未来への贈り物
秋旅レンズ9話目です。
話のキリを良くするため、二話連続投稿です。
よろしくお願いします。
「—それで、音くんとはそれから会えていないの? 」
「そうなりますね。あっちから誘っておいて急に居なくなるって、どうかしてますよ」
「そうかあ……。」
「結局、あいつは俺を冷やかしたかっただけなんじゃないですか」
その日から、音が喫茶店アイリスに姿を現すことは無くなった。棚を確認しても、忘れ物らしきものは見つからない。ドアを見つめていても、いつもの金髪の青年はやってこない。それだけのことが、和樹の胸の中にひどく大きな穴をあけていた。
「そんなことないと思うけどなあ」
店長はグラスを磨きながら話を聞いている。その根拠のない否定にため息を吐きながら和樹は言う。
「そもそも、初めからおかしかったんですよ。忘れ物ばっかするなんて普通じゃないじゃないですか。それも頻繁に。あいつは何がしたかったんだか」
店長はうーん、と唸った後に楽観的な声で言った。
「もしかしたら音君は、和樹君に会いに来てたのかもね」
「ええ? いや、それはあり得ませんよ。」
「だってあんなに仲良さげにしてたじゃない」
「それは偶然です。まずあいつが忘れ物しなかったらこんなことになっていないんだし」
そう言いつつ、和樹は胸中でその可能性を捨てきれずにいた。音の忘れ物、それは結局何だったのだろう。和樹と旅をしたことで見つかったかもしれないと言っていた、本当は、その忘れ物が何だったのか、音は知っていて旅をしていたのではないだろうか。一体、何のために? 考えたところで答えは出なかった。
「まあ、それでも僕からしたら微笑ましかったよ。なんだか昔を思い出してね」
「昔? 」
「ほら、修二くんが来てた頃。いつもあの奥の席に座ってたよね。同じ席に音くんが座っていて、なんだか修二くんに見えたんだよ。僕まで嬉しくなっていた」
その言葉に和樹は目を伏せる。音を修二に重ねているのは自分だけだと思っていた。だが、そうじゃなかった。その事実に、胸が痛んだ。
「今だから言えるけどね、俺は二人のこと、息子のように思ってたんだよ」
「息子? 」
そのいささか飛躍したワードを聞いて、和樹は首を傾げる。息子。普段から良くしてくれているとは思っていたが、そんな風に思っていただなんて。
店長は静かに語り始める。
「ちょっと長くなるけれど、聞いてくれるかい?」
その言葉に、和樹は頷くしかなかった。
「俺には愛する妻がいたんだ。それは知ってるよね。俺の喫茶店を開くという夢を応援してくれてね。とてもきれいで、俺にはもったいないって思ったよ。でも真剣に俺の夢をかなえようとしてくれた。俺の夢は、いつしか妻の夢にもなったんだ。」
またいつもの語りか。そう思った矢先に予想外の言葉が聞こえてきた。
「亡くなったんだ。若かった」
「えっ」
和樹は動揺して店長の方を見る。おかしい、妻がいることは知っていたが、そんな話は聞いていない。
店長はその様子を知ってか知らずか、語り続けた。
「妻は体が強い方だった。めったに風邪をひかないし、具合が悪くなることもなかった。だから、きっと大丈夫だって、そう思っていたんだ」
それは、二人がいつものように過ごしていた日のことだった。美代子が立ち上がろうとすると、視界が歪んだ。とっさに座り込む美代子を正一は支えながら心配そうに見ている。
「おい、大丈夫か」
「うん、平気。多分、疲れがたまっちゃってるんだと思う。休めばすぐよくなるよ」
本当はその時にすぐに病院に連れていくべきだった。だが、正一はその言葉を信じてしまったのだ。美代子は誤魔化すのが上手だった。何を言おうとしても、その笑顔で安心させられてしまう。
美代子の体調は日に日に悪化していった。微熱、貧血、関節痛。段々と顔色が悪くなっていく美代子を見ていられなくなった正一は、無理に美代子を引っ張って大型の病院に連れて行った。
今の病状を伝えると、医者は念のために精密検査をした方がいいと言った。不安そうな顔をする美代子に、正一は安心させるように言う。
「大丈夫。悪いところがないことを確認するために検査するだけだ。なんともないよ、きっと」
その時の自分の言葉はいかに軽率なものだったのだろう。ただ、その言葉は半分美代子に、半分自分に言い聞かせるものだった。そうでもしないと不安でどうにかなってしまいそうで、いてもたってもいられなくて。
検査をしている間、正一は病院特有の白い空間で待った。待ち続けた。なんだ、やっぱり何ともなかったよ。その言葉を待ち続けていた。
「田中さん、検査の結果が出ました。こちらにどうぞ」
そこで通されたのは、診察室の一室だった。恰幅の良い医師が座る横には大きめなパソコンのモニターが鎮座していて、そこには青白いレントゲンが映されている。
荷物を置き、美代子の隣の丸椅子に座る。キイ、と甲高い音がする。手が冷たい。嫌な緊張が止まらなかった。
医師は低いトーンで告げた。
「検査の結果、西村さんの体内に子宮頸がんが発見されました。」
その瞬間、世界が音を立ててひっくり返った。血の気が引いて、足が震える。目の前の景色が遠い。まるで宙に浮いているような心地だった。先ほどまでうるさいほど高鳴っていた心臓の音が遠のいていく。
がん。その恐ろしい言葉の響きに、正一はどうすることもできずに医師に縋る。
「子宮頸がんって……、そんなの、嘘ですよね? いや、治りますよね? だって、今の日本の医療だと、がんは治る病気だって、そう言うじゃないですか。 まさか、そんな。大丈夫ですよね? 美代子は無事に治るんですよね? 」
そのセリフがあまりにも聞き覚えのあるもので、いつかの医療ドラマを想起させる。人間というものはいざという時に直面すると皆同じことを言うらしい。震える声で問う正一に、医師は表情筋一つ動かさずに語る。
「基本的に、がんというものは早期発見が治療のカギになってきます。発見が早ければ早いほど、生存率も上がる。西村さんの場合、進行度合いはステージ三に該当します。これは比較的早い方です」
その言葉に、正一は半ばうわの空で答える。
「それって……。」
「五年生存率は、約五十パーセントです。」
「それで、どうなったんですか」
和樹は気が付けば店長の話を聞き入っていた。その語りがあまりにも具体性を帯びていて、恐ろしさすら感じていた。まるで自分事のように、足から力が抜ける心地がする。
「それから、医師から治療をするかどうかを聞かれた。いくら治る可能性があろうと、治療をするもしないも選択権は患者本人にあるからね。俺は治療を勧めたんだ。諦めなければ治る。だから、手術を受けて抗がん剤を使おうって。」
「じゃあ、美代子さんは治療をしたんですね」
和樹が問うと、店長は力なく頭を左右に振って言った。
「美代子は、治療を拒否した。手術も、抗がん剤治療も受けないって。俺は美代子が何を考えているのか、その時すぐにわかったんだ。」
息をのむ和樹に、店長は静かに告げる。
「美代子のお腹には、赤ちゃんがいたんだ。」
子宮頸がんとは、その名の通り子宮に出来る。つまり、胎児を育てるための部屋に巣食っていることになるのだ。普通、そのようなときは切除手術をするものであるが、妊娠しているとすれば話は別だった。
「ステージが初期の段階であれば、一部分の切除で済むので母子ともに助かることもあります。しかし、西村さんの場合は腫瘍が大きい上に、進行も早い。このような場合、治療をするには子宮を全摘出する必要がある。つまり、母体か、胎児か、選んでもらわなくてはなりません」
もはや医師の言葉など耳に入らなかった。母体と胎児、どちらか選ぶだと? そんな残酷な選択、出来るわけがない。したくもない。
「西村さん、これはあなたが決めることです。あなたには選択権がある。しかし、時間がない。よく考えて、決めてください。」
医師がそう告げてからようやく正一は気が付いた。そうだ、美代子はどうしている。自分ばかり動揺してしまったが、美代子が一番不安だろう。それに気が付かなかった自分を正一は侮蔑した。
美代子の顔を見る。正一の予想に反して、美代子は覚悟を決めたような顔をしていた。なんだ、その顔は。一体、何を考えている。
「先生。私、決めました」
決意に満ちた声がする。その澄み渡る声で、美代子は告げた。
「手術は受けません。この子を産んで、私は死にます」
西村美代子。その名前を確認し、木製で出来た手すりを掴んで白いドアを横に引く。そこに現れ譚は四角い白い空間。窓からは西日が差しており、その中にただ一つ置かれたベッドは、クリーム色のカーテンに覆われてその姿を隠している。
「美代子」
正一がそう声を掛けると、中から返事が聞こえる。
「入っていいよ」
そっと仕切りのカーテンを開けると、そこにはいくつかの管に繋がれた美代子が横たわっていた。
入院着を着た美代子は、そのほっそりとした腕を袖からのぞかせている。今まで気が付かなかったが、その肉付きは恐ろしく薄い。やせ細ってしまった体を見つめながら美代子は言う。
「私、本当にがんなんだね。なんだか実感ないや」
そう告げる声があまりにもいつも通りで、正一の中に言葉にできない感情が生まれる。指先にはめられたクリップは、心拍数の計測に使われているらしい。モニターからは規則正しく音が刻まれていた。緑色の線が、いくつもの山を作っている。
なにも言えなかった、何を言えばいいかも、分からなかった。
美代子はそんな正一を見て、くすくすと笑いながら言う。
「もう、正ちゃんったら、なんて顔してるの? ひどい顔色だよ? 」
そう言う美代子だって、顔色は良くない。なのに、どうしてそんな顔ができる。どうして、どうして―。
「どうして、そんな風に笑っていられるんだ」
気が付けば口を突いていた問いに、うーん、と美代子は声に出す。その目はどこも見ていない。ただ、天井に向いていた。
「守りたいから、かな」
予想外の言葉に正一は目を見開いた。それを傍目に美代子は語る。
「正直、告知された時はそりゃあショックだったよ。自分ががんだなんて、信じたくなかった。ああ、私は死ぬんだって、絶望した。でもね、お医者さんに選択を迫られた時、それと同じくらい私には守りたいものがあったことに気が付いたんだ」
「守りたいもの……? 」
「未来、だよ」
未来。それは、今の美代子にとっては奪われたも同然だった。生存率は低く、治療を行うわけでもない。そんな美代子が守りたい未来など、どこにあるのだろう。
「未来って……。それじゃあ、治療をした方が」
その言葉を制止するように、美代子は首を横に振る。
「私が守りたいのは、私じゃなくて、皆の未来。」
美代子はうるんだ瞳をこちらに向ける。やっと、こちらを見た。
「正ちゃんには夢がある。いつかお母さんがやっていた喫茶店を復活させるんだよね? その夢、初めて聞いたときからずっと、素敵だなって思ってたよ。お母さんから受け継いだ夢を、正ちゃんにはきっと叶えてもらいたい。だから、今まで手伝ってた。」
「でも、それには美代子の力だって必要で」
「ううん。きっと、私はこの先正ちゃんの夢の障壁になると思ってる。きっとこれから、お金だって沢山かかる。治療費も、手術代も、抗がん剤のお金だって。それを払いながら店を作るなんて、そんなのすごく大変だよ」
そのひどく現実的な言葉の数々に、正一は美代子の手を掴んで叫ぶ。
「違う! 俺はお金のためにお前と結婚したんじゃない! 愛しているんだ、美代子! 俺は、俺は……、お前に、生きていてほしい」
気が付けば涙が頬を伝っていた。寂しかった。悲しかった。この期に及んで、お金の話が先に来るだなんて。この愛が、伝わりきっていなかったのかもしれない。そんな思いが、今更あふれ出てくる。ただ、ただそばにいてほしいだけなのに。
美代子は自身のお腹をさすりながら俯いて言う。
「……ごめんね、正ちゃん。私、やっぱり臆病だ。本当は、こんな話がしたいんじゃなかった。ただ、それと同じくらい、正ちゃんに、この子に、未来を生きてほしい。きっと私は助からないから、それなら未来に私の願いを託したい。」
「何言ってんだよ……。それじゃあ、それじゃあ……。」
正一は顔を歪ませ、嗚咽を漏らしながら言う。
「お前の未来は、どうなるんだよ……。」
正一はまだ信じたくなかった。五年生存率は約五十パーセント。つまり二分の一だ。その厳しい確率も、胎児と美代子を選ばなくてはいけないことも、何もかも信じたくなかった。
「私は、この人生で充分な幸せを貰った。未来だって見せてもらった。それはね、正ちゃんのおかげなんだよ」
「俺の、おかげ……? 」
「うん。正ちゃんと出会って、なんとなく生きていた私の人生は変わった。好きな人の夢を応援したい。支えたい。私は、正ちゃんに夢を貰ったんだよ」
正一と共に夢を目指して過ごす日々は、美代子にとってかけがえのないものになった。あの日の出会いで運命が揺るがされたのは正一だけではない。美代子も同じだったのだ。何もないはずだった人生に色を与えてくれたのは、他でもない。正一だったのだ。
「だから、私が治療を始めて、正ちゃんの悲しそうな顔を見るくらいなら……、私はこの子に託そうと思うんだ」
美代子は泣いていた。でも、強かった、きっと怖いだろう、恐ろしいだろう。それでも美代子は自分の運命を自分で選んだ。自分の意志で、先の見えない死という道を歩くことを決めたのだ。
「正ちゃん。私、頑張るね。頑張ってこの子を産んで、それから死ぬ。だから、これからは私がいなくても夢を諦めないでね。私からの、最後の約束」
正一は涙に濡れた顔をぬぐい、まっすぐ美代子の方を見る。そうだ、その目だ。その愚直とも言える輝きを持つ目が、美代子は好きだったのだ。
「……わかった、約束だ。俺も、忘れない。絶対に、夢を叶えて見せる。だから、だから……。あと少しだけ、一緒にいさせてくれ……。」
どちらからともなく小指を差し出して絡める。西日に照らされた約束は、確かに二人の誓いになった。
それからしばらくして、美代子は亡くなった。雪が降る、寒い日だった。医者の声が飛び交う。美代子の意識は沈んでいき、そして完全な沈黙が訪れた。
—ご臨終です。
恐る恐るその冷たいしなやかな手を取る。まだ生きていたころのぬくもりが微かに残っている気がして、涙を流した。
「美代子、ありがとう……。俺と出会ってくれて、ありがとう。愛してくれて、愛させてくれて、ありがとう……。」
溢れてくる思いは言葉になって落ちていく。人間は死後一番最後まで残るのが聴覚らしい。それならば、悲しさもよりもこの人生を共にしてくれたことへの感謝を伝えたかった。
「お前の未来、俺が連れてく。きっと、夢を叶えるよ」
おぎゃあ、おぎゃあ。遠くからは新たな命の産声が聞こえてきた。託された命。託された未来。生き抜いて、生き抜いて、約束を果たそう。
正一は連れられてきた赤子を抱いて、その顔を見せる。
「ほら、見てみろ。お前の母さんだ。立派に生きたぞ。生き抜いた。本当に、立派だ……。」
涙は溢れて止まらなくなる。終わりと始まりが交わるその瞬間、未来は、始まった。
「……そうして出来たのが、この喫茶店アイリスだ」
和樹は何も言えなかった。いつも面倒くさそうにあしらっていた話が、まさかこのような結末を辿ったなんて。この店は、喪失から始まっていたなんて。
「ちょうど俺の子供が和樹君や修二くんと同じくらいでね。今は海外に行ってるけれど、二人が店を訪れるたびに思い出していたんだ。いつの間にか来なくなっちゃったけれど、その後は音くんがやってきた。きっとここは、何かをめぐり合わせてくれる場所なんだね。」
正一はそう言って窓の外を見つめている。
「アイリスって名をつけたのは、美代子だったんだ。入院してから死ぬまでの一か月間で考えてくれていたみたいだった。手紙を読んで知ったよ。」
アイリスは菖蒲の英名だ。花言葉は色によって異なるが、正一が美代子に送ったのは白のアイリスだ。その花言葉は、
—あなたを大切にします。
その晩、和樹は眠れなかった。ベッドに横たわるが、眠気は全く来ない。目が冴えるのは音と出会った日の夜以来だ。心臓がバクバクしている。店長の話が、頭から離れなかった。
美代子は未来を店長に託した。自分が死してなお、その夢を叶えてほしいと言った。新たな命に、そのすべてを残して。
きっと、相当な覚悟があったはずだ。死ぬのなんて、誰であっても恐ろしい。そこに自ら向かうだなんて、普通はできないだろう。
―俺が行く。
ふいにあの日の記憶が思い起こされた。あの時、修二は女の子を助けるために自ら海に入っていった。形は違えど、美代子と修二はどちらも未来に残る命のために、自分の命を使った。
では、残された者は? 残りの時間がわかっていてそのすべてを美代子と共に過ごした店長。突然の終わりに何もできずに叫んでいるだけだった。和樹。それは、同じ死という運命を見届けた者同士とは思えないほどに何もかもが異なる。
「……どうして」
どうしてこんなにも違うのだろう。もっと時間があれば。もっと前からわかっていれば、和樹だってもっと違ったのかもしれない。何もできない自分に絶望することも、その運命を呪うこともなかったのかもしれない。自分だって、そばにいたかった。もっと、沢山未来を語り合いたかった。
神様は不平等だ。残っている時間すら知らされず、終わりが訪れるまでの過ごし方さえ選ばせてもらえない。修二との時間は、あの波が全て一瞬にして奪ってしまった。
気が付けば泣いていた。悲しいからではない。ただ、やるせなかったのだ。自分に与えられた別れ方がこんな形でしか実現されないなんて、あまりにやるせない。
音だって、いなくなってしまった。同じあの海で。自分が約束を破っていなければ、まだそばにいてくれていたかもしれない。姿を消すこともなかったかもしれない。今の和樹は、また独りぼっちに戻ってしまった。アイリスに行っても、修二も、音もいない。喪失から始まったあの店は、また喪失を繰り返していく。
和樹の涙は、月の無い暗闇の空に溶けて、見えなくなった。




