卒業資格さえ取れば、助手の席は決まっている。君と共同研究をする話も進められるよ」
門へ向かう石畳を数えながら歩いた。
寮へ戻って、食事を済ませて、それから。
そこで、足が少し遅くなった。
今夜、私はどこへ行けばいいのだろう。
* * *
部屋へ戻って、最初に両親への手紙を書いた。
婚約解消を告げられたこと。
セドリックには、ほかに将来を考える相手がいること。
勉強会について言われた言葉も、覚えている通りに書いた。
最後に、自分も解消に同意すると添えた。
封をしたときには、窓の外が暗くなっていた。廊下から夕食へ向かう足音が聞こえたけれど、しばらく椅子を立てなかった。
机の上には、中庭から持ち帰った解説がある。
折り目を開くと、書いた文字まで窮屈そうに見えた。
ここの説明は、もう少し短い方がいい。
この問題は、次の演習にも使える。
そう考えて、私は新しい紙を引き寄せた。
彼は長い文章を嫌がるから、式を先に書いて、その下に注意点を。
つい、いつも通りの順番で筆を動かした。
宛名の一文字目を書きかけて、止まった。
部屋の時計が鳴った。
いつもなら、そろそろ彼の待つ図書室へ向かう時刻だった。
「今日は、ここまで」
声にしてみると、机の上の灯りが少し滲んだ。
紙を重ねて、引き出しへ入れた。
そこにあった古い測定紙が、引っかかって落ちてくる。拾い上げると、温室模型の絵が描かれていた。
私は机の下の箱を引き出した。
中には、茶色い表紙のノートが入っていた。角が擦れ、綴じ紐が少し緩んでいる。
表紙には、私の名がある。
リネット・ベルシェ。
温室保温装置、試作記録。
春先の実習で育てた苗が、寒い朝にしおれたことがあった。小さな温室でも、夜の温度を保てればと思って作り始めた装置だ。
温室の隅に置ける大きさで、少ない魔力で動くものにしたかった。
最後に整理したページの日付は、数週間前だった。
その後の測定紙は挟んだままで、数字の順番さえ揃っていない。
私は紙を一枚ずつ机に広げた。
昨日なら、彼の説明を仕上げた後でやろうと、箱へ戻していただろう。
寝るまでには、まだ時間がある。
机の脇に立てていた進路案内も開いた。
設備研究の実習生募集。その欄には、温室や水回りの魔法装置の開発補助と書いてある。
応募には研究報告書が必要で、採用には卒業資格試験の合格が条件となる。報告書と合格証明の提出期限は、合否発表の翌日だった。
募集の欄に、細い線を引いた。
試験まで、四週間。
報告書をまとめるには、足りない測定をしなければならない。
ノートを開き、今日の日付を書いた。
その下に、明日の課題を記す。
素材を変えたときの反応を調べる。
筆を置いた途端、また涙が落ちた。
新しい日付の横に、丸い染みができる。乾くまで待ってから、私はそのページを開いたまま、測定紙の整理を続けた。
数日後、両家が婚約解消に合意したと知らせが届いた。
母の手紙には、手続きについての報告に続いて、一行あった。
『帰って話したくなったら、いつでもいらっしゃい』
その手紙は、研究ノートと同じ箱へしまった。
* * *
それから一週間後、私の装置は、甲高い音を立てて止まった。
温室模型の底に埋め込んだ素材が赤く光り、安全停止の留め具が落ちる。魔力の供給が断たれ、室内が静かになった。
「ああ……」
測定紙の最後に、停止、と書いた。
今日は、報告書に使える結果が出ると思っていた。
昨日の試作では温度を保てた。だから、練習用の素材を交換したときも、同じ式を使ったのだ。
最初は、なかなか温度が上がらなかった。 少し出力を足した後で、急に目盛りが動き始めた。止めようとしたときには、安全装置が作動していた。
「大丈夫?」
隣の机から、エリアス・ノールが顔を上げた。
袖をまくった腕には、修理中の装置から付いたらしい黒い筋がある。
「ええ。安全停止が働いたから」
彼は留め具が落ちているのを確かめてから、私の机の端へ来た。
「昨日と違うのは、どこ?」
「素材を替えたの。でも、式は同じだから……」
言いながら、私は測定紙を見た。
最初の欄には、素材の名前。
次の欄には、いきなり起動した時刻が書いてある。
「反応の速さを確かめていなかった」
エリアスは、私の視線の先へ目を落とした。
「測り直す?」
「うん。冷えるまで、少し待って」
彼は自分の机から時計を持ってきた。私は測定器をつなぎ直し、停止後の温度を書き留める。
温度が下がる間、二人で装置を眺めた。
窓から入る風で、白紙の端が持ち上がる。
エリアスが、空いた留め具を重し代わりに置いた。
「工房でも、この前、温まり方の遅い装置を見たよ。動いていないと思って触ったら、その後から熱くなった」
「魔力を入れた分が、すぐに温度に出なかったのね」
「親方に、手で確かめる前に測れって叱られた」
彼が少し困った顔で笑ったので、私も口元が緩んだ。
冷却を確認してから、弱い魔力を短く入れた。
目盛りはしばらく動かず、それからゆっくり上がる。
私は時計を見て、紙に数字を書いた。
同じ入力でもう一度測る。今度も、少し遅れて上がった。
「待つ前に、足してしまったのね」
最初の測定紙にも、そのことを書き足した。
下の欄を空けて、次は入力を弱めた後の温度を記録する。
結果が揃うと、さっき停止した紙も一緒にノートへ綴じた。
「この失敗、残しておくの?」
「次に同じことをしたら、今日の分がもったいないでしょう」
曲がった紙を伸ばしていると、エリアスが頷いた。
「前の共同実習の記録も、まだある?」
「接続を組み直したときの?」
「そう。君が、動かなかった順番まで書いてくれたやつ」
あれは、提出する前に何度も迷った記録だった。
完成した接続図だけなら一枚で済んだのに、失敗した図を足したら、四枚になった。
「途中の図が多すぎるって、思わなかった?」
「助かったよ。僕の組んだ装置が動かなかったとき、二枚目を見て、同じ順番でつないでいたって分かった」
彼は、私のノートの端に付いた印を見た。
「君の記録には、途中が残っている。あれで僕も直せた」
私は綴じ紐を結びかけたまま、彼を見た。
どの図の話か、彼は覚えていた。
私が隅に小さく書いた注意点まで。
「……その後、ちゃんと動いた?」
「うん。今度は、僕も途中を残した」
エリアスは自分の机へ戻り、薄い冊子を持ってきた。
開いたページには、装置の絵と、何本もの矢印があった。彼の字は少し右に傾いていて、余白に書くほど小さくなる。
私は冊子を受け取り、指を止めた。
「ここ。素材を替えたとき、接続まで全部替えたの?」
「その方が早いと思って」
「一つずつ替えたら、どこで直ったか分かるかもしれない」
彼は隣のページと見比べた。
それから、私が指した箇所に線を引く。
「次はそうしてみる。ありがとう」
温室模型を再び動かした。
今度は反応を待ってから、少しずつ調整した。目標の温度に近づくと、私は供給を弱め、冷め方を測った。
しばらくして、目盛りが落ち着く。
時計を見て、最後の数字を書く。
エリアスも時計を見ていた。
「止まらなかったね」
「うん」
返事をすると、胸のあたりが軽くなった。
紙の一番下に、安定、と書いた。
片付けが終わる頃、彼が私のノートを指した。
「今の測定、少し読ませてもらっていい? 素材の違いを見たい」
「今夜は報告書を書くから、明日なら」
言ってから、断るような返事になったかと、私は彼を見た。
「じゃあ、明日」
彼は素直に頷いた。
「終わったら、お茶を飲まない? 僕の冊子も持ってくる」
翌日、彼は約束した時刻に来た。
食堂のお茶は薄くて、私たちはそれぞれの記録を広げた。私の説明が長くなると、エリアスは分からなかった箇所を指して、もう一度聞いた。
その次は、彼の修理の話を聞いた。
気づけば、お茶が冷めていた。
そんな日を重ねながら、私は報告書をまとめた。成功した結果の前に、停止したときの測定も載せる。エリアスに借りた冊子は、約束の日に返した。
募集の受付へ報告書を出すと、担当の人が表紙の名前を確認した。
「資格を取得したら、証明をこちらへ。採否は、その確認後にお知らせします」
受領の控えをノートに挟み、私は試験用の練習表を作り始めた。
* * *
「例年のように、要点をまとめてくれ」
試験まで、あと一週間。
図書室の向かいの椅子を引いて、セドリックが座った。
私は自分の観測表を作っていた。時刻、温度、入力、その後の変化。練習のたびに同じ欄へ記録できるよう、線を引いているところだった。
「試験まで時間がない。演習全部を見直す余裕はないから、必要なところだけでいい」
彼が鞄から教本を出した。
その表紙には、見覚えのある紙片が何枚も挟まっている。以前、私が重要な箇所に付けたものだった。
私は反射的に、机の端の参考書へ手を伸ばした。
何を苦手にしているかなら、分かる。
どこから説明すれば、彼が早く理解できるかも。
伸ばした指が、本の背に触れる。
その下には、自分の練習表があった。
私は手を戻した。
「公開教材は、そちらの棚にあります。個別の解説は作りません」
セドリックが顔を上げた。
「まとめるだけだろう?」
「私にも、自分の試験の準備があります」
「君は実習に慣れているじゃないか。僕は筆記の方に時間を使ってきたんだ」
「では、残りの時間は実習の準備に使われたらいいと思います」
言いながら、観測表の最後の線を引いた。 少しだけ、線が曲がった。
「まだ婚約破棄を根に持っているのか」
周りの席へ、目を向けそうになった。
けれど私は、書いた線から定規を離し、筆に蓋をした。
「今日の予定は変えられません」
「少しくらい融通を利かせてくれてもいいだろう。今まで、君は僕と一緒に勉強するのが好きだったじゃないか」
喉の奥へ、何かがつかえた。
好きだった。
夜の図書室へ行く前には、鏡の前で髪を整えた。彼が問題を解き終えると、ほっとして笑った。一緒に寮へ帰る道を、もう少し長く歩けたらと思ったこともある。
私は教本から、自分のノートへ目を移した。
「今日は、自分の準備をします」
彼はしばらく黙っていた。
それから、壁の掲示へ視線を向ける。
卒業資格試験に向けた自由練習の案内が出ていた。素材を替えて測定できる時間と、借りられる道具が書かれている。
「あれに行くのか」
「はい。素材の違いを測っておきたいので」
「試験の課題は公開されているんだ。完成した術式を正しく再現すれば十分だろう。僕は式を覚える方に時間を使う」
彼は教本を引き寄せた。
私の付けた紙片の一つを外し、違うページへ挟む。
私は観測表とノートを鞄へ入れた。椅子を戻すとき、指に力が入りすぎているのに気づいた。
背もたれから手を離す。
「リネット」
「では、試験で」
図書室の扉を閉めた後、ようやく息を深く吸えた。
廊下の窓のそばで、エリアスが冊子を読んでいた。
私に気づくと、栞を挟んで顔を上げる。
「予定、変わった?」
私は鞄の留め具を確かめた。
ノートも、作りたての観測表も入っている。
「ううん。練習へ行きましょう」
実習室へ向かって、先に歩き始めた。
* * *
試験室の机には、手のひらほどの温室模型と、測定器、時計、白紙の記録用紙が置かれていた。
自分のノートは、入口で鞄と一緒に預けた。
手元の紙には、まだ名前しか書いていない。
隣の席にセドリックが座るのが見えた。
少し離れた列には、エリアスがいる。目が合うと、彼は小さく会釈した。私も頷いて、前を向いた。
試験官が、開始前の確認をする。
「制限時間は六十分。模型内を二十度から二十二度に保ち、最後の十分間、連続してその範囲を維持してください。観測、調整、安全管理も評価します」
掲示で何度も読んだ条件だった。
私は時計の針を確認した。
「支給素材の性質は、それぞれ異なります。まず測定し、適切な調整を行ってください。安全停止が作動した場合は、規定温度まで冷却した後、こちらの確認を受けて再開できます。試験時間は止まりません」
練習室で使っていたものと同じ安全機構を、目で確かめた。
留め具は上がっている。測定器の接続も、緩んでいない。
開始の合図が鳴った。
私はごく弱い魔力を短く入れた。
入力した時刻を書き、目盛りが動くのを待つ。
白紙の端へ、今後の測定欄を足した。頭の中で何度も作った表だ。線は必要な分だけにして、温度が上がり始めたところで時刻を記した。
まず、反応の速さ。
次に、弱めたときの下がり方。
隣では、すでに術式を組み終えたらしい。
セドリックの手元で、光が明るくなった。
私は自分の測定器へ目を戻した。
十分な量の魔力が伝わるまでを確かめ、供給を弱める。
温度が、思ったより速く落ちた。
時計を見て、数字を書く。
もう一度、同じ手順で測った。やはり下がるのが速い。素材の欄に、小さく印を付けた。
模型の中の温度は、まだ低い。
時計の針は、もうかなり動いていた。
測定ばかりで、時間を使いすぎているだろうか。
筆を持つ指が強張る。
あの実習室で、私は温度が上がる前に出力を足した。赤く光った素材を思い出し、測定の最後まで待った。
「教本通りなら、もう少し……」
隣から、小さな声が聞こえた。
セドリックの手が、出力の調整部へ伸びる。視界の端で、その動きが分かった。
私は記録を見ながら、自分の供給量を決めた。
素材が冷めやすい分、弱めすぎれば温度を保てない。出力を少しずつ上げて、上昇の速さを確かめる。
そのとき、鋭い音が鳴った。
肩が跳ねた。 隣の机の光が消え、留め具の落ちる音がした。
「今、急に上がった」
セドリックの声に、試験官が歩いてくる。
「操作を止めてください。安全停止を確認します」
私の目盛りも、動いていた。
音の方へ向いた顔を戻し、入力を弱める。
温度はゆっくり上がり続け、二十一度の近くへ来た。ここで、少し供給を落とす。
針が止まり、それから下がり始めた。
早い。
練習で扱った素材より、ずっと早く冷える。
慌てて出力を上げようとして、指を止めた。
手元の記録へ目を落とす。最初の測定でも、同じように下がっていた。
その数字の下へ、新しい時刻と温度を書く。
供給を小幅に戻した。
「冷却後に再開できます。再開前に、素材の反応を確認してください」
隣で、試験官が説明している。
「式は、正しく組んでいます」
「再開を希望する場合は、規定の手順で確認を受けてください」
私は温度を見守った。
下がる速さが緩み、針が二十度と二十一度の間で落ち着く。
少し待ってから、もう一段だけ供給を足した。
急に変えなければ、変化を追える。
針が上がり始めたところで、手を離す。
記録用紙には、入力を変えた時刻が並んでいた。その横に、上がった、下がった、落ち着いた、と短く添える。
書いているうちに、呼吸が測定の間隔と揃ってきた。
模型の中には、細い棒が立っている。
その先端の温度も確認した。底の測定値だけが温かくなっていても、苗の高さを保温できなければ困る。
同じ範囲にある。
私はその結果も記した。
隣の机で、留め具を戻す音がした。
「再開して構いません」
試験官の声が遠ざかる。
私は時計を見た。
残り時間は減っている。今の調整を続ければ、最後の十分に入る前に、動かし方を確かめられる。
供給を変えずに待つ。
温度は少し上がり、止まり、ゆっくり下がった。
この下がり方なら、針が下限へ近づいてからでは遅い。
私は記録を見比べ、次の補正を早めに入れることにした。
「やはり低い。最初から少し強くすれば……」
セドリックの声が聞こえた。
筆先が止まりそうになった。
私は今の時刻を書き、自分の装置の調整部へ手を置く。
供給を一段だけ増やす。
目盛りの動きを見ながら、待つ。
しばらくして、隣で二度目の停止音が鳴った。
「また……。さっきより出力を上げたのに」
「手を離してください。停止を確認します」
試験官が、同じ手順で装置を確かめる。 私は自分の模型を見ていた。
針は、二十一度の少し下。
供給は、このままでいい。
残り十分を告げる声がした。
隣では、まだ冷却を待っている。試験官が停止状態を確認する声が聞こえた。
紙の最後に、新しい欄を作る。
ここから終わりまで、範囲を保たなければならない。
時計の針が進む。
温度を書き、模型を見て、また時計を見る。
途中で、下がる速さが少し増した。
さっきの記録と同じ形だ。私は下限へ近づく前に、小さく補正した。
針が緩やかに動く。
その先を見つめていると、指の震えが収まった。
次の数字を書いた。
その次も。
終了の合図が鳴ったとき、最後の欄を埋めることができた。
「操作を終え、記録用紙を提出してください」
私は規定の手順で供給を切り、停止を確かめた。
紙を持ち上げると、掌の下に汗の跡があった。
試験官へ渡す前に、名前をもう一度見る。
リネット・ベルシェ。
試験室を出たところで、エリアスが鞄を受け取っていた。
「お疲れさま」
自分の鞄を抱えると、綴じ紐の結び目が内側から当たった。
ノートは、預けたときのまま入っている。
「どうだった?」
私は少し考えてから、答えた。
「全部、記録できた」
エリアスが笑って、頷いた。
二人で廊下を歩いた。外へ出ると、朝よりも風が暖かかった。
* * *
翌日の午後、掲示板の前は人でいっぱいだった。
私は手元の受験番号を見て、貼られた紙へ目を上げた。
番号と名前が、順に並んでいる。
自分の番号を見つけた。
その横に、自分の名前があった。
合格。
もう一度、最初から確かめた。
間違えていない。
「リネット」
エリアスが隣へ来た。
私は自分の名前を指し、その後で彼の名前を探した。
「あった。あなたも」
「うん」
彼の声が少し弾んでいた。
私も笑った。笑うと、頬が思ったより大きく動いた。
「先に証明を受け取ってくる。後で、温室の方へ行く?」
「今日は募集の窓口にも出すから、少し遅くなると思う」
「じゃあ、また時間を決めよう」
彼が手続きをする列へ向かった。
私は掲示板をもう一度見た。
セドリックの番号の横には、不合格と記されていた。その下には、再試験の案内を確認するよう書いてある。
昨日の二度の停止音が、耳に戻ってきた。
胸が少し重くなった。
私は自分の控えを折り、証明を受け取るために歩き始めた。
「リネット、少しいいか」
廊下の角に、セドリックがいた。
教本を抱え、もう片方の手には封筒を持っている。封筒の口は、乱れていた。
「助手の話まで、取り消された」
彼は中の紙を差し出した。
採用見送りの通知だった。
当期の卒業資格取得を条件とする内定について、条件未達のため採用を見送ると記されている。
私は中庭で聞いた彼の声を思い出した。
資格さえ取れば。
君と共同研究を。
「今日、担当者から渡された。再試験では間に合わないと言われたんだ」
彼が、紙の一行を指した。
今期の助手採用は、予定通り進めるとある。
「……そうですか」
紙を返そうとすると、彼は受け取らなかった。
「あの素材が悪かった。教本の式なら、同じ入力で温度が上がるはずだったのに」
「素材を確かめるところから、試験でした」
「そんなことは分かってる。でも、測定していたら時間が足りなくなると思ったんだ」
彼は教本の角を親指で押した。
挟まれた紙片が、少しずれた。
「君は慣れていたからできたんだろう。ああいう素材への対処を、先に教えてくれていれば」
私は通知を見下ろした。
採用条件の下には、担当者の署名がある。紙の端が、彼の指で折れていた。
「君が教えてくれていれば、こうはならなかった」
顔を上げる。
セドリックは私を見ていた。
教本を持ったまま、返事を待っている。
「あなたの実力で十分だと、おっしゃっていましたもの」
言い終えるまで、彼の顔から目を離さなかった。
彼の口が開いた。
けれど、すぐには声が出てこなかった。
廊下を学生が通り過ぎる。
合格証明を受け取った人が、折らないように両手で紙を持っていた。
セドリックは、私の方へ半歩近づいた。
「言い方が悪かった」
さっきより低い声だった。
「首席の発表の日は、少し気が立っていたんだ。皆が見ていたし、ああいうことを言われると……」
私は通知を差し出した。
今度は、彼が受け取った。
「戻ってきてくれないか」
彼の手が、封筒の端を撫でる。
「両親にも僕から話す。再試験まで、前のように一緒に勉強して、それから卒業すればいい。君なら、必要なところをまとめられるだろう」
図書室で彼の向かいへ座る自分が、一瞬浮かんだ。
解説を作り、正解した彼が笑うまで待つ夜。
私の鞄には、資格証明を入れるための厚紙が用意してある。
その隣には、報告書の受領控えが入っていた。
「私は、自分の研究を続けます」
鞄の持ち手を持ち直した。
「再試験の準備は、ご自分でお願いします」
「研究なら、その後でも――」
「応募して、もう報告書も提出しています」
彼が眉を動かした。
「君が?」
「はい」
その一言を返すと、声が通った。
今日は証明を受け取って、窓口へ出す。受付が閉まる前に、済ませたかった。
「セドリック様」
廊下の向こうから、フローラ嬢が来た。 私たちの前で足を止め、彼の手の通知を見る。
「担当の方からのお話は、済んだのね」
「ああ。ただ、リネットと話していて……」
「共同研究の話は進められないと聞いたわ。私は、ほかの実習先を探します。受付のあるところを、今日中に確かめたいので」
セドリックが口を閉じた。
フローラ嬢は私へ向き直った。
リボンに触れかけた手を下ろす。
「リネット様。あのときは、事情も知らずに言いすぎました。申し訳ありません」
私は、少し息を置いた。
「はい。謝罪は、受け取りました」
彼女は頭を下げた。
その隣で、セドリックは通知を封筒へ戻そうとしていた。紙の角が引っかかり、うまく入らない。
私は一歩、横へ退いた。
「提出の手続きがありますので、失礼します」
「待って、リネット」
彼の声が背中に届いた。
私は振り返り、一度だけ頭を下げてから、証明を受け取る列へ向かった。
自分の番が来ると、番号と名前を伝えた。
渡された紙を両手で受け取り、用意していた厚紙の間へ挟む。
そのまま、募集の窓口へ行った。
担当の人が証明を確認し、先に提出した報告書の受領控えと照らし合わせる。
「これで、必要な書類は揃いました」
私は、鞄の中の控えを確かめた。
窓口を離れるときには、歩く速さを気にせずに済んだ。
* * *
試験から三日後、設備研究の実習採用通知が届いた。
私は封を開けて、最初の一行を三度読んだ。
採用。
その下には、提出した報告書についての所見があった。
素材ごとの反応を測定していること。失敗の記録から原因を分析し、安全な調整につなげていること。
あの実習室の机が、はっきり浮かんだ。
私は膝の上のノートを開き、停止と書いた測定紙に触れた。角には、留め具を置いた小さな跡が残っている。
通知を挟んで、約束していた温室へ向かった。
エリアスは入口のそばで、修理した留め金を確かめていた。
私が来ると、すぐに手を止めた。
「結果、来た?」
「うん」
私は通知を出した。
彼は手を布で拭いてから受け取り、書かれた所見を読んだ。
「記録の取り方を、見てもらえた」
声にすると、胸がいっぱいになった。
「それなら、あの止まった装置も役に立ったね」
「本当に。載せてよかった」
通知を返してもらい、ノートへしまう。
エリアスも、工房での勤務開始の日が決まったと話した。最初は修理の補助をしながら、街の設備を回るそうだ。
「どんな装置が多いの?」
「水回りが多いって。温室もあるよ。僕はまず、どれがどこにつながってるか、覚えるところからだろうな」
「見たことのない装置なら、記録しておいて」
「君にも見せていい?」
「もちろん」
温室の中へ入ると、湿った土の匂いがした。
苗の葉が少し大きくなっている。私は模型を置いていた棚の前で足を止めた。
「次は、冷めやすい素材でも、もっと少ない魔力で保てるようにしたいの」
棚の端へノートを置き、図を開く。
「供給を増やすだけだと、使う人の負担になるでしょう。温室の方でも熱を逃がしにくくできたら、少し変わると思う」
エリアスは私の隣に立って、図を覗いた。
「この隙間、測ってみたいね。工房で使う留め具で、閉じ方を変えられるかもしれない」
「そういうのがあるの?」
「僕もまだ、全部は知らないけど」
その返事に、私は笑った。
エリアスも笑って、棚の上にあった小さな落ち葉を拾う。
「卒業したら、もう気軽に隣の机へ行けなくなるな」
落ち葉を掌に載せたまま、彼は少し黙った。
「これからも、君の研究を見せてほしい。僕の修理の話も聞いてくれる?」
私は図を見下ろした。
余白に、まだ書いていないことがたくさんある。
「私の研究に興味があるの?」
「あるよ。少しずつ条件を替えて、どこで変わるのか確かめるところが面白い。今日の、温室の方を変える話も」
そこで、彼の声が少し遅くなった。
「……君といる時間にも」
ノートの端を持った指が、温かくなった。 私は顔を上げた。
エリアスは私を見ていた。
続きを急かさずに、待っている。
「私も」
短く答えると、彼の目元が緩んだ。
「あなたの話を聞くの、楽しみにしているの」
食堂で冷めてしまったお茶を思い出した。
何度も聞き直して、図を書き足して、それから、まだ話していたいと思った時間を。
「では、次の休みに。お茶を飲みながら、続きを話しましょう」
「うん。何時にする?」
二人で日付と時刻を確かめた。
私が場所を提案すると、エリアスは冊子を持っていく、と言った。
その夜、私は自分の名前が書かれたノートを開いた。
新しいページに、温室の隙間を調べる、と書く。
余白には、次の休みの約束を記した。
次に会うとき、彼に見せたいものがあった。




