大切な思い出
秋旅レンズ6話目です。
よろしくお願いします。
「うわあ……。すごいな、ここ」
「ああ、ちょうど紅葉のシーズンだからな」
「秋に来たことなかったから、近場でも新鮮な気分だよ。」
鎌倉市のやや北西に位置する明月院は、その見事な紅葉をこれでもかというくらいに赤く染めていた。時折赤に染まり切らない葉がちらちらと散ってゆく。気持ちよい秋晴れの日差しが地面に木漏れ日の影を作り、木々の隙間から覗く太陽の光がまばゆく輝いていた。
音が最初に訪れようと言ったこの場所は、駅からやや歩くところにあった。普段運動をしない和樹が文句を垂れても気にせず音はすいすい進んでいく。その背中を見失いたくなくて、必死について行った。
本堂後庭園は、観光客で賑わっていた。日本人にまぎれてちらほらと海外から来たであろう観光客が見える。知らない言語を聞くと、不思議とここが非日常であることを実感できる。橋の上から川を見下ろすと、反射した青空の中に自分の姿が映った。今の自分は周りからはどう見えているのだろう。変わったのか、変わらないのか。そんな答えの無い問いが頭の中を逡巡する。
道の通り掛けにはいくつか地蔵があった。丁寧に飾られ、花が供えられている。その光景がいつかの記憶を蘇らせそうで、和樹は目を逸らした。
「ここ、不思議な空間だろ」
「ああ。なんか、心が洗われる気がするよ」
本堂にある円形の窓、通称〈悟りの窓〉はその現実離れした不可思議な雰囲気を空間いっぱいに充満させていた。外から光が差し込む丸窓は、夜空に浮かぶ満月を想起させる。紅葉はその丸窓の外からこちらを覗くように生えている。
「この窓は、禅宗の思想で自分のありのままの心を表しているんだ」
「だから悟りなんだ」
「そう。この空間、無駄なものがほとんどなくて、気持ちが落ち着くだろ? それに、丸って宇宙を示す図形らしいから、何か不可思議な力があってもおかしくないよな」
そう言って丸窓を背に語る音は、なんだか本当に神秘的な空気を纏っていた。逆光で隠れた顔の表情はわからない。ただ、この景色を美しいと思っていた。
「なあ、知ってるか? 和樹」
「え? 」
見とれていたところに問いかけられて一瞬返事が遅れる。音は逆光で見えないままの顔でこちらに問うた。
「紅葉の花言葉」
「花言葉……? 」
そもそも紅葉に花言葉があること自体を和樹は知らなかった。ましてやその内容なんて知るはずがない。
「紅葉は四月ごろに花を咲かせるんだよ。房になってて、小さくてかわいいんだ」
「へえ」
すらすらと述べられていく豆知識に、和樹は素直に感心した。四月の紅葉の木など気にも留めたことが無かった。だが、それでも植物は年中生きて花を咲かせている。和樹はそれを美しいと思えるほどには、この旅を楽しむ気がある。
「それで、花言葉もいくつかあって。〈美しい変化〉とか。〈調和〉とか。」
「やっぱり美しい感じの言葉が多いんだな」
「そして、あと一つ。」
「あと一つ? 」
そういえば、いつの間にか太陽は紅葉で遮られて音の顔が見えるようになっていた。その黄金色の瞳が切なげに揺れながらこちらを捉えている。
「大切な思い出」
「大切な、思い出……」
和樹にとっての
「素敵だと思わない? 」
「まあ、確かに」
「こういう景色を見て、大切な思い出になって……。花言葉って、人生を表しているような気がしてる。」
「そりゃそうだろ、人間が作ってんだから」
そうだな、と目を伏せるその影を見つめながら和樹は考えていた。音にも、忘れられない大切な思い出があるのだろうか。だとしたらそれは何なのだろう。花言葉を語る音の背中がなんだか切なくて、和樹はぼんやりとそれを見つめていた。
思い出。そのあまりに綺麗な響きを持つ言葉を和樹は今まで使いたがらなかった。自分の中にある思い出は修二とのものばかりで、振り返れば修二の笑顔が頭に焼き付いている。それを思い起こすことにすら罪悪感を感じるようになったのはいつからだったか。そんなことはとうに忘れている。紅葉の木々に隠れた日の光は、何とかこちらに手を伸ばそうとしているように見えた。
「思い出って、未来の中にもあるのかな」
「え? 」
突然和樹が言い出した言葉に音は伏せた目を上げた。
「思い出っていう言葉は過去を指すかもしれないけれど、探しに行くならそれは未来の中にあるんじゃないかなって、今思った。だって、俺はいま音と一緒にいて楽しい。現在進行形で作られるこの体験だって、いつかは〈思い出〉になるんだろ? 」
こんなに素直に自分の感情を言葉にしたのはいつぶりだろう。まして未来を語るだなんて、少し前の和樹なら想像できなかった。なんだか恥ずかしくなってきて顔を赤らめる和樹に、音は嬉しそうに微笑んだ。
「……そうだな。今この瞬間も、これから探しに行く時間も思い出だ。いいこと言うじゃん」
「音のおかげだよ」
本心から出たその言葉に、音は今度こそ破顔した。
急な傾斜を上っていく。その長い坂を上った先にあったのは、大きな鳥居だった。その先に広がるトンネルの中は、涼しいとも寒いとも言えない、不思議な冷気に満ちている。ゲームのダンジョンで言えば隠しエリアのような場所だ、と和樹は独り言ちる。暗闇の中を突き進む音に、和樹はなかば引っ張られるようにして進んだ。
二人は本宮へと進む。コンクリートや石で構成された灰色の景色の中に立つ鳥居の赤は、まるで一滴垂らされたインクのように存在感を示していた。
銭新井弁財天といえば、その名の通り金運上昇の伝説がある。奥宮の中には〈銭洗水〉という霊水が湧き出ており、その水で自分の持つ金銭を洗えばご利益があるらしい。そう書かれているのは駅で貰ったリーフレット。行楽シーズンである秋だからなのか、駅の出口には旅行に関するパンフレットやリーフレットがまとめておかれていたものを和樹が手に取ったのだ。
せっかくだから自分たちもやろう、と提案したはいいものの小銭を持っていなかった音に、和樹はためらいもなく百円玉を差し出した。
「いいのか? 」
「いいんだよ、たったの百円くらい。今回の案内料」
「だとすると安いな」
「さっきまでの遠慮はどうした」
軽口を叩きながら小銭を洗う。水の流れる音が耳を撫でる。しかしそれは瞬く間に人々の話し声で埋め尽くされていってしまう。それを和樹はなんだかもったいなく感じていた。
「そういえば、ここは水の神様が祀られているらしいな」
「そうなのか? 」
「たしか、市杵島姫命っていう神が主祭神だったって書かれてる。古事記にも出てくるらしい。」
「へえ」
つらつらとリーフレットに書かれた知識を読んでいく和樹に、音は感嘆の声を漏らす。
「天照大神と素戔嗚尊の誓約、つまり占いによって生まれたんだってさ」
「アマテラスとスサノヲ……。結構有名な神から生まれてるんだ」
「そうなんだよ。びっくりした」
音は考えるポーズをして問いかける。
「占いって、どういうものなんだろう」
「そこまでは書かれてなかったけど……。まあ、未来予知みたいなものなんじゃないか? そういうものだろ」
和樹は適当に答えたつもりだったが、音はそれを聞いてなぜか両手を和樹の前にかざす動作をした。突然の奇行に和樹はしばらく何を言えばいいかわからなくなる。
「え、あの……音? 」
「ん? 」
「何してんの? 」
「占い」
「占い? 」
「うん。和樹の未来を占ってた。」
当たり前のようにそう言う音に、和樹は苦笑した。まさかこの年になって大真面目にそんなことをする人間がいたとは。しかしその表情は本気で占いを信じている者のそれだったので、を否定することはできなかった。
和樹は何かを試すように問いかける。
「未来は見えた? 」
「ああ……。はっ、これはまずい! 」
音はそう言って翳した手を顔の前にもっていって、指の隙間から和樹の顔を覗き込む。
「え? 」
「俺の占いによると、和樹はお化けを見るって出ている! 」
「お化け? なんだそれ」
「ほら、よくあるじゃん。トイレから顔を出す……。」
そう言っているが、手の隙間からこちらをのぞき込んでいる音の方がお化けのように見える。
「ずいぶんベタだな」
「ベタなくらいがいいんだよ、こういうのは」
「どういうことだよ」
すかさずツッコミを入れた和樹に、音は声を上げて笑った。その会話があまりにくだらないので、和樹も笑ってしまう。その姿はあまりにも普通の友達で、ずっと前からこうしていたのではないかと錯覚してしまう。ジワリ、と和樹の胸の中を染める何かが広がっていく。それは灰色に染まったこの空間の中で唯一色を持った何かだった。
明月院にいた時の透き通るような青空は、灰色の雲が覆い隠していた。それをずっと見つめていると、まるで雪の中を歩いているような感覚になる。この雲を払えばいつもの青があることが信じられなかった。
「立派な神社だなあ」
「大きいな。紅葉も多い。」
「お参り、してく? 」
「ああ」
大きな鳥居をくぐると、本殿が見える。空間が広い鶴岡八幡宮では、観光客が散り散りになり、そこまで窮屈さを感じなかった。木々に覆われた中から姿を現す厳かなそれは、雲に覆われあ天空の城を思い起こさせる。長い長い階段を上り、二人は拝殿にたどり着いた。
「そういえば、はい」
「五円玉? 」
「小銭、無いんだったよな。さっきの百円は使いたくないだろうし、あげるよ」
「それじゃ遠慮なく」
音は和樹から金色に輝く五円玉を受け取った。賽銭としてそれを投入し、手を合わせる。
さまざまなご利益がある鶴岡八幡宮は、三柱の祭神と縁を持つ。開運、繁栄、勝負運。この神社が持つご利益の中のどれでもないことを和樹は祈っていた。日本の神は八百万だ。ここの神様が取りこぼそうとも、誰かが叶えてくれるだろう。
暫しの沈黙の後、音の方が先に顔を上げた。その影が動く気配を感じ、和樹も顔を上げる。
「……それじゃ、行こうか」
「……そうだな。そういえば、音は何を祈ったんだ? 」
その問いに深い意味などなかった。ただ、自分の心を開いてくれたこの青年が一体何を祈っているのかを知りたい。そんな、純粋な好奇心だった。
「内緒」
「ええ」
「こういうのって、口に出したら叶わないっていうだろ? 」
「まあ聞いたことあるような」
「だから、言わない」
その一言が無性に切なく響く。風は二人の間を通り抜けて、木々を揺らす。近くにいるのに遠い。和樹はそんなことを一人思った。この青年はどうして、その黄金色の瞳をそんなにも寂しげに揺らすのだろう。和樹がその理由を知るはずもなかった。
「そっちはどうなんだ? 」
「え」
「お願い。叶いそう? 」
未来なんて不確実なものだ。それこそ占いなんてあてにならないくらいに。だからこそ、和樹は祈った。いつか、失われた時間が、その傷が忘れられないように。忘れないように。自分の中でずっと痛んでくれるように。そんな愛おしくて哀しい、誓いとも言える願いを和樹は胸に抱えて生きてきた。もし八百万の神様さえも忘れたって、和樹はずっと覚えている。それが償いであり、生きていく道だと本気で信じている。
「……叶えば、いいなって思う。」
その言葉は、静かな諦観をはらんでいた。
夏休みを控えた昼休みを迎えた教室には、どこか浮かれたような空気が漂っていた。放送委員の選んだ知らないバンドの曲が流れている。ざわつく教室の中で、菖蒲はクラスメイトをかき分けて自席にたどり着いた。そこにはすでに机を引き寄せてセッティングを終えた少女が待っている。
「あ、来た来た、菖蒲! 一緒にお昼食べよ! 」
そう言って椅子を引くのは古くからの菖蒲の友人であるさやかだった。快活で裏表のないさやかの性格は、菖蒲の真面目さとうまく嚙み合っている。互いが互いの異なる部分を評価し合える良い関係だったのだ。少なくとも陰口を叩いていた二人よりは。
「さやか! わざわざ待っててくれたの? 」
「当たり前じゃん! あんたの好きな人の話、聞きたいし! 」
さやかはそう言ってその屈託のない笑顔を見せる。菖蒲はあの日の夜、高鳴る気持ちを抑えきれずにさやかに連絡したのだ。好きな人ができたかもしれない。その気持ちは日を経るごとに確かな輪郭と質量をもって菖蒲の中で膨らみ続けている。そんな菖蒲の恋路を、さやかは無条件に応援すると言ってくれた。まずは詳しい話を聞かせてほしい。そう言われて菖蒲は苦い記憶を話す決意をしたのだった。
「さやかってばそればっかりだね」
「だってねえ? 親友の恋路は応援したくなるのが性ってもんじゃん! 」
「さやか……ありがとう」
「で、どんな人なの? 好きな人! 」
菖蒲は事の顛末を全てさやかに話した。その間は真剣にうんうんと頷きながら聞いてくれていたが、それが終わるとさやかは大きな声で言い放った。
「ええ! なにそれ、ひどいね! 言い方ってもんがあるでしょ! 」
「ちょっとさやか、他の人に聞こえるって! 」
教室を見回すと、他クラスからも遊びに来ている生徒がちらほらみられる。この話を聞かれると後々厄介なことになるかもしれない。そう思った菖蒲はわざと声を潜めてあの日の出来事を話したのだ。しかしさやかはそんなこともお構いなしなようで、声のボリュームを下げることなくその出来事を糾弾した。
「だって、自分でやりたいって言ってやってるんだもん! そりゃ本気になるでしょ! ていうかうちのクラスがやる気なさすぎるんだよ。3組とか見てみ? 女子が本気すぎて男子が付いていけなくなってるし! 」
それもそれでどうなのだろう。学校行事で起こりがちな男女の抗争が怒っていない分、自分のクラスはまだマシな状態だったのかもしれないと菖蒲は独り言ちる。なんだかんだで表面的には皆ついてきてくれているのだから。
「それに、あたしは菖蒲のそういう何事にも一生懸命なところ好きだよ。これはお世辞でも何でもなく、本当。だから、そんなに自分を卑下しないの! 」
そのまっすぐすぎる言葉に心が温かくなる。さやかという人物はいつもそうだった。その眩しすぎる光で閉ざされた心をいとも簡単に開いてしまう。菖蒲もさやかのそういうところが好きだった。
「それにしても、やっぱ修二君はすごいね。言うこともやることもイケメン。そりゃ菖蒲も惚れるわ」
そう言われると自分がミーハーな人間のように思えて恥ずかしくなってくる。しかし、菖蒲は格好いいという単純な理由で惚れたのではない。届いたのだ。あの日の言葉も、そのまなざしも、優しさも。それらすべてが菖蒲の心の奥深くの凍った部分に届いて、その氷を溶かしてしまった。
「でも、あたしは修二君のこと詳しく知らないからなあ……。具体的にどんな感じなの? 」
その言葉に菖蒲は暫し考える。具体的、と言われてもあの光を的確に示す言葉が存在するのだろうか。その時菖蒲の頭に浮かんだのは、ある風景だった。
「……海みたいな人、かな」
「うみ? 」
それは具体とはかけ離れた表現であるが、菖蒲はその言葉がぴったりだと確信していた。要領を得ない様子のさやかに、菖蒲は言葉を続ける。
「海みたいに輝いていて、キラキラして……。その広い心で何もかも受け入れて照らしちゃうような人だよ」
「えー、よくわかんない」
「ええ? 」
「だって、海ってさ、そりゃ昼は輝いてるけど、夜になると暗いし静かじゃん。波の音ばかり聞こえてきてさ。だから、海にそういうイメージあまりないんだよね。お父さんが釣り好きだから見慣れてるっていうのもあるだろうけど」
さやかの意っていうことは理解できた。海は綺麗だが、同時に恐ろしい。夜の闇を映した海の揺れる姿は、何もかもを飲み込んでしまいそうなくらいに恐ろしい。釣りをするのならばその恐ろしさも分かっているのだろう。
菖蒲は少し考えてから言う。
「確かに、海って四六時中輝いているわけじゃない。でも、そこも含めていいところな気がするの」
「そうなの? 」
「うん。ずっと眩しい輝きを放っているのも素敵だけど、あの人はそれだけじゃない。時に繊細で、優しくて。そういうところも含めて、私は好きなんだと思う。」
きっと夜になっても修二は月の光を照らして誰かを包み込むのだろう。時に眩しく、時に優しく。恋をしているという贔屓目を抜きにして、菖蒲は修二の人格を評価していた。それくらい、修二は、不思議な魅力にあふれていた。だから人が集まるのだろう。
さやかはなぜか不服そうな顔をして言う。
「へえ……。ほんとに好きなんだね、修二君のこと。なんかやきもち」
「ええ? 」
「だって、私の方があんたと長く一緒にいるのに、ぽっと出の男に取られちゃったような感じでさ」
「取られるって……、叶うかはわからない恋なのに」
「大丈夫。自信持ちなって。あんた可愛いのだからさ」
その言葉に菖蒲は赤面する。誰かをかわいいと思うことはあっても、その対象が自分になる経験はほとんどしてこなかった。なんだか気恥ずかしくて目を逸らしてしまった。
「そうかなあ……。」
「そうだよ! あたしが男なら菖蒲と付き合ってたもん! こんなに健気で優しい女の子、どこ探したってすぐには見つからないよ」
「また変なこと言って」
「変じゃないよ! 本当だもん! 」
そう言いながらも、内心嬉しかった。私の内面をこんなに素直に評価してくれる人がいる。それだけのことがとても心強かった。思えば昔から自信がなくなった時はいつもさやかがそばにいて励ましてくれていた。そんなさやかに菖蒲は感謝が尽きない。
開いたままの前方のドアから廊下が見える。そこに見覚えのある人影を見つけ、思わずさやかに耳打ちした。
「あ、修二くん! 」
「ほんとだ! あの人は……お友達かな? 」
「かもしれないね」
よく見てみると修二の隣には、同じくらいの背丈で黒髪の男子が並んで歩いていた。キラキラしたオーラを振りまく修二とは違い、その控えめな雰囲気はまた違った魅力があるように思える。
さやかはというと、なぜか楽しそうにこちらに声を掛ける。
「ね、声かけてきなよ」
「え!?」
「だって、まだあの時のお礼できてないんでしょ? 今言わないとずっと言えないよ? 」
おそらくさやかは完全にこの状況を楽しんでいる。だが、こちらとしてはそんな余裕はない。
「で、でも急すぎるって言うか……、こ、心の準備が」
「じゃあ私と行こう! 」
「ええ、ちょっと! 」
ためらう菖蒲の手を取り、さやかは強引に走り出す。昔からさやかはこういうところがある。猪突猛進、思いついたらすぐ行動。それはいいが、こうして度々人を巻き込むことは勘弁してほしい。
人波をかき分けて、校舎の中を追いかけていく。はたから見たら完全に尾行している不審者だ。見つからないように息をひそめながらたどり着いたのは、校舎裏のスペースだった。校舎に日差しが遮られて、心地よく涼しい風が流れている。なるほど、ここは良いスポットだ。
「いやあ、ここってやっぱ飯食うのに最高の場所だよな! 」
「まあ確かに人も少なくていいけど……、ちょっと埃っぽくないか? 」
そう言って手で埃を払う和樹に除菌シートを渡しながら修二は答える。
「そうか? でもいちおう手入れはされてるだろ」
「不衛生」
「ちゃんと手も洗ってるし、大丈夫だって。」
「そういうことじゃないんだよなあ……」
さやかと菖蒲は二人の様子を見ている、その気心の知れたやり取りを見るに、二人はかなり親密な間柄らしい。菖蒲がそのまま様子を見ようとしたところをさやかが押してくる。
「いまチャンスだよ、行きなって! 」
「ええ? でも邪魔したくないよ! 」
「でもお昼休みにも限りがあるし、ここまで来たんだよ? 」
「でも……。」
そう言いかけた時、黒髪の少年は口を開いた。
「それにしても、不思議だよな」
「何が? 」
「だって、俺と修二って、たまたま家が近くて遊んでただけだろ? 」
「だけとか言うなよ、だけとか」
「でもそれがいつの間にか当たり前になって、今もこうして一緒にいるなんて、よく考えたら誰にでも起きることじゃないよなって」
その言葉に修二も納得したように頷く。
「まあ、そうだよな」
「腐れ縁ってやつか」
「腐れ縁じゃなくて、幼馴染! 」
「どっちも一緒だろ」
わざわざ訂正する修二に青年は冷めた目で答える。この青年は控えめに見えて気心が知れた相手には容赦がないらしい。なんとも対照的な二人である。
修二が抗議するように青年にわめいている。
「全然違うって! 幼馴染はなんか、絆が深い感じがするけど、腐れ縁って、まるで仕方なく一緒にいるみたいじゃんか! 」
「まあ、そういう風に考えれば幼馴染って言い方の方が合ってるのかもな。俺も渋々一緒にいるわけじゃないし」
「照れるなあ」
「やめろよ」
そうぶっきらぼうに言うと修二はあからさまに嬉しそうな顔をした。何でもできる完璧な人間の印象が強かったが、案外素直で子供っぽいところがあるのかもしれない。
修二はさりげなく口を開いた。
「そういえば、和樹」
「なんだよ」
「夏休みって暇? 」
「夏休み? 」
突然の問いに、青年は訝し気な声を出す。なるほど、あの青年は和樹という名前なのか。和樹は要領を得ないような顔で答える。
「特にこれと言って忙しくはないけど、なんで? 」
すると修二は目を輝かせて言う。
「それならさ、旅に出ない? 」
「たび?」
旅。突然出てきた脈絡のないワードに和樹は頭を傾げた。修二はそんな和樹にはお構いなしに話を続ける。その強引さはさやかに少し似ていた。
「ひと夏の思い出にさ、出かけようよ。たまにはいいだろ」
「確かに、あまり遠出はしない方だけど……、どこ行くつもりだよ」
修二は少し考えてから言う。
「……鎌倉、とか? 」
「めちゃくちゃ近場じゃねえか」
速攻でやってきた和樹のツッコミに笑いながらも修二は言う。
「えー、いいだろ別に! 鎌倉ならいろいろあるし。ほら、大仏とか、アジサイとか! 」
「アジサイ?」
「そう! 明月院の名物と言えば、アジサイだろ? 」
修二と和樹がそう話す傍ら、菖蒲とさやかは未だに物陰でたじろいでいた。
「ね、ほら、今だよ今。チャンスが逃げちゃう! 」
「や、やっぱり別の日に」
「何言ってんの! ここまで来たんだから、ほら、行ってこーい! 」
「え、えええ!?」
さやかが強引に背中を押し、菖蒲は半ば強制的に二人の前に出るような形になった。二人肩を跳ねさせて驚く動作をする。その体格の良さが菖蒲と二人の違いを如実に表していた。
「うわっびっくりした」
「おお、どうしたの? もしかしてここ使う? 」
そういう二人に、菖蒲は目を泳がすことしかできない。
「あー、えーと……。」
二人がこちらを見ている。何か言わなくてはと思うのに、焦れば焦るほど何も言葉が出てこなかった。突然現れたと思ったら黙り込むなど、不審者もいいところだ。何かないか。何か。菖蒲は頭をフル回転させたのち、突然言い放った。
「あ、あの! 」
「ん? 」
「アジサイの花言葉って知ってますか!!」
「アジサイ……? 」
「ちょっと、菖蒲?!」
自分は何を言っているのだろう。そう思ったのは、口に出してからだった。突然やってきた素性の分からない人間がよくわからないことを言っている。しかし口に出してしまえば止まることはできない。菖蒲は半ば喋り倒すように言った。
「えっと、アジサイの花言葉は無常なんだって。ほら、諸行無常とか言うじゃない。変わらない物はないって。アジサイにも、色々な色があるから、そこから無常っていう言葉が付いたらしくて、その……。」
もう何が何だか分からなくなってきた。自分は何を言いたくて、何を言おうとしていたのだろう。これではただ授業で聞いた知識を披露しただけで終わってしまう。気づけば顔が赤くなっていた。修二には悟られたくない。菖蒲は全てを言い終わった途端、持っていたノートで顔を隠した。
終わりだ。完全に終わった。絶対に変な人だと思われた。暫しの奇妙な沈黙が流れる。
すると、修二の明るく笑う声が聞こえた。
「……あははっ、すごい! よく知ってるね! 」
「……え? 」
予想外の言葉に菖蒲は面喰う。てっきり怪しい者扱いされて終わると思っていたのに。そーっとノートから顔をのぞかせると、そこには明るい笑顔を振りまく修二と、きょとんとした和樹がいた。
修二ははしゃいだように言う。
「俺、花言葉とか詳しくないけど、なんだか素敵だなあ。そうやって人間が一つ一つ意味をつけてるなんて、ロマンチックだと思わない? 和樹」
和樹と呼ばれた青年はその言葉に興味なさげに返す。
「まあ、気持ちはわかる。って言うか、どうしたんですか? ここに来たっていうことは何か用があったんじゃ? 」
菖蒲はその言葉でそこでようやく我に返り、頭を下げた。その動作に二人は再び驚く。
「あの、ごめんなさい! 話を盗み聞きするつもりはなかったんです! ただ、この辺をたまたま、そう、本当にたまたま通りがかった時に二人が話しているのが聞こえて、なんというか、つい飛び出しちゃったって言うか……。」
しどろもどろな言い訳を並べる菖蒲に、修二は笑顔のまま答える。
「いいよ全然。むしろ、新しい知識が知れて良かった! 」
こちらこそよかった、うまくごまかせたようだ。安心していると、修二は突然こちらを見て思い出したように言った。
「ていうか、君、こないだ話したよね! ほら、覚えてる? 教室でたまたま会った時! 」
その言葉を聞いて心臓が止まりそうになった。こちらが覚えていても、逆のことは無いかと思っていたからだ。ちっぽけな自分の存在が相手の心の中に残っていることがこんなに嬉しいとは知らなかった。
「うん、覚えてるよ。実は、今日はそのお礼を言いに来たの。」
「お礼? 」
「うん。あの時、元気づけられたから。ありがとう。」
そう言われても、全く心当たりがない顔で修二は首を傾げた。もしかして、人を助けたという自覚も無しにあの言葉を言ってくれたのだろうか。だとしたら半ば恐ろしささえある。 その光は天性のものなのだろうか。
修二は照れたように頭を掻きながら言った。
「いや、お礼を言われることじゃないよ。俺が思ったことを言っただけ。むしろ、余計なお世話だったかなって思うし」
「余計だなんて、そんなことないよ。嬉しかったもん。」
「そっか、よかった」
二人の間には穏やかな空気が流れている。その流れを切るように、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
「あ、そういえば俺ら次移動じゃなかった? 」
「そうだった! やばい! 」
和樹の言葉に修二が焦った声を出す。なんというタイミングだろう。ようやく話せたのに。そんな名残惜しさもどこ吹く風か、二人は立ち上がって去ろうとする。姿が見えなくなる瞬間、修二がこちらを振り返った。
「そういえば、名前なんていうの? 」
その言葉に、菖蒲は精一杯の声で返した。
「……菖蒲! 霧島菖蒲だよ! よろしくね、修二くん! 」
「おい修二、ほんとに間に合わないって」
焦るような和樹の声が聞こえてくる。最後に修二は言った。
「よろしく! 霧島さん! 」
そうして二人が完全に見えなくなったところで、菖蒲は軽く息を吐いた。よかった、何とかちゃんと話せた。怪しいところもあったかもしれないけれど、お礼も言えた。そして何より、自分の存在を覚えてもらっていた。それだけで菖蒲は、天にも昇りそうな気持になっていた。
「あーやめっ! 」
「うわっ」
ふいに背中にかけられた体重に声を上げる。振り返ると、さやかが後ろから菖蒲の肩に手を回してはしゃいでいた。
「良かったじゃん、菖蒲! ちゃんと話せて! 」
「えへへ。ありがとう、さやか」
「ほんと、最初はどうなるかと思ったけど、何とかうまくいったね。それに名前も覚えてもらえた! 今日だけで大進展だよ! よくやった! 」
そうやって喜ぶさやかの体温が温かかった。自分でも信じられない。初めて恋をして、初めて話して、初めて笑いあえた。知らない感覚に、菖蒲は自然と胸が高鳴っていた。
「さやか」
「ん? 」
菖蒲は満面の笑みで言う。
「私、やっぱり修二くんのことが好き」
その気持ちにはひとかけの嘘もなかった。
「海風が気持ちいいなー」
「ああ。近いから来ることも少ないけれど、たまにはいいかもな。」
旅に出よう、と言ったはいいものの、実行にはかなりの時間を要した。和樹の面倒くさがりな面と修二の見切り発車な部分が良くない化学反応を起こしたのだ。その結果、二人が最終目的地である海にたどり着いたのは夏休みも終わりの頃だった。海風の中に秋の気配が漂う。夏の終わりはもうすぐそこにあった。
海は夕暮れのオレンジ色を反射して輝いている。浜辺の砂に交じる透明な石が乱反射して、地面をキラキラと彩る。カモメの鳴き声はどこか空々しさを物語っていた。
修二は海をバックに軽く伸びをして言う。
「なんかいいな、こういうの。青春! って感じして」
「なんだよいきなり。修二ってそんなキャラだったか? 」
「いいだろ別に。男子高校生だって青春を語るべきだ! 」
「はあ……。」
修二にはこういうところがあった。青春、努力、仲間。部活動や学校行事のスローガンにありがちな言葉の数々。物を語るときには決まってそんな熱血ワードを羅列する。そのような言葉と無縁な和樹は、聞くたびにやたらドラマチックな曲の歌詞を見た時のようにこそばゆい心地になる。自分はそんなガラじゃない。そう言って境界線を引いてきた和樹の心をこじ開けたのは他でもない、修二だ。
「俺、本気で思うんだ。青春って、今しかないって」
「ほんと修二はそういうの好きだよな。なんというか、俺には眩しすぎる」
「何でだよ。俺っていう仲間がいるじゃん。友達と一緒に海を眺める。これだって十分青春の一ページだろ」
「そうなのかなあ」
いまいち信じきれない和樹に修二は熱弁を続ける。
「別に青春って、必ずしも決まった形なんてないんだよ。仲間と過ごした時間も、一人で過ごした時間も、その時しかないかけがえのないものなんだと思う。それを大人はあとから振り返って〈青春だった〉なんて言うんじゃないかな」
修二の言葉に、和樹は考えた。かけがえのないもの。和樹にはそれが何なのかまだ分からない。これから見つけていくのか、それともすでに見つかっているのか。今過ごしているこの時間は、後から振り返って青春なんて綺麗な言葉にまとめられるのだろうか。こんなどうしようもない自分にも、青春はあるのだろうか。こんな、キラキラの歌にも当てはまらないような人生が。
「やっぱり俺とお前は違うな。根本的な考えが違う」
「ええ、分からなかった? 」
「少なくとも今は」
えー、と不服そうな声を上げる修二を和樹は横目に見ていた。
いつしか夕暮れは迫りくる夜の紺碧に染まりかけていた。オレンジと青のグラデーションが空をかける。直接見たことは無いが、これを瑠璃色というのだろうか。
今ならわかる。青春と呼べるかどうかはわからないが、この時間がかけがえのないものだったということが。そして、それに気が付かなかったかつての自分の青さが憎らしい。それがわかっていたら、もっと大切にできたのだろうか。もっと寄り添えたのだろうか。取り返しのつかない後悔が頭を満たしていく。
「なあ」
修二は言う。
「約束、しないか」
「約束? 」
約束。脈絡のないワードが鼓膜を震わせた。
「ああ。俺たち、これまではずっと一緒だった。喧嘩して、笑って、泣いて。でも高校が別れたら毎日という訳には行かなくなる。だから約束しておきたいんだよ。道は離れていても友達でいるって。」
修二は黄金色の瞳をこちらに向けて真剣に言っている。その様子を見て、和樹は吹き出した。
「おい、笑うことないだろ! 」
「いや、ごめんごめん。だって、そんな台詞、少女漫画でも今どき見ないし。どんだけ女々しいんだよ、お前は」
「いいだろ別に。俺だって不安になるときはあるんだから」
修二は強い。何があっても折れないその精神で、これまでの人生を切り開いていく様子を一番近くで見てきた。だからこそ、そんな修二がこぼした不安は本物なのだと和樹は気づいていた。
「まあ、そうだよな。わかったよ」
「じゃあ、約束を―」
「でもその約束はしない」
「え? 」
不安げに揺れるその瞳を見て、和樹は言った。
「離れていても、じゃない。この先何があったって、離れないから。だから、これだけ約束してくれ。ずっと一緒だって」
その言葉に、修二の顔は綻んだ。波の音が聞こえる。
「……ああ。ずっと、一緒だ」
小指を絡め、約束を誓う。普段なら絶対にしないであろうベタな約束も、今は悪くない。むしろ、ベタなくらいがちょうどいい。二人は瑠璃色の空の下で約束を分かち合った。




