第72話 氷室視点
「………これが、僕の知っていることだよ。」
泉さんは淡々とした表情で答えた。しかし、その目には憂いが滲んでいるようにも見える。
「……ありがとうございます。」
「何か氷室くんの役に立ったら良いな。昨日…いや、12時から4時の間に起こったことについて、もっと詳しく説明してくれる?」
「はい。」
僕は今日の様子を思い浮かべた。
「浴室のドアを開けたら、401号室の三澄さんにもらった小型の機械が鳴ったんです。それは危険度が高いほど大きな音がなるようで、そのときにその音が響き渡りました。そして、浴室には…見えてはいけないもの、がいました。」
「うん。それで?」
「突然近付いてきて、あと少しで触れるというところでなぜか俺の体は寝室に戻りました。困惑して、寝室を出てもう1度浴室に向かおうとしたのですが、一度助かったからには今日はもういい、と思って戻ろうとしたところ、後ろに『見えてはいけないもの』がいて、ついでに入居条件の追記の部分を思い出したんです。」
「……うん。でも今氷室くんは生きてるよね。つまり助かったってこと?」
「はい。」
俺は息を吸う。
「何を言えばいいのか分からなくて、どうすればいいのか必死で考えていました。そんな時、包丁が目に入ったんです。気が緩んだからか、『痛かったよな』と口に出したところ、『見えてはいけないもの』は少し笑って消えました。」
「…なるほど。それで今に至る、というわけか。ありがとう。」
泉さんはゆっくりと顔を上げた。
「……英美は、『見えてはいけないもの』の自我を少しずつ乗っ取ってきてるのかもしれないね。」
「自我を?」
「英美が最後に僕に言ったのは、そういうことを目指している、ということだった。……まあ、それから一度も会いに来てはくれなかったけどね。
何が言いたいかというと、今の『見えてはいけないもの』は、言葉が通じるということだ。」
「あ……確かに。心に響くようなことを言えば、何かが上手くいくかもしれない。」
「上手くいかなかったら消えるけどね。」
それもそうだ、と思った。
「それでも、とりあえず今日も『見えてはいけないもの』と戦います。」
「そっか。何を言うかは考えた?」
「はい。」
俺は嘘をついた。それは部屋に戻ってまた考えようと思った。
「うん。…僕としては、氷室くんが成功しようが失敗しようがやることは変わらない。だから、頑張ってとしか言うことができないけど……明日、君の正常な声が効けたら良いと思う。じゃあ、頑張って。」
「ありがとうございます。」
俺はそう言うと泉さんの部屋を出た。
空は曇っていて、空だけを見れば時間なんて分からない。濃淡のついた、はっきりとした雲が集まっている。
最近はすごく寒くなってきた。そして謎にもすごく近付いてきた。
僕は白い吐息を吐いた。
□
時の流れは速い。今は夜12時過ぎだ。
どうやって対応するべきが悶々と考えていたが、一向に思いつかない。それでも、なんとなく言うことは決めた。
懐中電灯のスイッチを入れる。
「………?」
何か違和感を感じた。
俺は自分の足音を聞きながら、浴室の扉に手をかける。
……そういえば、いつもはある赤い光がない。
開けたら目の前にいるなんて俺は嫌だぞ!嫌だ!
俺は足元を見てドアを開けた。
………そこには、暗闇が広がっているだけだった。
ああ良かった。ここで対面はしなくていいのか。
なんかフラグを立てた気がする。
俺はドアを閉めた。そして考える。『見えてはいけないもの』が今どこにいるかを。
そして、俺は違和感の正体に気付いた。体が小刻みに震える。
………『見えてはいけないもの』は今、寝室の膨らんだカーテンの後ろにいる。




