完璧な秩序
マルクが初めて彼の愛しいツバメを見たのは、優しい光が森にふりそそぐ、ある日の午後だった。
友であるユリアンの背中に隠れるように、心配そうにこちらを見つめる黒い瞳と黒い髪の女性。
彼女からは、何の音も聞こえなかった。
◇◇◇ ◇◇◇
マルク・ギーツェンは神童と呼ばれて育った。
精霊音楽師のヴァイオリン奏者の息子として生まれた彼は、3歳で精霊の声を聞いてピアノを弾いた。
7歳で初めて作曲し精霊演奏を成功させた。
10歳になると、国の最高峰である王立精霊音楽研究所に招かれる。
世紀の大天才とうたわれる『ベッケンバウアー』の弟子となった。
華々しい精霊音楽師としての、マルク・ギーツェンの人生が幕開いたのである。
精霊音楽師とは、生まれながらに『精霊の耳』を持つものだけがなれる。
この世界を支配する魔法の理に触れることができる者には3種類の人々がいる。
『精霊の口』をもつものは、呪文によって魔法を操る。
『精霊の目』をもつものは、魔道具を作る。
そして『精霊の耳』をもつものは、精霊の音楽を奏でる。
その音色は人々の心に届くと、安らぎをもたらす。人々は争いを止め、音の喜びに満たされる。精霊音楽は戦争を止め防ぎ、この国を平和に保つ役目を担う。
精霊音楽を作曲し演奏する者達、それが精霊音楽師なのだ。
ベッケンバウアーの指導の下、マルク・ギーツェンは努力を重ね、超絶技巧を身に付ける。さらに次々と作曲し、すぐに世間で認められる存在となった。
精霊音楽師のオーケストラと自作の協奏曲を披露する少年マルクのピアノ演奏は、行く先々で大絶賛をあびた。
しかし、マルク本人はその名声とは裏腹に、常に苦しみの中に生きていた。
彼は生まれると同時に音の海に放り込まれ、荒波の中でもまれ続けた。
音の中で溺れそうになりながら、時に息をするのも苦しいほどだった。
音は彼の全てで、音を鳴らすものは音階でできており、その規則正しい秩序の向こうに、精霊たちの素晴らしい声が聞こえた。
マルクが一歩外に出れば、音の洪水に飲み込まれ、この世と精霊の世の堺が曖昧になり、自分がどこに入り込んでしまうのか分からなくなる。しまいには、自分の体と世界の堺も曖昧になり、自分が消えてしまいそうになった。
音の海で生きていく唯一の方法、それが秩序。
決まった時間に、決まった手順で、決まったことをする。
人はそれを、ギーツェンのおかしなこだわりと呼んだが、マルクは秩序ある生活をすることで、己を守って生きていた。
マルクを最も苦しめたのが人とのやり取りだった。
王立研究所へ通うとき、同じ場所を踏んで、同じリズムで歩いて、寄り道を一切しないで建物に入る。その途中で挨拶されても、応じるのは無理だった。
慣れない人と話すには静かな場所で一対一になり、さあ話すぞと心の準備ができなければ言葉が出なかった。
懸命に言葉を選び、誠実に対応しようと心掛けたが上手くいかないことが多かった。
「おまえのせいで弟子がやめたぞ。どうしてあんなひどいことを言うのか」
兄弟子に思ったままを口にしてはいけないと、くり返し注意を受けた。
しかし、思ったこと以外を話すことなど、どうやったらできるのだろう? 他の者達の会話はどうやって成り立っているのか、マルクには全くの謎だった。
ベッケンバウアー先生は素晴らしい方で、音楽の本質を教えてくれた。
精霊音楽はまるで万華鏡のようだった。
色や形が対になり、映し合い、それでいて全くの別ものになり、無限の組み合わせを見せたかと思うと、永遠の決まり事のように繰り返し、そしてまた新しい姿を現した。
混沌でありながら、完璧な秩序で並ぶもの、それが精霊の声として全身に響く。
マルクは精霊音楽の世界にさえいれば、他に望むものはなかった。