春の運命
秋旅レンズ8話目です。
よろしくお願いします。
人間というものは、思ったよりも脆くできているらしい。田中正一がそれを知ったのは、彼女と出会って三年が経った頃だった。
いつか自分の店を経営する。その夢を抱きながら転職を繰り返して早二年が過ぎていた。正一は新たな自分の職場に向かうべく、意気揚々と歩いていた。青空に映える桜の花びらが美しい。今は失敗ばかりの道だけれど、いつかは必ず開けるだろう。この時期になるとそういう無根拠な希望が正一の背中を何度でも押してくれた。辺りを見渡すと、制服を着た学生、ランドセルを背負う小学生、スーツを着込んで歩く会社員と、様々な人間が新たなスタート地点を往く姿が見られた。その姿に無性に高揚し、正一は歩みを早める。その時だった。
「あ、あの」
振り返ると、そこには一人の女性がいた。その時の光景を正一は今でも正確に思い出せる。
まるで小鳥がさえずるような声、太陽の光を反射する白い肌。黒くつやのある胸元まで伸びた髪の毛は、先端に行くにつれて緩くウェーブがかかっている。綺麗なアーモンドの形をした茶色の瞳は、純粋無垢な色をしてこちらを映している。ビルの間から差し込む木漏れ日が彼女の顔に影を作り、そのコントラストがよく映えている。これは、春が遣わした天使だ。正一はそんなことを本気で思っていた。青天の霹靂とは、このことを言うのだろう。頭に電撃のような衝撃が走る。まさに、一目ぼれだった。
「これ、ハンカチ。落としましたよ」
そういって差し出されたのは花が刺繍されているハンカチだった。いつの間にか落としたらしい。それを手に取りつつ正一はなんとか言葉を発する。
「あ、ありがとうございます」
それを聞いた彼女は柔らかく微笑んだ。
「よかった、間に合って。駅で見つけて慌てて追いかけてきたんです。」
わざわざ追いかけてまで探してくれていたらしい。その風貌に違わない優しさを持つのだろう。
彼女は風に吹かれて乱れた髪の毛を耳にかけ、時計を見て言った。
「あ、そろそろ行かないと。じゃあ、私は行きますね。」
「あ、ちょっと待って! 」
とっさに引き留める言葉が口を突いていた。理由はわからない。ただ、突然現れたその輝きを簡単に手放したくはなかった。
「どうか、しましたか? 」
「……お名前、聞いてもいいですか」
自分は突然何を聞いているのだろう。初対面で、しかもたまたま出会っただけの人間から名前を聞かれるなんて不審すぎる。もしかしたら怖がられるかもしれない。そう頭を過ぎった瞬間、正一は半ば恐ろしい勢いで口を開いた。
「あ、あの、何でもないです! 突然おかしなこと言っちゃってごめんなさい! ただ、その、助けてくれた人の名前は覚えておきたくて! ほら、よく言うでしょう!? 袖振り合うも他生の縁って! せっかく袖が触れ合った者同士、名前も知らないなんて寂しいじゃないですか! 」
なんだかどんどん墓穴を掘っているような気がする。青ざめた顔をして弁明のような何かをする正一に、彼女は可笑しげに笑った。
「あなたって、変な人ですね。」
終わった。そう思った。いくら素敵な人だからと言って、距離の詰め方を完全に間違えた。こういう時、正一はいつも自分の見切り発車なところを呪っている。転職を繰り返しているのだって、そのような性格が要因な気がしてならない。
彼女はそんな情けない正一に優しく告げた。
「美代子。西村美代子です。」
その美しい響きの名前に、正一は恍惚とした。美代子。口の中でその名を転がすと、感じたことの無い思いが溢れてくる。
「……大丈夫ですか? 」
ぽかんとしている彼女に正一は慌てて目線を戻す。よく見てみれば、その背丈は正一のものより一回り小さかった。華奢な肩が揺れるその様子は、彫刻に掘られたマリア像のように美しい。
「あ、いえ、何でもありません。お名前教えてくれてありがとうございます。この御恩は忘れません」
「御恩だなんて、そんな大げさな。大したことはしていないですよ」
「いやいや、助かりました。なにせこのハンカチ、亡くなった母親からもらった大切なものでして」
「まあ……。」
美代子は口元に手を当てる動作をして目を見開いた。しまった、語りすぎたかもしれない。初対面の人に聞かせるべき話ではなかった。これ以上余計なことを言わないようにするためにも、ここはさっさとお暇した方が賢明だ。それに、長く引き止めすぎるのも悪い。
正一は半ば強引に話を打ち切るように言った。
「じゃ、じゃあ行きますね。本当に、ありがとうございました! 」
「あ、ちょっと! 」
正一は振り返ることなく歩みを進めていく。時間は8時15分。立派に遅刻ギリギリだ。初出勤からこんなようでは怒られてしまう。しかし、彼女の名前を聞けてよかった。また会える日が来るとは思えないが、この出会いを大切な思い出にして、新たな場所でも頑張ろう。
正一が去った後には、人々のざわめきしか残らない。あのしっかりとした背格好が遠ざかっていくのを見送ることしかできなかった。まるでやってきては去っていく風のような人間との出会いに、美代子はなにか予感を感じていた。
「名前、聞きたかったな」
美代子は一人呟く。これが、二人の運命を動かす最初の出会いだった。
正一のサラリーマンとしての働きようは上々だった。もともと店の経営を勉強しながら働いているということもあり、企画担当に回された際にはその巧みな発想力で周囲を驚かせることも多かった。起きて、仕事をして、帰って勉強して、そして寝る。忙しい生活に体が悲鳴を上げることもあるが、正一にとってはそんなことは気にならないくらいに充実した日々だった。
しかし心に引っかかるものがある。今の職場で働き始めて半年。当たり前だがあの日出会った美代子にはその後一度も会えていない。そもそもどこで働いているのかもわからない。手がかりは名前しかなく、探すこともできない。そんな中、ふとした時にその美しい風貌を思い出すことだけを繰り返していた。
その日、正一は企業を取りまとめるグループが合同で参加する立食パーティーに来ていた。何を隠そうこのグループが百周年を迎える大きな節目らしい。豪華なホテルのパーティールームスペースに並べられたきらびやかな料理や酒をつつきながらスーツを着込んだ偉い人間が共にその記念日を祝っている。
「田中、お前も半年間で中々成長したなあ」
そう言って上司がこちらをおだててくる。だが、その真意は普段のもはやパワハラとも言える厳しい叱責を上層部に見られるわけにはいかないというものであることを正一は知っていた。ありがとうございます、と乾いた礼を返す。その時だった。
ざわめく人々の隙間から、見覚えのある黒髪が姿をのぞかせたのだ。あの日と同じ、緩くウェーブがかった髪の毛が揺れている。その髪はあの日と違って一つにまとめられ、くくり挙げられていたが、不思議なことに正一にはそれが美代子であるという確信があった。
「あの、すみません。ちょっとお手洗いに……。」
適当な理由をつけて上司との会話から抜け出す。人混みをかき分け、何とかその華奢な背中に追いついた。
「あの! 」
すると美代子は驚いたように振り返り、それが正一であることに気が付くと花が開くように笑った。
「もしかして、あの時の……! 」
「はい、そうです! あの日、ハンカチを届けてもらった田中です。」
美代子は嬉しそうに目を見開く。そうか、彼の名前は田中というのか。
豪華なパーティーに合わせてスーツを着込み、髪の毛をセットした田中は初めて出会った時より幾分男前に見えた。前髪を上げたその姿は溌溂とした印象で、ネイビーのスーツに黒いネクタイをつけている格好はどことなく聡明な印象を受ける。
「田中さん、というんですね。あの日はさっさといなくなってしまったので、こちらも名前を聞くことが出来なくて」
美代子がそう言うと、正一は焦ったように手を前に突き出していった。
「ああ、あの時は申し訳ありませんでした! 初対面の女性に名前を聞くなんて失礼でしたよね! しかも聞いた当の自分は名乗りもせずに行ってしまって……。」
その様子を見た美代子は可笑し気に笑って言う。
「いいんですよ、ちょっと驚いただけですし。それに、今日こうしてまた出会えてよかったです」
正一は胸が弾む思いだった。よかった、再会を喜んでいたのは自分だけじゃなかったのか。社交辞令なのかもしれないが、その言葉を正一は素直に受け取ることにした。
「では、改めて……。俺は田中正一です。正しいに、一って書いて正一って言います。今日はまた出会えて、改めてお礼を言える機会が出来て嬉しいです。あの時はありがとうございました。」
その丁寧な振る舞いに美代子は内心驚いていた。初めて出会った時は変な人だという認識だったが、礼儀正しい側面もあるのか。何故だか心臓が跳ねる。
美代子は謙遜するように手を振って答えた。
「いえ、本当に大したことではないですよ。無事に手元に戻ってよかったです。」
「それでも、俺にとっては大切なものだったから。」
その真剣な目に射止められる。まっすぐすぎるその瞳は、もはや愚直とも言える輝きを放っていた。背丈の高い正一が美代子の目に合わせようとすると、自然と見下ろす形になっていた。だが、美代子にとっては不思議とそれが心地よかった。
「あの時、あなたが私を引き留めてくれなかったら、きっと悲しい思いをしていたから。だから、感謝しています。」
やや大げさとも思える感謝の念を、正一は真面目に言っている。やっぱり変な人だ。そのまっすぐさが、なぜかどうしようもなく美代子の心を揺るがしていた。
「そういえば、あの後は大丈夫でしたか? 俺、結構長い時間引き留めちゃいましたけれど」
「それなら心配しないでください。ちゃんと間に合いました」
「それなら良かった……。心配していたんですよ」
安心したように言う。正一に美代子は思わず笑った。表情がころころと変わる様子は見ていて飽きない。まるで大型犬のようだな、と美代子は内心で呟いた。
「それじゃあ、俺は戻ります。突然声を掛けてしまってすみませんでした。」
そう言って話を切り上げようとした正一を、美代子は何故か引き留めたくなった。
「あの」
「? なんでしょう」
心臓が高鳴っていた。何か、新たな物語がここから始まろうとしている。そんな予感がしていた。
「もう少し、お話していきませんか? 」
立食パーティーの日に連絡先を交換した二人は、それから頻繁に会うようになった。日曜日には決まって駅前の喫茶店で、穏やかな時間を過ごすようになった。
美代子は同じグループに属する別の企業で、経営支援の仕事をしているらしい。まだ駆け出しで、先輩と共に仕事をしているが、その仕事内容に満足しており、充実した日々を送っているようだった。
その反面、正一は仕事にやりがいを見出せなくなっていた。企画の仕事と称して入社一年目の正一に与えられるのは雑務のみ。この頃残業が多くなっており、家に帰った後の経営のための勉強時間も充分に取れなくなっていた。
「正一さんには、夢があるんですか? 」
そう問いかける美代子に、正一は自信なさげに答える。
「はい。いつか自分の店を開きたいなって思っているんです。その勉強のためにいろいろな職場を転々としていたのですが、なかなかうまくいきませんね。でも、諦めるつもりは無いんです。この夢は、母親から譲り受けたものだから」
「正一さんのお母さんって……。」
「はい。母は、俺が高校生の時に亡くなりました。」
正一の言葉に、美代子は黙り込む。高校生の時に亡くなった。それはあまりにも早い別れだった。
「俺の母親は、昔から体が弱くて、入退院を繰り返していました。父親とは早くに離婚していて、なんとか女手一人で俺を育ててくれていたんです。短い時間でも働いて、市からの支援ももらって何とかやっていました。」
美代子は黙って聞いていた。きっと素敵なお母さんなのだろう。語る正一の顔は穏やかで、郷愁の念がにじんでいた。
「母はいつも言っていました。私のことは気にせず、好きなことをやりなさいって。俺はそんな母を尊敬していた。そして、母親が経営していた喫茶店を引き継ぐことを夢にしていたんです」
その言葉は全て過去形だった。その響きが切なく美代子の胸の中に入ってくる。
「母親の喫茶店は、街の隅にある小さなものでした。特段目立つわけでもないし、チェーン店に比べると人気も劣る。でも、確かにその店を愛してくれていた人がいたんです。」
話す人々のざわめき、時計の音、コーヒーのにおい。様々な感覚が五感を刺激する中、美代子は自然と正一の話に聞き入っていた。
「そんなある日、俺はまた入院が決まった母親に見舞いのケーキを自分で作っていったんです。確かにケーキは幾らでも店に売っているけれど、それでも自分で作りたかった。育ててくれた母親への、恩返しがしたかったんです。」
正一はその日、母親の好きなチーズケーキを作っていった。料理は得意な方ではないが、母親がくれたレシピを参考にして必死に作ったのだ。
「病院に着くまでの間、俺は呑気に考えていました。このチーズケーキを食べれば母親は喜んでくれるだろうか。また、いつものように元気になって帰ってくるだろうか。そう、思っていたんです。でも、病院に着いた途端、それは全て叶わないことがわかりました」
暫しの間重い沈黙が走る。正一は一拍おいてから言った。
「母親の容体が急変しました。寒い冬の日のことです。見る見るうちに意識が薄れていって、心拍数も下がっていく。俺は必死に母さんの手を握って呼びかけました。まだ、まだ返しきれていないものが沢山ある。まだ、俺を置いて行かないでくれ、と。でも、その願いは届かなかった。」
その瞬間を正一は生涯忘れることは無い。握った手の冷たさ、肌の白さ、止まる呼吸。命が、終わる。
あまりに、突然だった。信じたくなかった。認めたくなかった。こんなに、あっけないなんて。神様は残酷だ。何の罪もない人間の命を、いとも簡単に奪っていく。
「葬式に父親は来ませんでした。俺はそれが腹立たしかった。体の弱い母さんを支えるのは確かに大変だったかもしれない。それでも、父親は母さんのことを置いて行って一人にした。そのことを、俺はずっと怒ってる。だから、せめて俺が母さんのそばにいようって、そう思っていたんです。でも、先に母さんが行ってしまった。」
正一のまなざしはいつでもまっすぐだ。そのまっすぐさがどこからきているのかがわかる気がして、美代子は思わず目を逸らす。
「その後、母さんが作った喫茶店はほどなくして潰れました。経営者が亡くなって、店を切り盛りする人がいなくなった。母さんが残した全てがなくなるのに、そう時間はかからなかった。」
ほどなくしてその喫茶店は雑貨屋に改装された。その店の何もかもに母親の面影を感じる気がして、正一は今でも足を運ぶことがある。
「だから、俺がその夢を引き継ぐことにした。母さんの愛した喫茶店をもう一度この手で復活させたい。そう思ったんです。それからは早かった。経営学部の大学に入って、勉強して、就職しながら店を作る計画を立てて……。でも、なかなかそう上手くは行きませんね。現に行き当たりばったりでやっているから、仕事と勉強も両立もできなくて……。」
「そんなことありません」
きがつけば美代子は口に出していた。一体何がそんなことないのだろう。美代子自身もそれはわからなかったが、正一にはその夢を諦めてほしくなかった。
「夢をかなえるために頑張る正一さんは、とても素敵です。」
その言葉に正一は赤面した。こんな風に赤裸々に過去を語ることも、それを誰かに受け止めてもらうのも初めてのことだ。なんだか恥ずかしくなって、顔を伏せる。美代子はまっすぐな瞳でこちらを見て言った。
「もし、正一さんが良ければ、私も手伝います。実は、知り合いに伝手があるんです。協力してもらえば、支援してもらえるかも……。」
「ええ、そんな、悪いですよ。俺が勝手に語っただけなのに」
「いえ、私が手伝いたいんです。その素敵な夢を叶えるところを、見てみたい。」
「そんな……、気持ちは嬉しいけれど、そこまで巻き込むわけには」
「大丈夫です! 無理はしません。私に出来る範囲で構わないので、お手伝いをさあせていただけませんか? 」
美代子は自分でも驚いていた。人の人生に首を突っ込むことなどリスクばかりが高くていいことは無い。しかし、この愚直でまっすぐな男が、母親から譲り受けた夢を叶えるところを、見てみたくなったのだ。
正一は暫し考えている。しまった、迷惑だっただろうか。そう思った矢先に、正一は眩しい笑顔で言った。
「ありがとうございます。これから、よろしくお願いしますね」
それからほどなくして二人は交際を始めた。お互い働く場所は異なるが、同じ夢を目指して進む日々はとても充実していた。結局、美代子の知り合いの伝手から支援を貰いながら夢を叶えるための勉強をする日々。大変なことも多いが、それでも互いに支え合っていた。
それから一年の時が過ぎ、二人は結婚した。夢を叶えるためだけの存在じゃない、その人生事預け合うためのパートナーとなったのだ。
「病めるときも、健やかなるときも、永遠の愛を誓いますか? 」
神父の問いに二人は答える。正一は震える手で美しい純白のドレスを身にまとった美代子の白い手に指輪をはめる。
その日、二人は運命を分け合った。




