第73話 恐怖 氷室視点
俺はガタガタと震える足で、寝室へと向かった。1歩1歩が確実に重い。それでも、俺は行かなければならない。逃げ場なんてない。
「…………。」
寝室のドアを開ける。
……やはり、カーテンは膨らんでいた。
いつ入ってきた?俺は少しも気付かなかった。もしかしたら日常で気付かぬうちに『見えてはいけないもの』がいたかもしれない。そう考えると怖い。
別のことを考えないと気が狂いそうだった。この部屋には俺以外誰もいない。静寂がただ広がっているだけ。正直、あの黒目を思い出しただけで後ろを振り向きたくない。息ができない。
俺はそっとカーテンに手をかけた。
ああ、ダメだこれ。絶対中にいるな。いないとどこかで信じていた気持ちは消え去った。
どこかでピ、と音がした。小型の機械をポケットにいれたままにしていたんだっけ。
しかし音は少しずつ大きくなっていった。いつもと鳴り方が違う。これはどういう意味だ。
音が小さくなった瞬間、俺は目を強く閉じて一気にカーテンを開けた。
恐る恐る目を開ける。
「ア」
耳元で、声がした。
『見えてはいけないもの』がこちらをじっと見ている。
終わった。
俺は記憶にある高原英美さんを必死に思い出す。打ち勝ってない。これはこれのままだ。
景色が変わった。いつしか、『見えてはいけないもの』の真っ白な服に、真っ赤な血が流れていた。瞬きをするたびに、その血がポタポタと床に落ちる。グロい。
「アァ……ア」
それが、こちらに一歩近付いた。俺は一歩後ろに下がる。
『見えてはいけないもの』に包丁が刺さっていた。
僕が認識してから、それほど時間は経っていない。
俺は手を伸ばす。
……本物だ。幻覚なんかじゃない。
「あの、この包丁抜くのと刺さってるのどっちが痛いですか?」
以前、推理小説で包丁は刺さっているほうが血が流れないと読んだことがある。もう死んでいるから意味はないかもしれないが。
「ア…ア」
「………」
会話やめたい。
いつ俺は狩られるのか分からない。むしろ今すぐ終わりという可能性もありえる。
『見えてはいけないもの』がニヤリと笑った。
俺は本能で危険を察知する。それと同時に小型の機械が大音量で鳴る。
俺は口を開いた。
「貴方は何も悪くないです。」
それの動きが止まった。
「俺なんかが何か言って響くくらいならこんなに苦しんではいないとは思うのですが、俺が言いたいから言います。貴方に死んでほしくなかった。」
言葉がすらすらと出てきた。今何か言おうとしたのは事実だったが、事前に考えたことは黒目に吸収されたように、頭から吹っ飛んでいた。
「自分ではほかの人と同じ感覚だって思ってても、実はそうじゃない。話の通じない人にはいつまでも通じないし、自分が全てだという人の認識が変わることもほとんどない。自分が誰かを傷つけても、傷つけられても、俺たちは気付かない。たとえ気付いたって、できることなんてない。」
『見えてはいけないもの』はとりあえずというように俺の話に耳を傾けていた。笑ったままで。
「だから、俺は貴方に復讐をしてほしいと思います。できるだけ相手が苦しむように。貴方の辛さは、年月が経ったから、知る人がいないから、という理由でなくなっていいはずがない!俺が言っても意味はないかもしれませんが、貴方は正しいです。今、その姿で何をやってたって、俺は自信を持ってそう言えます。」
俺は少女Eの日記を思い出す。
「……相手のことをどれだけ憎んでいたって、包丁を向けられるのはいつだって怖いですよ。少なくとも俺は怖いです。想像しただけで足がすくんで動けませんし、信じたくありません。広めるのに人がいなかったら、代わりに俺が広めます!
……とにかく、俺は貴方には価値があると思う!抽象的だけど、心からそう思います。死んでほしくない!いなくなってほしくない!」
それは、なんだかおかしな動きをした。手でお腹あたりを指さすような、まだ体に慣れていないような。
………包丁?
抜け?抜けってこと?
合ってなかったら俺は今度こそ終わる。包丁の柄を掴む。目をぎゅっとつむって、俺は一気に引き抜いた。
ズ、と音がする。小型の機械はもう鳴っていなかった。
血が一滴、腕を伝った。そしてまた一滴と、止まることを知らないかのように真っ赤な血が流れだした。
『見えてはいけないもの』はひざを折った。お腹のあたりを手で触る。
見上げた。包丁を持つ俺と目が合う。
怖かった。正直、逃げ出せるなら今すぐにでも出ていける。…それでも、その目には恐怖と、哀愁と、歓喜が滲んでいたように思う。その黒目はぞっとするほど冷たかった。そして辛かった。
『見えてはいけないもの』の手がまた動く。
今度は……刺せ?
包丁を持つ手が震えた。どうすればいい?何が正解だ?
よく分からない。頭が霞んでいる気がする。だから従うことにした。
深呼吸をして、胸の、心臓のあたりに刺した。思ったより深く刺さらなかった。
『見えてはいけないもの』が笑う。唇の端からは血が流れた。
それは後ろに倒れて、窓に頭が当たって、それから動かなくなった。
(……これで終わった?)
何が解決した?俺は震える拳を握る。
「……あの」
「え?」
目の前で、声がした。俺は困惑する。
そこには、15歳ほどの少女がいた。




