第1章:朝、鏡を見て私は驚く
朝日がやわらかく窓辺に差し込んできた。弘子は目覚め、しばらくぼんやりと天井を見上げた。雲一つない青空が広がっている。どこか懐かしい空だった。
「今日は何日だろう」
弘子は起き上がり、ベッドの横にある時計を見た。数字は確かに示されているが、何だかよくわからない。時計の針は動いているのに、時間が経つのを実感できない。
弘子は手を伸ばして、鏡に向かって髪を整えようとした。鏡に映った自分を見ると、彼女は驚いた。
「あれ?私……若い?」
鏡の中に映るのは、三十代半ばの自分だった。髪は黒々としていて、肌にハリがあり、眉間にはしわ一つない。
「どうして?」
弘子は自分の顔を何度も見返した。まるで時間が逆転したような感覚だった。昨日のことは何かぼんやりしているけど、二十年前のことはなぜか鮮明に思い出される。
「そういえば、今日はタカシと待ち合わせの日だった」
弘子は微笑んだ。鏡に向かって、自分の顔を触ってみた。温かい。生きている実感がした。
しかし、その瞬間、部屋の隅に置いてある写真立てが目に入った。そこには、老いた自分の顔が写っていた。
「この人は……誰?」
弘子は首をかしげた。写真の中の自分は年を取っていて、目元にしわが寄っていた。
「私も、この人も、私なんだけど」
弘子は困惑しながらも、自分の服装を整えた。洋服を選ぼうとタンスを開けると、中には古い着物や、若い頃の服がたくさん入っていた。
「今日は、このワンピースを着よう」
弘子は手に取ったのは、紺地に白い水玉模様のワンピースだった。タカシが好きだった服だ。袖を通すと、どこか懐かしい香りがした。それは古い香水の名残なのか、それとも、彼のアトリエに漂っていた絵の具の匂いだろうか。
部屋を出ると、リビングにはいつものように朝日が差し込んでいた。テーブルの上には、新聞と薬のパックが置いてあった。弘子は薬のパックを見て、眉をひそめた。
「これ、何だっけ?」
薬の名前や飲み方が書いてあるが、弘子には何も頭に入ってこない。
「まあ、いいや」
弘子は薬のパックをそのままにして、玄関へ向かった。
「おはよう、弘子さん。今日もお元気ですね」
隣の佐伯さんが玄関でポストを開けながら声をかけてきた。
「あら、佐伯さん。おはようございます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
弘子は「いってきます」と言うのを忘れ、家を出た。外は春の陽気で、桜の花が咲いていた。弘子は歩きながら、空を見上げた。
「今日はいい天気ね。タカシも喜ぶわ」
道行く人々は、弘子を不思議な目で見る。彼女の服装や言動が、周囲とは少し浮いているように見えるのだ。
弘子は気にせず、歩き続けた。目的地は駅前の時計台。タカシとの待ち合わせ場所だ。
「遅くなっちゃったかな……」
弘子は急いで歩いた。足取りは軽く、心は若い頃のままだ。