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「婚約者の手柄を奪うな」と言われたので、次の試験では何も教えませんでした

作者: 南野遥
掲載日:2026/10/12

 

「君に教わったなどと言いふらすな。僕の手柄を奪うつもりか」


 持っていた紙の端が、指の中で小さく鳴った。


 セドリックは、私を見るときには滅多に見せない険しい顔をしていた。少し前まで彼を囲んでいた同級生たちも、口を閉じている。中庭の噴水だけが、変わらず水を落としていた。


 私は彼の筆記総合首席を祝うために、ここへ来た。

 ついでに、昨夜頼まれた演習の解説を渡して、今夜の勉強会を何時から始めるか確かめるつもりだった。


「私は、何も話していません」


 ようやく出た声は、思ったよりも細かった。


 きっかけは、同級生の何気ない一言だった。

 二人でよく勉強していたものね、と。

 その人は図書室で私たちを何度も見かけていて、「勉強会が役立ったんだね」と笑った。ただ、それだけだった。


「あなたがたくさん勉強したことは、私も知っています」


 セドリックの記憶力は、学院でも抜きん出ていた。一度説明した式を正確に覚え、次の日にはよどみなく書く。試験前の夜も、遅くまで机に向かっていた。


 だからこそ、今日の発表を見た私は嬉しかった。

 廊下を歩きながら、最初に何と言って祝おうか、考えていたほどに。


「なら、余計な誤解はさせるな。僕は自分の力で首席になったんだ」


 解説を握る指に、力が入った。


 先月、保温術式の演習で、彼の装置が動かなかった夜を思い出す。

 セドリックは教本と装置を交互に見て、「どこを直せばいい?」と私に聞いた。私は測定器を持ってきて、式を変える前に素材の反応を測りましょう、と答えた。けれど彼は翌朝が早いから結論を先に教えてほしいと言った。測った結果を短くまとめ、必要な調整を紙に書くと、彼はすぐに理解した。その紙を鞄に入れながら、「助かった」と笑った。


 あの笑顔を思い出したせいで、目の前の顔をうまく見られなくなった。


「セドリック様」


 明るい声がして、フローラ・ローデン嬢が彼の隣へ並んだ。薄桃色のリボンが、肩のあたりで揺れる。


「首席の方に教えるなんて、ずいぶん自信があるのね」


 彼女の視線が、私の手元へ落ちた。


「それも、ご自分でお作りになった解説?」

「昨日、頼まれたものです」


 セドリックを見る。

 彼は紙を受け取ろうとせず、フローラ嬢へ少し身体を向けた。


「リネット。ちょうどいい機会だから言っておく。僕たちの婚約は解消しよう」


 噴水の音が、急に遠くなった。


「……解消、ですか」

「僕はフローラと付き合う。彼女とは、将来の話もできるんだ。いつまでも君の小言を聞く生活は、もう終わりにしたい」


 彼女の手が、彼の袖へ添えられた。


 私たちは同じ十八歳で、親同士が決めた婚約を、幼い頃から知っていた。

 学院に入ってからは、互いに忙しい中で一緒に勉強できる時間を、私は楽しみにしていた。演習が終わってから聞く、彼の一日の話も。


 昨日まで続いていたその時間が、目の前で別のものに置き換えられていく。


「昨日も、解説を頼んでくれましたよね」


 聞いてから、自分が何を確かめたいのか分かった。


 私に会いたかったことが、一度くらいはあったのか。

 せめて、机を並べた時間を、同じように覚えているのか。


 彼は眉を寄せた。


「君が世話を焼きたがるから、付き合ってやっていたんだ。それを恩に着せられても困る」


 私は紙を見下ろした。


 彼がよく取り違える符号に、印を付けてある。その隣には、昨夜三度書き直した説明があった。

 紙の端の折れ目を指でなぞり、半分に折った。もう一度折って、鞄の内側へ入れる。


「分かりました」


 それだけ言うと、喉の奥が痛んだ。

 一度息を吸い直す。


「両家への連絡は、私からもいたします」

「そうしてくれ」


 セドリックは、ほっとしたように肩を下げた。

 私は小さく頭を下げて、中庭を離れた。


「研究助手のお話は、もう決まっているのでしょう?」


 背後から、フローラ嬢の声が聞こえた。


「ああ。当期の卒業資格さえ取れば、助手の席は決まっている。君と共同研究をする話も進められるよ」


 門へ向かう石畳を数えながら歩いた。

 寮へ戻って、食事を済ませて、それから。


 そこで、足が少し遅くなった。


 今夜、私はどこへ行けばいいのだろう。


 * * *


 部屋へ戻って、最初に両親への手紙を書いた。


 婚約解消を告げられたこと。

 セドリックには、ほかに将来を考える相手がいること。

 勉強会について言われた言葉も、覚えている通りに書いた。


 最後に、自分も解消に同意すると添えた。


 封をしたときには、窓の外が暗くなっていた。廊下から夕食へ向かう足音が聞こえたけれど、しばらく椅子を立てなかった。


 机の上には、中庭から持ち帰った解説がある。

 折り目を開くと、書いた文字まで窮屈そうに見えた。


 ここの説明は、もう少し短い方がいい。

 この問題は、次の演習にも使える。

 そう考えて、私は新しい紙を引き寄せた。


 彼は長い文章を嫌がるから、式を先に書いて、その下に注意点を。

 つい、いつも通りの順番で筆を動かした。


 宛名の一文字目を書きかけて、止まった。


 部屋の時計が鳴った。

 いつもなら、そろそろ彼の待つ図書室へ向かう時刻だった。


「今日は、ここまで」


 声にしてみると、机の上の灯りが少し滲んだ。


 紙を重ねて、引き出しへ入れた。

 そこにあった古い測定紙が、引っかかって落ちてくる。拾い上げると、温室模型の絵が描かれていた。


 私は机の下の箱を引き出した。


 中には、茶色い表紙のノートが入っていた。角が擦れ、綴じ紐が少し緩んでいる。

 表紙には、私の名がある。


 リネット・ベルシェ。

 温室保温装置、試作記録。


 春先の実習で育てた苗が、寒い朝にしおれたことがあった。小さな温室でも、夜の温度を保てればと思って作り始めた装置だ。

 温室の隅に置ける大きさで、少ない魔力で動くものにしたかった。


 最後に整理したページの日付は、数週間前だった。

 その後の測定紙は挟んだままで、数字の順番さえ揃っていない。


 私は紙を一枚ずつ机に広げた。

 昨日なら、彼の説明を仕上げた後でやろうと、箱へ戻していただろう。


 寝るまでには、まだ時間がある。


 机の脇に立てていた進路案内も開いた。

 設備研究の実習生募集。その欄には、温室や水回りの魔法装置の開発補助と書いてある。


 応募には研究報告書が必要で、採用には卒業資格試験の合格が条件となる。報告書と合格証明の提出期限は、合否発表の翌日だった。


 募集の欄に、細い線を引いた。


 試験まで、四週間。

 報告書をまとめるには、足りない測定をしなければならない。


 ノートを開き、今日の日付を書いた。

 その下に、明日の課題を記す。


 素材を変えたときの反応を調べる。


 筆を置いた途端、また涙が落ちた。

 新しい日付の横に、丸い染みができる。乾くまで待ってから、私はそのページを開いたまま、測定紙の整理を続けた。


 数日後、両家が婚約解消に合意したと知らせが届いた。

 母の手紙には、手続きについての報告に続いて、一行あった。


『帰って話したくなったら、いつでもいらっしゃい』


 その手紙は、研究ノートと同じ箱へしまった。


 * * *


 それから一週間後、私の装置は、甲高い音を立てて止まった。


 温室模型の底に埋め込んだ素材が赤く光り、安全停止の留め具が落ちる。魔力の供給が断たれ、室内が静かになった。


「ああ……」


 測定紙の最後に、停止、と書いた。


 今日は、報告書に使える結果が出ると思っていた。

 昨日の試作では温度を保てた。だから、練習用の素材を交換したときも、同じ式を使ったのだ。


 最初は、なかなか温度が上がらなかった。  少し出力を足した後で、急に目盛りが動き始めた。止めようとしたときには、安全装置が作動していた。


「大丈夫?」


 隣の机から、エリアス・ノールが顔を上げた。

 袖をまくった腕には、修理中の装置から付いたらしい黒い筋がある。


「ええ。安全停止が働いたから」


 彼は留め具が落ちているのを確かめてから、私の机の端へ来た。


「昨日と違うのは、どこ?」

「素材を替えたの。でも、式は同じだから……」


 言いながら、私は測定紙を見た。


 最初の欄には、素材の名前。

 次の欄には、いきなり起動した時刻が書いてある。


「反応の速さを確かめていなかった」


 エリアスは、私の視線の先へ目を落とした。


「測り直す?」

「うん。冷えるまで、少し待って」


 彼は自分の机から時計を持ってきた。私は測定器をつなぎ直し、停止後の温度を書き留める。

 温度が下がる間、二人で装置を眺めた。


 窓から入る風で、白紙の端が持ち上がる。

 エリアスが、空いた留め具を重し代わりに置いた。


「工房でも、この前、温まり方の遅い装置を見たよ。動いていないと思って触ったら、その後から熱くなった」

「魔力を入れた分が、すぐに温度に出なかったのね」

「親方に、手で確かめる前に測れって叱られた」


 彼が少し困った顔で笑ったので、私も口元が緩んだ。


 冷却を確認してから、弱い魔力を短く入れた。

 目盛りはしばらく動かず、それからゆっくり上がる。


 私は時計を見て、紙に数字を書いた。

 同じ入力でもう一度測る。今度も、少し遅れて上がった。


「待つ前に、足してしまったのね」


 最初の測定紙にも、そのことを書き足した。

 下の欄を空けて、次は入力を弱めた後の温度を記録する。


 結果が揃うと、さっき停止した紙も一緒にノートへ綴じた。


「この失敗、残しておくの?」

「次に同じことをしたら、今日の分がもったいないでしょう」


 曲がった紙を伸ばしていると、エリアスが頷いた。


「前の共同実習の記録も、まだある?」

「接続を組み直したときの?」

「そう。君が、動かなかった順番まで書いてくれたやつ」


 あれは、提出する前に何度も迷った記録だった。

 完成した接続図だけなら一枚で済んだのに、失敗した図を足したら、四枚になった。


「途中の図が多すぎるって、思わなかった?」

「助かったよ。僕の組んだ装置が動かなかったとき、二枚目を見て、同じ順番でつないでいたって分かった」


 彼は、私のノートの端に付いた印を見た。


「君の記録には、途中が残っている。あれで僕も直せた」


 私は綴じ紐を結びかけたまま、彼を見た。


 どの図の話か、彼は覚えていた。

 私が隅に小さく書いた注意点まで。


「……その後、ちゃんと動いた?」

「うん。今度は、僕も途中を残した」


 エリアスは自分の机へ戻り、薄い冊子を持ってきた。

 開いたページには、装置の絵と、何本もの矢印があった。彼の字は少し右に傾いていて、余白に書くほど小さくなる。


 私は冊子を受け取り、指を止めた。


「ここ。素材を替えたとき、接続まで全部替えたの?」

「その方が早いと思って」

「一つずつ替えたら、どこで直ったか分かるかもしれない」


 彼は隣のページと見比べた。

 それから、私が指した箇所に線を引く。


「次はそうしてみる。ありがとう」


 温室模型を再び動かした。

 今度は反応を待ってから、少しずつ調整した。目標の温度に近づくと、私は供給を弱め、冷め方を測った。


 しばらくして、目盛りが落ち着く。


 時計を見て、最後の数字を書く。

 エリアスも時計を見ていた。


「止まらなかったね」

「うん」


 返事をすると、胸のあたりが軽くなった。

 紙の一番下に、安定、と書いた。


 片付けが終わる頃、彼が私のノートを指した。


「今の測定、少し読ませてもらっていい? 素材の違いを見たい」

「今夜は報告書を書くから、明日なら」


 言ってから、断るような返事になったかと、私は彼を見た。


「じゃあ、明日」


 彼は素直に頷いた。


「終わったら、お茶を飲まない? 僕の冊子も持ってくる」


 翌日、彼は約束した時刻に来た。

 食堂のお茶は薄くて、私たちはそれぞれの記録を広げた。私の説明が長くなると、エリアスは分からなかった箇所を指して、もう一度聞いた。


 その次は、彼の修理の話を聞いた。

 気づけば、お茶が冷めていた。


 そんな日を重ねながら、私は報告書をまとめた。成功した結果の前に、停止したときの測定も載せる。エリアスに借りた冊子は、約束の日に返した。


 募集の受付へ報告書を出すと、担当の人が表紙の名前を確認した。


「資格を取得したら、証明をこちらへ。採否は、その確認後にお知らせします」


 受領の控えをノートに挟み、私は試験用の練習表を作り始めた。


 * * *


「例年のように、要点をまとめてくれ」


 試験まで、あと一週間。

 図書室の向かいの椅子を引いて、セドリックが座った。


 私は自分の観測表を作っていた。時刻、温度、入力、その後の変化。練習のたびに同じ欄へ記録できるよう、線を引いているところだった。


「試験まで時間がない。演習全部を見直す余裕はないから、必要なところだけでいい」


 彼が鞄から教本を出した。

 その表紙には、見覚えのある紙片が何枚も挟まっている。以前、私が重要な箇所に付けたものだった。


 私は反射的に、机の端の参考書へ手を伸ばした。


 何を苦手にしているかなら、分かる。

 どこから説明すれば、彼が早く理解できるかも。


 伸ばした指が、本の背に触れる。

 その下には、自分の練習表があった。


 私は手を戻した。


「公開教材は、そちらの棚にあります。個別の解説は作りません」


 セドリックが顔を上げた。


「まとめるだけだろう?」

「私にも、自分の試験の準備があります」

「君は実習に慣れているじゃないか。僕は筆記の方に時間を使ってきたんだ」

「では、残りの時間は実習の準備に使われたらいいと思います」


 言いながら、観測表の最後の線を引いた。  少しだけ、線が曲がった。


「まだ婚約破棄を根に持っているのか」


 周りの席へ、目を向けそうになった。

 けれど私は、書いた線から定規を離し、筆に蓋をした。


「今日の予定は変えられません」

「少しくらい融通を利かせてくれてもいいだろう。今まで、君は僕と一緒に勉強するのが好きだったじゃないか」


 喉の奥へ、何かがつかえた。


 好きだった。

 夜の図書室へ行く前には、鏡の前で髪を整えた。彼が問題を解き終えると、ほっとして笑った。一緒に寮へ帰る道を、もう少し長く歩けたらと思ったこともある。


 私は教本から、自分のノートへ目を移した。


「今日は、自分の準備をします」


 彼はしばらく黙っていた。

 それから、壁の掲示へ視線を向ける。


 卒業資格試験に向けた自由練習の案内が出ていた。素材を替えて測定できる時間と、借りられる道具が書かれている。


「あれに行くのか」

「はい。素材の違いを測っておきたいので」

「試験の課題は公開されているんだ。完成した術式を正しく再現すれば十分だろう。僕は式を覚える方に時間を使う」


 彼は教本を引き寄せた。

 私の付けた紙片の一つを外し、違うページへ挟む。


 私は観測表とノートを鞄へ入れた。椅子を戻すとき、指に力が入りすぎているのに気づいた。

 背もたれから手を離す。


「リネット」

「では、試験で」


 図書室の扉を閉めた後、ようやく息を深く吸えた。


 廊下の窓のそばで、エリアスが冊子を読んでいた。

 私に気づくと、栞を挟んで顔を上げる。


「予定、変わった?」


 私は鞄の留め具を確かめた。

 ノートも、作りたての観測表も入っている。


「ううん。練習へ行きましょう」


 実習室へ向かって、先に歩き始めた。


 * * *


 試験室の机には、手のひらほどの温室模型と、測定器、時計、白紙の記録用紙が置かれていた。


 自分のノートは、入口で鞄と一緒に預けた。

 手元の紙には、まだ名前しか書いていない。


 隣の席にセドリックが座るのが見えた。

 少し離れた列には、エリアスがいる。目が合うと、彼は小さく会釈した。私も頷いて、前を向いた。


 試験官が、開始前の確認をする。


「制限時間は六十分。模型内を二十度から二十二度に保ち、最後の十分間、連続してその範囲を維持してください。観測、調整、安全管理も評価します」


 掲示で何度も読んだ条件だった。

 私は時計の針を確認した。


「支給素材の性質は、それぞれ異なります。まず測定し、適切な調整を行ってください。安全停止が作動した場合は、規定温度まで冷却した後、こちらの確認を受けて再開できます。試験時間は止まりません」


 練習室で使っていたものと同じ安全機構を、目で確かめた。

 留め具は上がっている。測定器の接続も、緩んでいない。


 開始の合図が鳴った。


 私はごく弱い魔力を短く入れた。

 入力した時刻を書き、目盛りが動くのを待つ。


 白紙の端へ、今後の測定欄を足した。頭の中で何度も作った表だ。線は必要な分だけにして、温度が上がり始めたところで時刻を記した。


 まず、反応の速さ。

 次に、弱めたときの下がり方。


 隣では、すでに術式を組み終えたらしい。

 セドリックの手元で、光が明るくなった。


 私は自分の測定器へ目を戻した。

 十分な量の魔力が伝わるまでを確かめ、供給を弱める。


 温度が、思ったより速く落ちた。


 時計を見て、数字を書く。

 もう一度、同じ手順で測った。やはり下がるのが速い。素材の欄に、小さく印を付けた。


 模型の中の温度は、まだ低い。

 時計の針は、もうかなり動いていた。


 測定ばかりで、時間を使いすぎているだろうか。


 筆を持つ指が強張る。

 あの実習室で、私は温度が上がる前に出力を足した。赤く光った素材を思い出し、測定の最後まで待った。


「教本通りなら、もう少し……」


 隣から、小さな声が聞こえた。

 セドリックの手が、出力の調整部へ伸びる。視界の端で、その動きが分かった。


 私は記録を見ながら、自分の供給量を決めた。

 素材が冷めやすい分、弱めすぎれば温度を保てない。出力を少しずつ上げて、上昇の速さを確かめる。


 そのとき、鋭い音が鳴った。


 肩が跳ねた。 隣の机の光が消え、留め具の落ちる音がした。


「今、急に上がった」


 セドリックの声に、試験官が歩いてくる。


「操作を止めてください。安全停止を確認します」


 私の目盛りも、動いていた。

 音の方へ向いた顔を戻し、入力を弱める。


 温度はゆっくり上がり続け、二十一度の近くへ来た。ここで、少し供給を落とす。

 針が止まり、それから下がり始めた。


 早い。


 練習で扱った素材より、ずっと早く冷える。


 慌てて出力を上げようとして、指を止めた。

 手元の記録へ目を落とす。最初の測定でも、同じように下がっていた。


 その数字の下へ、新しい時刻と温度を書く。

 供給を小幅に戻した。


「冷却後に再開できます。再開前に、素材の反応を確認してください」


 隣で、試験官が説明している。


「式は、正しく組んでいます」

「再開を希望する場合は、規定の手順で確認を受けてください」


 私は温度を見守った。

 下がる速さが緩み、針が二十度と二十一度の間で落ち着く。


 少し待ってから、もう一段だけ供給を足した。


 急に変えなければ、変化を追える。

 針が上がり始めたところで、手を離す。


 記録用紙には、入力を変えた時刻が並んでいた。その横に、上がった、下がった、落ち着いた、と短く添える。

 書いているうちに、呼吸が測定の間隔と揃ってきた。


 模型の中には、細い棒が立っている。

 その先端の温度も確認した。底の測定値だけが温かくなっていても、苗の高さを保温できなければ困る。


 同じ範囲にある。

 私はその結果も記した。


 隣の机で、留め具を戻す音がした。


「再開して構いません」


 試験官の声が遠ざかる。


 私は時計を見た。

 残り時間は減っている。今の調整を続ければ、最後の十分に入る前に、動かし方を確かめられる。


 供給を変えずに待つ。

 温度は少し上がり、止まり、ゆっくり下がった。


 この下がり方なら、針が下限へ近づいてからでは遅い。

 私は記録を見比べ、次の補正を早めに入れることにした。


「やはり低い。最初から少し強くすれば……」


 セドリックの声が聞こえた。


 筆先が止まりそうになった。

 私は今の時刻を書き、自分の装置の調整部へ手を置く。


 供給を一段だけ増やす。

 目盛りの動きを見ながら、待つ。


 しばらくして、隣で二度目の停止音が鳴った。


「また……。さっきより出力を上げたのに」

「手を離してください。停止を確認します」


 試験官が、同じ手順で装置を確かめる。  私は自分の模型を見ていた。


 針は、二十一度の少し下。

 供給は、このままでいい。


 残り十分を告げる声がした。

 隣では、まだ冷却を待っている。試験官が停止状態を確認する声が聞こえた。


 紙の最後に、新しい欄を作る。

 ここから終わりまで、範囲を保たなければならない。


 時計の針が進む。

 温度を書き、模型を見て、また時計を見る。


 途中で、下がる速さが少し増した。

 さっきの記録と同じ形だ。私は下限へ近づく前に、小さく補正した。


 針が緩やかに動く。

 その先を見つめていると、指の震えが収まった。


 次の数字を書いた。

 その次も。


 終了の合図が鳴ったとき、最後の欄を埋めることができた。


「操作を終え、記録用紙を提出してください」


 私は規定の手順で供給を切り、停止を確かめた。

 紙を持ち上げると、掌の下に汗の跡があった。


 試験官へ渡す前に、名前をもう一度見る。


 リネット・ベルシェ。


 試験室を出たところで、エリアスが鞄を受け取っていた。


「お疲れさま」


 自分の鞄を抱えると、綴じ紐の結び目が内側から当たった。

 ノートは、預けたときのまま入っている。


「どうだった?」


 私は少し考えてから、答えた。


「全部、記録できた」


 エリアスが笑って、頷いた。

 二人で廊下を歩いた。外へ出ると、朝よりも風が暖かかった。


 * * *


 翌日の午後、掲示板の前は人でいっぱいだった。


 私は手元の受験番号を見て、貼られた紙へ目を上げた。

 番号と名前が、順に並んでいる。


 自分の番号を見つけた。

 その横に、自分の名前があった。


 合格。


 もう一度、最初から確かめた。

 間違えていない。


「リネット」


 エリアスが隣へ来た。

 私は自分の名前を指し、その後で彼の名前を探した。


「あった。あなたも」

「うん」


 彼の声が少し弾んでいた。

 私も笑った。笑うと、頬が思ったより大きく動いた。


「先に証明を受け取ってくる。後で、温室の方へ行く?」

「今日は募集の窓口にも出すから、少し遅くなると思う」

「じゃあ、また時間を決めよう」


 彼が手続きをする列へ向かった。


 私は掲示板をもう一度見た。

 セドリックの番号の横には、不合格と記されていた。その下には、再試験の案内を確認するよう書いてある。


 昨日の二度の停止音が、耳に戻ってきた。


 胸が少し重くなった。

 私は自分の控えを折り、証明を受け取るために歩き始めた。


「リネット、少しいいか」


 廊下の角に、セドリックがいた。

 教本を抱え、もう片方の手には封筒を持っている。封筒の口は、乱れていた。


「助手の話まで、取り消された」


 彼は中の紙を差し出した。


 採用見送りの通知だった。

 当期の卒業資格取得を条件とする内定について、条件未達のため採用を見送ると記されている。


 私は中庭で聞いた彼の声を思い出した。


 資格さえ取れば。

 君と共同研究を。


「今日、担当者から渡された。再試験では間に合わないと言われたんだ」


 彼が、紙の一行を指した。

 今期の助手採用は、予定通り進めるとある。


「……そうですか」


 紙を返そうとすると、彼は受け取らなかった。


「あの素材が悪かった。教本の式なら、同じ入力で温度が上がるはずだったのに」

「素材を確かめるところから、試験でした」

「そんなことは分かってる。でも、測定していたら時間が足りなくなると思ったんだ」


 彼は教本の角を親指で押した。

 挟まれた紙片が、少しずれた。


「君は慣れていたからできたんだろう。ああいう素材への対処を、先に教えてくれていれば」


 私は通知を見下ろした。

 採用条件の下には、担当者の署名がある。紙の端が、彼の指で折れていた。


「君が教えてくれていれば、こうはならなかった」


 顔を上げる。


 セドリックは私を見ていた。

 教本を持ったまま、返事を待っている。


「あなたの実力で十分だと、おっしゃっていましたもの」


 言い終えるまで、彼の顔から目を離さなかった。


 彼の口が開いた。

 けれど、すぐには声が出てこなかった。


 廊下を学生が通り過ぎる。

 合格証明を受け取った人が、折らないように両手で紙を持っていた。


 セドリックは、私の方へ半歩近づいた。


「言い方が悪かった」


 さっきより低い声だった。


「首席の発表の日は、少し気が立っていたんだ。皆が見ていたし、ああいうことを言われると……」


 私は通知を差し出した。

 今度は、彼が受け取った。


「戻ってきてくれないか」


 彼の手が、封筒の端を撫でる。


「両親にも僕から話す。再試験まで、前のように一緒に勉強して、それから卒業すればいい。君なら、必要なところをまとめられるだろう」


 図書室で彼の向かいへ座る自分が、一瞬浮かんだ。

 解説を作り、正解した彼が笑うまで待つ夜。


 私の鞄には、資格証明を入れるための厚紙が用意してある。

 その隣には、報告書の受領控えが入っていた。


「私は、自分の研究を続けます」


 鞄の持ち手を持ち直した。


「再試験の準備は、ご自分でお願いします」

「研究なら、その後でも――」

「応募して、もう報告書も提出しています」


 彼が眉を動かした。


「君が?」

「はい」


 その一言を返すと、声が通った。

 今日は証明を受け取って、窓口へ出す。受付が閉まる前に、済ませたかった。


「セドリック様」


 廊下の向こうから、フローラ嬢が来た。  私たちの前で足を止め、彼の手の通知を見る。


「担当の方からのお話は、済んだのね」

「ああ。ただ、リネットと話していて……」

「共同研究の話は進められないと聞いたわ。私は、ほかの実習先を探します。受付のあるところを、今日中に確かめたいので」


 セドリックが口を閉じた。


 フローラ嬢は私へ向き直った。

 リボンに触れかけた手を下ろす。


「リネット様。あのときは、事情も知らずに言いすぎました。申し訳ありません」


 私は、少し息を置いた。


「はい。謝罪は、受け取りました」


 彼女は頭を下げた。

 その隣で、セドリックは通知を封筒へ戻そうとしていた。紙の角が引っかかり、うまく入らない。


 私は一歩、横へ退いた。


「提出の手続きがありますので、失礼します」

「待って、リネット」


 彼の声が背中に届いた。

 私は振り返り、一度だけ頭を下げてから、証明を受け取る列へ向かった。


 自分の番が来ると、番号と名前を伝えた。

 渡された紙を両手で受け取り、用意していた厚紙の間へ挟む。


 そのまま、募集の窓口へ行った。

 担当の人が証明を確認し、先に提出した報告書の受領控えと照らし合わせる。


「これで、必要な書類は揃いました」


 私は、鞄の中の控えを確かめた。

 窓口を離れるときには、歩く速さを気にせずに済んだ。


 * * *


 試験から三日後、設備研究の実習採用通知が届いた。


 私は封を開けて、最初の一行を三度読んだ。


 採用。


 その下には、提出した報告書についての所見があった。

 素材ごとの反応を測定していること。失敗の記録から原因を分析し、安全な調整につなげていること。


 あの実習室の机が、はっきり浮かんだ。

 私は膝の上のノートを開き、停止と書いた測定紙に触れた。角には、留め具を置いた小さな跡が残っている。


 通知を挟んで、約束していた温室へ向かった。


 エリアスは入口のそばで、修理した留め金を確かめていた。

 私が来ると、すぐに手を止めた。


「結果、来た?」


「うん」


 私は通知を出した。

 彼は手を布で拭いてから受け取り、書かれた所見を読んだ。


「記録の取り方を、見てもらえた」


 声にすると、胸がいっぱいになった。


「それなら、あの止まった装置も役に立ったね」

「本当に。載せてよかった」


 通知を返してもらい、ノートへしまう。

 エリアスも、工房での勤務開始の日が決まったと話した。最初は修理の補助をしながら、街の設備を回るそうだ。


「どんな装置が多いの?」

「水回りが多いって。温室もあるよ。僕はまず、どれがどこにつながってるか、覚えるところからだろうな」

「見たことのない装置なら、記録しておいて」

「君にも見せていい?」

「もちろん」


 温室の中へ入ると、湿った土の匂いがした。

 苗の葉が少し大きくなっている。私は模型を置いていた棚の前で足を止めた。


「次は、冷めやすい素材でも、もっと少ない魔力で保てるようにしたいの」


 棚の端へノートを置き、図を開く。


「供給を増やすだけだと、使う人の負担になるでしょう。温室の方でも熱を逃がしにくくできたら、少し変わると思う」


 エリアスは私の隣に立って、図を覗いた。


「この隙間、測ってみたいね。工房で使う留め具で、閉じ方を変えられるかもしれない」

「そういうのがあるの?」

「僕もまだ、全部は知らないけど」


 その返事に、私は笑った。

 エリアスも笑って、棚の上にあった小さな落ち葉を拾う。


「卒業したら、もう気軽に隣の机へ行けなくなるな」


 落ち葉を掌に載せたまま、彼は少し黙った。


「これからも、君の研究を見せてほしい。僕の修理の話も聞いてくれる?」


 私は図を見下ろした。

 余白に、まだ書いていないことがたくさんある。


「私の研究に興味があるの?」

「あるよ。少しずつ条件を替えて、どこで変わるのか確かめるところが面白い。今日の、温室の方を変える話も」


 そこで、彼の声が少し遅くなった。


「……君といる時間にも」


 ノートの端を持った指が、温かくなった。  私は顔を上げた。


 エリアスは私を見ていた。

 続きを急かさずに、待っている。


「私も」


 短く答えると、彼の目元が緩んだ。


「あなたの話を聞くの、楽しみにしているの」


 食堂で冷めてしまったお茶を思い出した。

 何度も聞き直して、図を書き足して、それから、まだ話していたいと思った時間を。


「では、次の休みに。お茶を飲みながら、続きを話しましょう」

「うん。何時にする?」


 二人で日付と時刻を確かめた。

 私が場所を提案すると、エリアスは冊子を持っていく、と言った。


 その夜、私は自分の名前が書かれたノートを開いた。


 新しいページに、温室の隙間を調べる、と書く。

 余白には、次の休みの約束を記した。


 次に会うとき、彼に見せたいものがあった。

 

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☆現在、2作品連載中です☆

不器用な辺境伯と、もう我慢したくない妻の、夫婦再恋愛ファンタジー。
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誰かに選ばれるためだけでなく、自分の行きたい場所へ。 靴作りから始まる、仕事と恋の物語。
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― 新着の感想 ―
婚約者は彼にとっては婚約者だろうがなんだろうが自分が都合良く使える手足だと思っていたんでしょうね。 断られたとき激昂して怒鳴り散らし殴るくらいするかなと思ってました。彼からしたら自分が躾した飼い犬に手…
逆に婚約破棄したのに普通にリネットに頼るセドリックが変だと思います。たとえ合意の上での解消でも気まずいでしょう。
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