辞めてしまったミセス・シリング
メイドのミセス・シリングが辞めると言う。マルクは困ってしまった。
明日からいったいどうやって暮らしていけばいいのだろう?
王立精霊音楽研究所を退学になってから、8年の年月が過ぎ26歳になった。
森の中の小さな小屋で、マルクは毎日曲をつくる。
決まった時間に起きて、決まった手順で顔を洗い、決まった服を着て、そしてメイドが用意した朝食を食べる。それからピアノの前に座り、ひたすらに曲を書いた。
ピアノ奏法に必要な技術を体系化し、細分化し、秩序よく並べ、それらを身に付けるための小さな1曲を作る。練習曲だからと言って妥協しない。メロディーは美しく、弾く者を楽しませなければ意味がない。
初心者、初級者、中級者、上級者、そして超絶技巧と、作るべき練習曲は緻密に整理していくと、とほうもない量の曲が必要だ。すべて作曲するのに20年、いや30年はかかるかもしれない。
マルクは作業に没頭して月日を過ごした。
「ギーツェン様、わたしゃ膝が痛くてね、この町外れまで歩いて通うのがもう無理なんです。すみませんが新しい人を雇ってくださいな」
60代のメイドのミセス・シリングは週6日通ってきて、マルク食事を作り、家事全般と必要な物の買い出しをしてくれる。
マルクはベッケンバウアー先生から、仕事の報酬をもらっているが、金の使い道もないので、最新式の家事魔道具を購入して、彼女の労働が軽くなるようにしていた。しかし、膝の痛みはマルクにはどうにもしてやれそうになかった。
8年世話になったミセス・シリングは去り、代わりに彼女が紹介してくれた新しい女性メイドがやってきた。
彼女はとにかくうるさくて、仕事に集中できない。すぐに話しかけてくるのが我慢ならなくて即解雇した。
次の女性は、静かに働いたが、マリクの秩序ある生活を乱す。順番を覚えない、物の位置を変える、しまいには絶対に触るなといいつけた楽譜の整理を始めた、我慢ならない、即解雇。
それから雇った若い女性達は、同じ問題を繰り返し起こした。うるさいか、秩序を乱すか、そのどちらかに加えて、もう一つ我慢ならないことをマリクにしてくる。
なんでか知らないが、やたらと触ってくるのだ。さりげなく、そのうちベタベタと肩に顔にと不愉快極まりない、中には帰らず泊っていくと言い出す女性もいる。即解雇、解雇、もう誰も雇いたくない。
家の中はあっという間にぐちゃぐちゃになり、買い出しに行かないので食料は尽きた。家事魔道具の使い方はわからず、どうにかしようと何かすると、守ってきた秩序が乱れて、恐ろしいほどの不快感に襲われた。
ミセス・シリングが静かに支えてくれていたマリクの秩序ある生活は失われ、途方に暮れた。
彼はピアノを弾くのと、作曲する以外には全くの能無し男で、自分の世話も満足に焼けないのだった。
唯一の友である「精霊の口」をもつ魔法使いのユリアン・ゲルバーがやって来て、散らかった床に空腹で倒れるマリクを発見した。彼は物をかき分けて場所を作ると、奇跡的に食べ物を見つけ出してマリクに食べさせた。
「いったいどうしたんだい、このありさまは?」
人間との交流を極限まで減らしているマリクを気にして、時々様子を見に来る友人は、心配そうに聞いてくれた。マリクは長年通ってくれた素晴らしいメイドが辞めてしまい、その後起こった無秩序の苦痛について語った。さらに女性達が触ってくる、不思議な現象についても伝えた。
「それは気の毒に。知らないようだが、君は美男子なのだよ、それもちょっと普通ではお目にかかれない、とびきり上等の顔なんだ」
ユリアンは茶葉が見つからず、白湯を飲みながら少し笑って言った。
「それが女性が私に触ることと何の関係があるのだ?」
「あるんだ。顔が良いと触ってくるんだ。君には理解が難しいか」
さっぱり理屈がわからなかった。
「こういうことだ。美しいメロディーを聞いたとしよう。君はピアノで弾きたくならないか?」
「なる」
「それと同じだ、若い女性は顔の良い男を、ピアノを弾くように触りたくなるのだ」
「そうなのか。それでは私の顔を何とかできないだろうか、何かを塗りたくるとか」
「それは難しい。ならば老いた女性を雇うといい」
「それが、ミセス・シリングのように辞められては困る」
ユリアンは誰か良さそうな人を探してみようと請け負って帰った。
それから数日後、扉を叩く音がしてマリクは空腹にふらふらしながら戸を開けた。
「やあマリク生きていたか?」
ユリアンの後ろに1人の女性が立っていた。
肩でそろえられた黒髪は、陽の光を受けて輪を作って輝いている。
「彼女はクラーラさん。君が希望した通り21歳と若いから膝はいたって健康だ。今日からここで働いてくれる。何か問題があれば、彼女も君も私に相談してほしい」
ユリアンが去ると、クラーラと紹介された女性は深く頭を下げた。そうして、物が散乱した室内を扉越しに見たのだろう、目が大きくなった。黒い瞳は黒曜石のようだ。
「よろしく頼む」
マリクが声をかけると、彼女は返事をせずにもう一度ペコリと頭を下げた。