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ツバメ

 彼女は全く喋らなかった。

 そして音をたてずにひらり、ひらりと動いて小屋に秩序をとりもどした。


 まるで黒いツバメのようだった。低空で飛んできては、あっという間に遠くに飛び去り、気づくとまた隣を飛んでいる。音は立てず、気配もなく、それでいて目を離せない存在感があった。


 名を聞いてもクラーラとしか言わなかった。

 女性をファーストネームで呼ぶわけにいかないと家名を聞いたが彼女は知らないと答えた。


「私は幼い時に両親が死に、親戚に引き取られました、そして次の親類、また次の親類と連れて行かれるうちに、養子にもらわれたのか、働き手として引き取られたのか分からなくなりました。ここに来る前は奉公人のように働いていました。だからそこは家族でないので、家の名前は名乗れません」


「では両親の姓を名乗ればよい」

「あまりに幼かったので覚えていないのです」


 仕方がないので彼女をクラーラと呼ぶことにした。

 それにしても、彼女はあまりに喋らない。静かなことは良いことだが、どうして口をきかないかと尋ねてみた。


「喋ると怒鳴られたり、殴られたりしたので黙って仕事をします」

 黒い瞳は笑いもせず、泣きもせずに言った。


「私は君が何をしても、怒鳴ったり殴ったりしないと約束しよう。それから君にも約束してもらいたいことがある」

 彼女は何かとマルクを見上げた。ツバメは小さな女性だった、背の高いマルクは黒曜石の瞳を見下ろした。


「私は顔が良いので触りたくなるだろう。けれど、けして私に触ってはいけない、もし触ったら解雇する」

 彼女は何度か瞬きすると、ふふっと笑った。

 それを見た時、何か小さな音が胸の中で聞こえた気がしたが、すぐに消えた。


「はい、かしこまりました旦那様」

「旦那様という呼び名は曖昧(あいまい)で好まない、ギーツェンと呼んでくれ」


 彼女が来るようになって、毎日は順調に流れ出した。


 彼女の作る食事はとても体に合った。濃い味やスパイスを嫌うことをすぐに理解して、薄いお茶をいれてくれた。午後の3時の休憩には、なんと菓子を焼いてくれた。香り付けの酒や香辛料が嫌いでいっさい食べられなかったのに、小麦と卵と砂糖だけのクッキーを焼いてくれた。


「こんな甘くて美味いものを初めて食べた」

 クラーラは何も答えなかった。


 そこで、午後の3時の休憩は一緒にとることにした。きっかり15分、その間だけ喋ることにした。

 不思議な事だが、あれほど苦痛だった会話を自分から望んだ。

 あまりに彼女が喋らないので、純粋に声が聞きたかった。彼女の声は心地が良かった。


「ギーツェン様はにこにこします」

「そうか私はにこにこするか」

「ユリアン様は、あなたはとても気難しいと(おっしゃい)いました。けれど私をよく見てにこにこします」


「君に私が今日作った曲を聞かせてやろう」

 マルクが初心者向けの、重音練習の曲を弾いてみせた。


「まあ可愛い」

「どこが可愛い」

「ここです、ソミド」

 可愛いなどと、音楽に対して全く無知な返事だった。けれどそれ以来、クラーラがどこを可愛いというのか知りたくて、曲ができると弾いてみせた。


「ゆるぎのないものです」

 クラーラはある日マルクの曲を聞いてそう言った。

「風のように、陽の光のように、朝露のように、消えてなくなる形のないもの、けれどギーツェン様の音はゆるぎないもの」


 彼女は精霊の音を聞くことはできない、音楽を理解することもできない、しかしすべての本質を知っている。

「君にピアノを教えてあげよう好きな曲を1曲選んでごらん」


 クラーラは週5日家事をして、土曜日に買い出しに行く、そして荷物を小屋に届けたら、そこから後の土曜日午後と日曜日は彼女の休暇にしていた。

 買い出しが終わった土曜日の午後、彼女に30分だけピアノを教えることにした。


 ユリアンが訪ねてきた。

 彼女とは上手くやっているかと聞くので、毎日とても心地が良いと伝えた。


 彼女はツバメのようにひらひら飛んで、いくら見ても飽きないし、声は鈴を鳴らしたようにいい音だ。よく働いて静かなだけでも満足なのに、好みの菓子まで焼いてくれるので毎日一緒にお茶を飲んでいる。いいメイドだ、ずっと彼女にいてもらいたい。


 こんなに一度に喋ったことはあったろうか、次々と彼女の話が口から飛びだした。

「これは驚いた。長年友人をしてきたが、君の笑顔を初めて見たよ。なあマルク、彼女を妻にしたらどうだい?」


 ユリアンは不思議な提案をしてきた。驚いて気持ちがザワザワと乱れた。この感覚が大嫌いだった。

 私の秩序を乱すもの。

 感情が大きく動くのはひどく苦痛だ。ああ嫌だ、ザワザワする。とても嫌だ。


「何故彼女を妻になどしなければいけない。妻にしたらメイドがいなくなる。メイドがいなくなったら困るだろう?」


「妻になって家事をしてもらったらいいじゃないか」


「メイドはメイド、妻は妻、それは別物で彼女は2つを兼ねることはできない。メイドがいなくなったら私は困る。だから私はクラーラをぜったいに妻にしない」


「おまえ本当にそれでいいのか? 後悔しないのか? メイドだったら触ることはできないぞ」

 今日のユリアンは不可解なことばかり言う。

 どうして彼女に触る必要があるのかマルクには分からない。


「彼女を抱きしめたり、唇にキスしたり、耳たぶを噛んだりできないんだぞ?」


 耳たぶを噛む?


 (なぞ)の言葉を残して、ユリアンは帰ってしまった。

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