雨に濡れない
「死にたい」
そう思ったことは、ないだろうか。
僕は、ある。
たとえば月曜の朝、目が覚めた瞬間にため息をついて、布団の中で膝を抱えながら呟くような「死にたい」。あるいは、何週間も準備してきたテストで赤点を取って、帰り道にコンビニのガラスに映る自分の顔を見ながら心の中で呟く「死にたい」。
あれは比喩だ。疲れた、嫌だ、消えてしまいたい——そういう気持ちが口から漏れる前に、もっと短くて便利な言葉に圧縮されただけの、ある種の口癖のようなもの。
でも、本当の「死にたい」は、違う。
鬱の沼に、深く、ゆっくりと沈んでいく時の「死にたい」は——まるで重力の方向が変わったみたいに、下へ下へと引っ張られる感覚を伴っている。頭の中が泥になって、泣きたいのに涙も出なくて、ただただ、消えることが正しい選択に思えてくる。
今から三年前。中学三年生だった僕は、まさにその深い沼の底にいた。
あの夜のことを、今から話す。
リビングは、温かかった。
暖房が効いていて、ソファが柔らかくて、テレビがついていて——誰かの目には、きっと「ほっとする家庭の夜」に映ったはずだ。でも僕の鼻には、マクドナルドのあの油っぽい、甘ったるいような、どこか人工的な匂いが充満していた。お母さんが買ってきたのだ。ハンバーガーとポテトとシェイク。テーブルの上に、無造作に並んでいた。
そして、音。
くちゃ、くちゃ。
お母さんが食べている音が、頭の中に直接流し込まれてくるような気がした。当時の僕には、自分が聴覚過敏だという自覚がなかった。ただ、ただ——その音が、耐えられないほど気持ち悪かった。皮膚の内側を、何かが逆なでしていくような感覚。嫌悪と、申し訳なさと、説明できない怒りが、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
「ご飯、上で食べていい?」
できるだけ、普通に聞こえるように言ったつもりだった。手料理じゃないから、きっと許してもらえると思った。
お母さんは、テレビから目を離さずに言った。
「だめ。家族なんだから、一緒に食べなさい」
その言葉は、刃物じゃなかった。もっと鈍くて、重いものだった。鉄の塊を、頭の上から落とされたみたいな感じ。
頭の中で、何かが、プツンと切れる音がした。
僕は何も言わなかった。マックにも手をつけなかった。ただ椅子を引いて、立ち上がって、階段を上った。
もう死のう、と、そう思った。
部屋のドアを開けて、そのまま玄関へ向かった。コートが目に入った。一瞬、手が止まった。
——どうせすぐ死ぬのに、着てどうする。
そのまま扉を開けた。
冷たかった。
リビングの生温かさが、音も立てずに消えた。代わりに、冬の夜の空気が肺に刺さった。雨が降っていた。細くて、静かな雨だった。マックの匂いも、咀嚼音も、暖房の音も——何もなかった。ただ、雨の匂いと、アスファルトが濡れる音だけが、世界を満たしていた。
頬に雨粒が当たった。冷たかった。それだけが、妙にはっきり感じられた。
近くに、十二階建てのマンションがあった。何度か前を通ったことがある、古い建物だ。エントランスに鍵はなかった。エレベーターに乗って、最上階まで上がった。非常階段をもう一段——屋上へ続くドアを、押した。
今思えば、マックを一緒に食べなかったくらいで死のうとするなんて、幼稚だと思う。
でも、当時の僕にとって、あれは「マックの話」じゃなかった。わかってもらえない、という絶望の話だった。自分が何に苦しんでいるのか自分でもわからないまま、世界から少しずつ、少しずつ、弾かれていくような感覚の話だった。鬱というものは、理由を選ばない。些細なことで沼の底まで引きずり込まれて、自分でもその理由が馬鹿げていると思いながら、それでも浮かび上がれない——そういうものだ。
屋上は、広かった。
誰もいなかった。当然だ。こんな冬の夜の、雨の屋上に、人がいるはずがない。フェンスまで歩いた。錆びた鉄の感触が、手のひらに伝わってきた。下を見た。
十二階分の暗さが、そこにあった。
雨音だけが聞こえていた。
足を、踏み出そうとした——その時。
背後に、気配があった。
振り返った。
誰かが、そこに立っていた。
女の子だった。僕と同じくらいの年齢に見えた。細くて、白くて、長い黒髪が雨に濡れて頬に貼り付いていた——傘を持っていなかった。それどころか、コートすら着ていなかった。冬の夜の雨の中に、薄い白いワンピース一枚で立っていた。なのに、震えていなかった。
僕の視線に気づいた彼女は、
——微笑んだ。
嬉しそうに。本当に、心の底から嬉しそうに。僕が今まさに死のうとしていた屋上の縁を見て、それから僕の顔を見て、唇の端をゆっくりと持ち上げた。
雨が降っていた。世界は暗くて、冷たくて、静かだった。
そこで僕は、
君と出会ったんだ。
女の子が、笑っていた。
それが、最初の違和感だった。
泣いてほしいとは思っていない。「やめて」と叫んでほしいとも思っていない。ただ——笑顔は、なかった。僕の想像の中に、その可能性は一ミリも存在していなかった。
「飛ばないの?」
声は、不思議なほど静かだった。驚いていない。焦っていない。まるで、公園で「ブランコ乗らないの?」と聞くような、そういう気軽さで、彼女はそう言った。
返事ができなかった。
何かを言おうとした。「関係ないだろ」でも「帰れ」でも「放っておいてくれ」でもよかった。でも声が、出なかった。喉の奥で言葉が固まって、そのまま溶けていった。
彼女は一歩、こちらへ歩いてきた。
その時、気づいた。
雨が——降っているのに。
彼女の白いワンピースが、濡れていなかった。
髪が、頬に貼り付いていた。それは本当だった。だが服は、乾いたままだった。白い布の一枚も、湿気を帯びていなかった。まるで、雨粒が彼女だけを避けているみたいに。
もう一歩。
足音がしなかった。
屋上には薄く水が張っていた。どこを歩いても、必ず水たまりを踏む。さっき僕がフェンスまで歩いた時も、ぴちゃ、ぴちゃ、と音がした。なのに彼女は——何も、踏んでいなかった。
気づいた時には、目の前にいた。
息がかかる距離だった。
雨の匂いがした。アスファルトの匂いがした。でも彼女からは——何の匂いもしなかった。
目が、合った。
黒い目だった。深い、深い黒。底がどこにあるのか、見当もつかない。
彼女は、首を少し傾けた。
「本当は」
静かな声だった。
「痛いのが、怖いんでしょ」
何かが、胸の中で跳ね上がった。
「母親が泣くのも、怖い」
違う、と言おうとした。
声が、出なかった。
「なによりも」彼女は続けた。「失敗して——障害が残ったりするのが。一番、怖いんでしょ」
頭の中が、白くなった。
違う。違う。そんなことは、考えていなかった。
本当に?
——本当に?
足が、すくんでいた。さっきまであんなにはっきりと「踏み出そう」と思っていたのに、もう足が、一センチも動かなかった。体が、勝手に後ずさっていた。フェンスから離れていた。
彼女が、静かに言った。
「君は死ねないよ」
その瞬間。
バンッ——!
背後で、鉄扉が閉まった。
風じゃなかった。突風、と表現するしかない何かが屋上を薙いで、重い鉄の扉を乱暴に閉めた。
僕は振り返った。
誰もいなかった。
白いワンピースも、濡れた黒髪も、底のない黒い目も——何もなかった。雨が降っていた。冷たい水が顔を打っていた。僕一人が、冬の屋上に、立ち尽くしていた。
夢だったと思うことにした。
鬱が、見せた幻覚。あるいは、寒さと疲労と空腹が混ざって生まれた、脳の誤作動。そういうことにした。翌朝、制服に着替えながら、そう決めた。
学校へ行った。
特に理由はなかった。「行かなければならない」という惰性。体が勝手に動いていた。
一限目が、始まった。
窓際の席で、黒板を見ながら、昨日のことを考えないようにした。ノートを開いた。シャープペンシルを持った。先生の声を、ただの音として聞いた。
ふと、目が窓に向いた。
ガラスに、教室が映っていた。
僕の顔が映っていた。うしろの席の男子が映っていた。蛍光灯の白い光が映っていた——
もう一つの顔が、映っていた。
白くて、細い顔。
長い黒髪。
こちらを見て、微笑んでいる。
心臓が、跳ね上がった。勢いよく振り返った。
誰もいなかった。普通の教室だった。ざわついたクラスメイトたちがいた。まばらな笑い声があった。
ガラスを、もう一度見た。
自分の顔だけが、映っていた。
授業中、ずっと窓を見られなかった。
昼休みを、廊下で潰した。人が少ない方へ、端の方へと歩きながら、ぼんやりしていた。曲がり角を曲がった。
視界の端に、白いものが映った。
咄嗟に目を向けた。
廊下の先、曲がり角の向こうに——白いワンピースの裾が、ひらりと消えた。
走った。
曲がり角を曲がった。
誰もいなかった。廊下は、静かだった。
呼吸が、乱れていた。
イヤホンを持っていたことを思い出した。ポケットから引っ張り出して、耳に突っ込んだ。音楽をかけた。音で、頭の中を埋めた。
それでも何かが落ち着かなくて、また廊下を歩き出した。音楽の音量を上げた。外の音が消えた。世界が遠くなった。
放課後まで、そうやって過ごした。
イヤホンを、外した瞬間——
くちゃ。
耳元で。
くちゃ、くちゃ。
昨日の夜の音が、鮮明に蘇ってきた。頭の中に直接流し込まれてくるような感覚。皮膚の内側を、逆なでされるような感覚。胃の中のものが、一瞬で逆流しそうになった。
廊下に、しゃがみ込んでいた。
壁に背をつけて、膝を抱えて、息を吐いた。吐いて、吸って、吐いた。
逃げるように、屋上へ向かった。
屋上の扉を開けた。
風が、顔に当たった。
今日は晴れていた。冬の青い空が、どこまでも続いていた。昨日の雨が嘘みたいだった。
フェンスに、誰かが寄りかかっていた。
白いワンピース。
長い黒髪。
下を見下ろしながら、フェンスに両腕をかけて、静かに立っていた。
僕は、足を止めた。
彼女は振り返らずに言った。
「昨日は、帰ったんだね」
「……うるさい」
声が出た。昨日は出なかったのに、今日はすっと出た。自分でも驚いた。
彼女が、振り返った。
微笑んでいた。昨日と同じ、嬉しそうな微笑みだった。でも昨日と少しだけ違って見えたのは——その中に、何か別のものが混じっていたからかもしれない。
「ほらね」
彼女は言った。
「怒る元気がある」
僕は黙った。
「やっぱり君は」彼女はフェンスから体を離して、こちらへ歩いてきた。「死ねない」
図星だった。
わかっていた。だからこそ、腹が立った。この苛立ちがどこから来るのか、自分でもよくわかっていた。「違う」と言い切れないから、腹が立っていた。
でも——腹が立っているという事実が、今の僕には不思議だった。
昨日の夜、あの沼の底にいた時、僕は何も感じていなかった。怒りも、悲しみも、恐怖も——全部が泥の中に沈んでいた。なのに今、胸の中に確かに「熱いもの」があった。
それが生きているということの、最後の証拠みたいに思えた。
風が吹いていた。
冷たい、冬の風だった。昨日の雨で洗われた空気は透明で、遠くのビルの輪郭まではっきり見えた。
僕たちは、並んでフェンスにもたれていた。正確には、僕が先にフェンスに背をつけて、彼女が隣に立った。なぜそうなったのかは、わからない。気づいたらそうなっていた。
彼女が、口を開いた。
「マックの匂いが嫌だったんじゃない」
唐突だった。
「わかってもらえなかったのが、嫌だったんでしょ」
風が吹いた。
「でも、それを言葉にして——ぶつかる勇気も、なかった」
「……黙れ」
「なんで? 違う?」
違わなかった。
一言も、違わなかった。それが腹立たしかった。なんでこいつは、昨日会ったばかりの、名前も知らない僕の中を、こんなにはっきり見えているんだ。
「聴覚過敏って、知ってる?」
彼女は続けた。
「音が、人より大きく聞こえる。不快な音が、皮膚を逆なでするみたいに感じられる。それって、性格でも、わがままでも、なんでもない。ただそういう、神経の話」
「……何が言いたい」
「あなたは悪くない、ってこと」
その言葉が、どこかに刺さった。
刺さって、抜けなかった。
僕は口を閉じた。視線を空に向けた。泣きそうになっていた。泣かないようにした。
「でもね」
彼女の声が、少しだけ変わった。静かだったのが、さらに静かになった。核心に近づく音、とでも言えばいいのか。
「君はね」
間があった。
「"死にたい人"じゃない」
風が、止まった。
「"傷つきたくない人"なんだよ」
頭の中が、揺れた。
揺れて、揺れて——
「うるさい」
「違う?」
「違う!」
声が、出た。大きな声が出た。自分でも驚くくらい、大きな声が。
「じゃあなんで、あんなところまで行ったんだよ!」
叫んでいた。
「わかってもらえなかったから? 音が嫌だったから? そんな理由で人間は死なない! 僕だって本気だった! 本気で、もう終わりにしようと思ってた! それを——」
「"本気で死ぬ自分"を、見てみたかっただけ」
彼女は、静かだった。
「可哀想な自分に、酔ってただけ」
言葉が、途切れた。
喉の奥に、何かが詰まった。
違う、と思った。
でも——
でも。
マンションまで歩いた時のことを思い出した。エレベーターに乗った時のことを思い出した。最上階のボタンを押した時——ほんの少し、手が震えていた。非常階段を上った時——足が、重かった。屋上のドアを押した時——
「やっぱりやめよう」と思った。
一瞬だけ、思った。
膝から、力が抜けた。
コンクリートの床に、へたり込んだ。
ひざを抱えた。顔を埋めた。
涙が、出た。
声も出た。みっともない、嗚咽交じりの泣き声が出た。こんなふうに泣いたのは、いつ以来だろう。鬱の底にいる時は、涙すら出なかった。泣けるということは——まだ何かが、残っているということなのか。
泣きながら、思った。
情けなかった。こんな屋上で、見知らぬ女の子の前で、ぼろぼろに泣いている自分が、心底情けなかった。でも止められなかった。
どれくらい経ったかわからない。
ふと、気配が変わった。
彼女を見た。
彼女は、屈んでいた。僕と目の高さを合わせるように。
その顔が——変わっていた。
笑っていなかった。
初めて見る顔だった。
笑いでも、冷淡でもなかった。どこか、悲しそうな顔だった。人の悲しみに共鳴しているというよりも——自分の中の、古い何かを見ているような。
距離が、近かった。
手が届きそうな距離だった。
彼女は手を伸ばさなかった。僕も動かなかった。ただ、その近さだけがあった。
ぽつり、と彼女は言った。
「つまらないな。君は」
声は、冷たかった。
でも——その冷たさの底に、何かがあった気がした。
安堵、というのとも違う。ただ、静かな何か。
翌日の放課後、僕は彼女に連れてこられた。
半ば自分の意志で、半ば引きずられるように——あのマンションの前に立っていた。
「なんで、ここに」
「来たくなかった?」
来たくなかった。でも来ていた。
エントランスをくぐった。エレベーターに乗った。最上階のボタンを押した。
今日は、晴れていた。
不気味なほど、晴れていた。空が青すぎた。風もなかった。音もなかった。世界が、シンと静まり返っていた。
屋上に出た。
一昨日の夜と同じ広さ。同じフェンス。でも何もかもが、違って見えた。一昨日は暗くて、雨で、死ぬために来た場所だった。今日は明るくて、乾いていて——それでも、足が重かった。
「縁に立って」
彼女が言った。
「嫌だ」
「怖い?」
「……当たり前だろ」
「じゃあ、なんで一昨日は来られたの」
答えられなかった。
本当に、答えられなかった。どうして、あの夜の僕は怖くなかったんだろう。いや——怖かったのかもしれない。ただ、沼の底にいる時は、恐怖の感覚自体が泥に沈んでいた。
「立ってみて」
彼女は、フェンスを手で示した。
僕は、ゆっくりと歩いた。
フェンスに手をかけた。
鉄の、錆びた感触。一昨日と同じ感触。でも違った。今日は手が震えていた。
フェンスに足をかけて、縁に立った。
十二階分の空間が、眼下に広がった。
車が小さく見えた。歩道の人が、豆粒みたいだった。木の梢が、ずっと下にあった。
足が、竦んだ。
心臓が、口から飛び出しそうだった。
背後に、彼女の気配がした。
「今日なら飛べるよ」
声が、耳のすぐそばにあった。
「痛みを感じる前に、終わるから」
怖かった。
怖かった。
全身が怖かった。
「じゃあね」
耳元に、囁きがあった。
そして——
背中に、手の感触があった。
冷たかった。氷のように冷たかった。人間の体温ではない、何か別のものの冷たさだった。ありえなかった。こんな感触は、ありえなかった。
その手が——
ドンッ。
前に、押した。
「あっ」と声が出た。体が、前に傾いた。空が、迫ってきた。十二階分の暗さが、口を開けた。
その瞬間——
僕の体の、すべての細胞が叫んだ。
死にたくない。
死にたくない!
生きたい、生きたい、生きたい——!
手が、フェンスを掴んでいた。
気づいたら、掴んでいた。膝が震えていた。全身が震えていた。涙が出ていた。情けなかった。みっともなかった。でもそんなことを考える余裕もなかった。
フェンスにしがみついたまま、その場に崩れ落ちた。
コンクリートの床に、手と膝をついた。
呼吸が、乱れていた。荒かった。
ゆっくりと、口が動いた。
「僕は」
声が、かすれた。
「死ぬ勇気なんて、ない」
言葉にすると、ようやく本当のことになる気がした。
ずっと知っていたのに、言えなかったことが、ようやく空気の中に出た。
振り返った。
彼女が、立っていた。
満足そうだった。でも——少しだけ、寂しそうだった。
「知ってたよ」
彼女は言った。
「君は死ねない。だから、這いつくばってでも、生きるしかない」
膝が痛かった。手が赤くなっていた。情けない格好だった。
「それって」
僕は言った。
「ひどく、惨めだね」
「うん」
彼女は頷いた。迷わず、すぐに。
「すごく惨め」
何かが、ふっと緩んだ。
笑いたいような気持ちが、胸の底から湧いてきた。我慢しようとしたけど、できなかった。小さく、笑い声が漏れた。
彼女も、笑っていた。
さっきまでの笑いとは違った。嬉しそうとか、冷淡とか、そういうのじゃなかった。なんというか——共犯者みたいな笑いだった。同じ馬鹿げた秘密を知っている二人の、静かな笑い。
その笑いが、消えた頃。
彼女が、口を開いた。
「でもね」
風が吹いた。冷たい、冬の風。
「死ぬ勇気がないのと」
空が、青かった。
「生きる勇気がないのは」
彼女の目が、まっすぐに僕を見ていた。
「違うんだよ」
その言葉が、静かに降ってきた。
刃物みたいな鋭さじゃなかった。鉄の塊みたいな重さでもなかった。ただ——しみ込んでくるような、言葉だった。
死ぬ勇気がないお前でいい。
生きる勇気がなくてもいい。
ただ息をしているだけで、それでいい。
そういうことを言っている気がした。正確にはわからないけど。
何かを言い返そうと、僕は顔を上げた。
誰もいなかった。
晴れた冬の空の下、冷たい風だけが吹いていた。錆びたフェンスと、青い空と、遠くの街の音だけがあった。
僕は、しばらく立っていた。
名前も聞かなかった。学校も知らない。また会えるかも、わからない。
でも——なぜか。
一人じゃない気がした。
リビングに、暖房がついている。
ソファが柔らかくて、テレビがついていて——相変わらずお母さんが何かを食べている。
くちゃ。
音がした。
胃の中が、ざわついた。皮膚の内側を、逆なでされるような感覚が走った。それは変わっていない。あの夜から今日まで、何一つ変わっていない。
「上で——」
口を開いた。
でも、声は続かなかった。
お母さんはテレビを見ていた。
結局、言えなかった。不快感を抱えたまま、テーブルについた。お茶を飲んだ。それだけのことが、今日も精一杯だった。
嫌になる。
鬱の波は、今でも来る。波は必ずしも小さくなってはいない。時々、思い出したように沼の底まで引きずり込まれる。月曜の朝に布団の中で膝を抱えることも、ある。
でも。
あの日から、屋上には行っていない。
一度も。
僕の希死念慮のピークは——あの夜だった。冬の雨の中、雨粒にも濡れない少女が、屋上に立っていたあの夜。底のない黒い目に、全部を見透かされたあの夜。
名前も知らない。学校も知らない。もしかしたら、あれは本当に幻覚だったかもしれない。鬱が見せた、都合のいい幻。
でも——
今は死ぬ勇気がない。
だから、もう少しだけ、生きてみる。
それだけが、今の僕の、全部だ。




