初恋と忘れ物
秋旅レンズ4話目です。
どうぞよろしくお願いします。
何か心に残るものがあれば嬉しいです。
感想などもお待ちしています。
「ご、ごめんくださーい……。」
「……音? 」
後日、店にやってきたのは紛れもなく音だった。人の名前を覚えるのが苦手な和樹も、こればっかりは覚えていたのである。
当の音は気まずそうにドアを開けてそこから顔をのぞかせている。相変わらず客の少ない昼時に来るので、いい暇つぶしにもなるのだ。
和樹はわざとからかうように言う。
「今度は何忘れたんだ? 」
「ほんとごめん。携帯忘れちゃって」
前から忘れ物が多い音だったが、まさか携帯電話を忘れるまでだったとは。もしかしてこの人は自分が思うより抜けているのかもしれない。
「ほら、これ。もう、ほんと気をつけろよ」
「ああ、ありがとう! 助かった」
全く、と言いながらも、和樹はなんだか悪い気はしなかった。むしろ、久々にこんな気の抜けた会話をした気がする。それはまるで、修二のような―。
それから音と和樹の奇妙な関係も続いた。いつの間にか忘れ物を繰り返している音と、それをやれやれと言いながらも満更でもなく受け入れる和樹。気づけば軽口を叩くような仲になっていた。
和樹が裏から私服姿で出てくるのを、音が迎え入れる。
「ちょうど俺が上がったタイミングでお前がいるとはな」
「でもちょうどよかったよ。今までゆっくり話す機会もなかったし」
「まあ俺も帰ってやることもないけど」
「要するにお互い暇ってことか」
その言葉の通り、和樹と音は今まで最低限のやり取りで別れることを繰り返してきた。今日はたまたま和樹が仕事を終えたタイミングで音が来たので、和樹から引き留めてあの席に案内したのだ。なんとなく、そうした方が良い気がして。
和樹の前に置かれたコーヒーの香ばしい匂いが喫茶店の空気を充満させる。音は苦いものが苦手なのでカフェラテにしたそうだ。遠くからは店長の期限の良い鼻歌が聞こえる。久しぶりに穏やかでのどかな時間が過ごせているように思う。上機嫌な音がカップのソーサーを指でなぞるのを和樹はぼうっと見ていた。
音はいたずらっぽく笑って言う。
「まあ、やらなきゃいけないことが全くない、って訳じゃないんじゃないか? 」
その言葉にドキッとする。心当たりが全くないわけではない。大学三年生の秋、この時期にやらねばならないことと言えばただ一つ。ひたすらに自分と向き合わされるあの時期が来たのだ。
「この時期になるとあるだろ……。就活」
そうなのだ。そろそろ動き出しておかないといけないということはわかっているが、どうにも腰が重い。
その顔を見て、音はまるで母親が説教するように腕を組んで言う。
「この時期になったら会社説明会とかあるだろ。行ってるのか? 」
「あんまり」
反面、和樹はばつが悪そうな顔をしている。触れられたくない部分だった故に、しどろもどろだ。
音は容赦なく説教を続ける。
「ちゃんと行っといた方がいいぞ。早期選考だってあるだろうし、面接対策や履歴書だって準備しないといけない。今から動いておかないと」
出される単語の一つ一つに耳が痛くなる。
「いや、だって」
「だっても、でもも、ないだろ。後で困るのは自分なんだから」
その言い方に和樹は思わず笑ってしまう。その様子に怪訝そうな顔をした音が言う。
「なんだよ」
「いや、似てるなって」
「誰に」
「それは……。」
まさか知り合ってひと月ほどの人間に居なくなった人間を重ね合わせているなんてことを言えるはずもなく、和樹は黙ってしまった。それを見かねた音が口を開く。
「まあ、俺にもやらなきゃいけないことはある。」
「なんだよ、それ」
音は暫し俯いて、意を決したように言う。
「忘れ物があるんだ」
「忘れ物? それなら今店長に言って裏に」
「そうじゃない」
和樹の言葉を遮って言う音に、これはただ事ではないと脳が反応する。見たことないその表情に、和樹の方もかしこまってしまう。
「それは、もしかして別の店にあるのか? どこの店に行ったとか覚えてる? 」
「わからないんだ。」
再びの即答。
「わからない……? 」
「ああ。その忘れ物がどこにあるのか分からないんだ」
その返答に、和樹は合点がいったようだった。
「なんだ、そういうことか。まあ、お前うちの店だけでも相当な数の忘れ物してるからな。それで、何を忘れたんだ? 」
「分からない」
「……は? 」
今度こそ和樹は理解が出来なかった。音は神妙な顔つきでこちらを見て話す。
「何を忘れたか、分からない。」
「いやいや、そんなことあるか? だって、何を忘れたかわからないなら、そもそも忘れたことに気が付かないだろ」
「でも、忘れたことだけは、確かなんだ。」
一見訳の分からないことを言っているように思えるが、当の音があまりにも真剣に話すので、嘘だとは思えなかった。
「俺をからかってるって訳でも、なさそうだよな……。」
「当たり前だ」
和樹はその曇りないまなざしをみて、軽く微笑む。
「じゃあ、お前のやらなきゃいけないことっていうのは、その忘れ物を探すってことだったんだな」
「そういうこと」
「お互いすぐ解決する訳でもなさそうだな」
「そうだよな……。」
それから和樹も音も黙り込んでしまった。すぐにどうすることもできないのならどうしようもない。そも、所在も物も分からない忘れ物をどうやって探すつもりなのだろうか。そしてなぜ、忘れたことだけはわかるのだろうか。音という人物は何から何まで謎めいている。
「そうだ! 」
「うわっ、なんだよ! 」
突然の大声に和樹は思わず声を荒げる。それもお構いなしに音は先ほどまでの悩まし気な目を輝かせて言った。
「なあ、探すの手伝ってくれないか? 」
「探すの? 」
「俺の忘れ物! 」
「菖蒲、おはよう」
「おはよう」
そう挨拶する現在時刻は午後十三時。大学生になると毎日決まった時間に会う訳ではないので、その日初めて会う時の挨拶は決まって〈おはよう〉なのだ。
「そういえば、今日って小テストだったよね? 」
友人が話しかけてくる。菖蒲は得意の笑顔で言った。
「うん、そうだよ。勉強した? 」
「全然してなーい。やば、休み時間もうあと十分しかないじゃん。間に合うかなー」
「範囲も狭いし大丈夫だよ。私、プリント見せようか? 」
「さっすが菖蒲! 持つべきものはいい友達だわー」
「もう、何それ」
菖蒲はそう言って再び笑った。確かに友人は感謝している。しかし、心から繋がっているかと言われると、そうは言い切れない自分がいた。
霧島菖蒲はごく普通の家庭に育った、ごく普通の人間だった。それなりに友達もいて、軋轢を生むこともなく平和に過ごしていた。遊ぶ相手には困らないし、ペア学習の際にも相手が見つからない、なんてことはなかった。自分は皆に愛されている。そんな自意識がいつしか芽生えていた。だから、中学生になってそれが大きく覆るなんて思いもしなかった。
その日は雨が降っており、夕焼けを全て埋め尽くしてしまうほど雲が空を覆っていた。放課後、菖蒲が置き傘を取りに教室に入ろうとしたその時、はしゃぐような声が聞こえてきた。
「てか今日の合唱祭の練習疲れた! なんで昼休みの時間まで使わないといけないの」
「それな! うちのクラス優勝目指しているわけでもないのに気合入れすぎなんだよ。どうせ勝てるわけでもないのに」
菖蒲は少なからずショックだった。このクラスの合唱祭で指揮者を任せられた身として精一杯やってきたつもりだったのが、仲のいいクラスメイトにそう思われていたなんて。やるからには全力で取り組みたいと思うことは間違いなのだろうか。
それにさあ、と軽率な声は意地の悪い声を高らかに放った。
「菖蒲も少しやりすぎな部分はあるよね」
「え、分かる! いちいち真面目でめんどくさいよね」
「あんなん適当にやればいいのに、自分が指揮者任せられたからって生き生きしちゃって。内申点にもならないのに何張り切ってんだか」
「もしかしたら押し付けられたのかもよ。だとしたら可哀想じゃない? 先生にも気に入られてるし」
「え、それなら本人に言った方がいいのかな。やらされてるなら断りなって」
その瞬間、菖蒲はたまらなくなってドアを開ける。そこには見慣れた顔が二つ、教室の白い蛍光灯に照らされて並んでいた。
「菖蒲……。」
一人が唖然としながら呟く。まさか当の本人に聞かれているとは思わなかったのだろう。さすがにばつが悪いそうで、その目は泳いでいた。
「あ、えっと……。」
「聞こえたよ。全部」
菖蒲はショックを隠し切れない顔でそう言い放った。二人の顔が青ざめる。
「いや、その……、別に菖蒲のことが嫌いって訳じゃなくて! ほら、菖蒲って断れないところあるじゃん? 何でもかんでも引き受けてたら持たないんじゃない? って思っただけなの! 別に私たちが嫌な訳じゃ……。」
「もういいよ」
正直二人の本心などどうでもよかった。ただ、先ほどの言葉か頭から離れない。菖蒲は自ら立候補して指揮者になったのだ。その役割に誇りを持っていたし、クラスを導く自負もあった。自らやると決めて頑張っていたことを、やらされている、可哀想と言われるのは、自分自身を面倒くさいと言われるよりも堪えたのだ。
「あの……ごめん! 」
「私も、ごめん! 」
二人が頭を下げる。居心地の悪い沈黙に雨音だけが響いていた。そういえば今日は風が強いと天気予報で言っていた。早く帰らなくちゃ。何故だかそんなどうでもいいことが菖蒲の頭を逡巡していた。
「いいよ。友達だもん、不満もあるでしょ」
全く働かない頭で放った言葉に二人は安心したらしく、露骨に表情を緩める。
「菖蒲ぇ~! 優しすぎるよぉ~」
「そうだよ! 菖蒲はもっと怒ってもいいのに! 」
一体どの口が言っているのだろう。先ほどまでのやり取りが反芻される。
ああ、そうか。人とのつながりというものは思っていたより軽薄なものなのかもしれない。中学三年生にして、菖蒲はそう気が付いた。わかってしまえばどうすればいいのかはわかりやすい。この薄っぺらい関係を卒業するまでなんとか壊さないように続けること。それが、菖蒲が生存するために自分に課したミッションだった。
「ええ~。じゃあ、今度アイスでも奢ってもらおうかなあ」
「え、そんなことで良いの?! 全然奢るよ! 」
「私も私も! 」
菖蒲のからかうような声に、完全に許されたと思ったのか二人ははしゃぐような声で答える。そのあまりの軽薄さが可愛く思えてきて、思わず笑ってしまった。
「そしたらさあ、もうこの後行っちゃう? 」
「いいねいいね! 外土砂降りだけどショッピングモールなら関係ないし! じゃあ行こ行こ! 」
「そういえば私達、ノート出さないといけないじゃん! 」
「そうだった! ごめん菖蒲、ちょっと待ってて! 」
わかった、というと二人は慌てたようにパタパタと教室を出ていく。一人になった空間には沈黙だけが置かれていた。
よかった、と言えばいいのだろうか。あのまま関係がこじれて元に戻らなくなってしまうよりはよかったのだろう。陰口を叩かれていたのはショックだったが、あの様子だと一過性のものだろう。なにせこの年頃の女子は何かにつけて人を批判したがる生き物だ。今日はターゲットがたまたま自分だっただけ。そうだ、大したことない。なんてことない、当たり前のことだったのだ。なんら心配することは無い。明日からもいつも通りの日々を続けていけばいいだけ。それだけ―。
気が付けば涙が頬を伝っていた。制御しようのないそれは拭っても拭っても溢れてくる。
嫌だ。こんなことで泣いていてはあまりにも女々しくて惨めじゃないか。だが、痛かった。心が痛がっていた。
陰口を叩かれたことそのものに傷ついたわけではない。ただ、自分のことが嫌いになりそうだった。張り切っていた自分。指揮者という役割に誇りを持っていた自分。それらは全て、「可哀想」の一言で済まされてしまう程度のものだったのか。頑張っていた自分の方が異常だったのか。それなら、それなら。
「普通になりたい」
口を突いて出た言葉は誰にも拾われない。
はずだった。
「あれ、どうしたの? 」
その時のことを菖蒲は一生忘れないだろう。現に今も鮮明に思い出すことが出来る。菖蒲という人生の中に初めて生まれた、名前のない感情。
泣いているのを見られたくなくて、菖蒲は慌てて目元を拭って答える。
「あ、えっと……。私は置き傘を取りに来たんだ。思ったより降ってきちゃって。そっちこそどうしたの? うちのクラスじゃないよね」
「ああ、いや、さっき二組と三組でここで合同授業やったじゃん? そのときにペンケースを忘れちゃったみたいで、取りに来たんだ」
「なんだ、お互いここに忘れ物してたんだね」
今の自分はちゃんと笑えているだろうか。泣いていたことを悟られてはいないだろうか。そんな焦りばかりが頭を埋めつくす。すん、と鼻をすすると、彼は心配そうにこちらを見て言った。
「それより、大丈夫……? 泣いてた、よね? 」
「え? 」
「あ、いや、ここに来たのは偶然なんだけど……。さっき泣いてるのが見えたから。あ、そのごめんね! 泣いてるところ見られるとか嫌だよね! 」
そのあまりの慌てようについ笑みがこぼれた。
「知ってるよ」
「え? 」
彼は驚いたように目を見開く。
「あなた、高野修二君でしょ? 」
「え、どうして名前を」
「だって、有名だもん。勉強もできて、スポーツも万能。体育祭ではリレーのアンカーやってたよね」
「ああ、覚えててくれたんだ。まあ、そんな大したことでもないけど」
そう謙遜する姿が、なんだか先ほど泣いていた自分と重なる。気づいたときには言葉が口を突いていた。
「大したことだよ。自分の持ってるものを過小評価する必要なんてないと思う。自分の誇らしいところはもっと表に出さなきゃ。」
「え、ええっと……ありがとう」
そこで菖蒲は我に返った。まずい、ちゃんと話すのはこれが初めてなのに、引かれてしまっただろうか。ついさっき、そのような熱いところを自省したばかりだというのに。
「あ、ごめんね。いきなりこんなこと言われてもわけわかんないよね」
今度は菖蒲がしどろもどろになって謝る。しかし修二はまっすぐな瞳をこちらに向けて笑った。
「いや、ありがとう。なんだか自信湧いたよ。」
よかった、引かれたわけじゃなかったのか。安堵するのもつかの間、修二はこちらに問う。
「それで、何かあったの? 今も少し辛そうだよ」
流れたと思った話題が戻ってきたことに内心動揺しながらも、菖蒲は何でもないことのように答える。
「ああー……。いや、えっと、そのー。何でもないよ! よくある人間関係のいざこざっていうのかなあ。ほんと、女子って面倒くさいよね。私もちょっと頭固いところあるから……。」
なぜ嘘を吐いたのかはわからない。完璧な人間を前にして、自分が未熟な人間であると見抜かれたくなかったのだろうか。この期に及んで見栄を張りたがる自分に辟易しながら笑うが、修二は真剣な顔つきのまま言った。
「でも、僕はそんなことないと思う。さっき言ってくれたこと、すごく嬉しかったし。もしそれで君が誰かに傷つけられたとしても、気にすることないと思うな」
あまりに真剣に言うので、菖蒲は驚いて少し黙り込んでしまった。雨音が響く。先ほどとは違ってこの沈黙はなんだか心地いい。そう思えた。
「そっか……、そんな風に言ってくれるなんて、嬉しいなあ」
「って、僕の方こそ偉そうなこと言っちゃって、ごめん。じゃあ、僕はこれで」
「っあの! 」
出口に向かって駆け出していく修二の背中を止めたのにはこれといって理由はなかった。ただ、一言だけ言いたいことがあった。
「ありがとう! 」
その言葉に修二はきょとんとした後、眩しいくらいの笑顔で言った。
「こちらこそ! 」
それが、初恋の始まりだった。




