08
その週末、カイトはリトに手をつながれて扉の前に立っている。
眉間にはくっきりと皺が寄っていて、ここに来るのだと解ってから何度もリトを睨みつけたのに、その視線をリトは涼しい顔で流し続け、逃げようとしたカイトの手を握ってここまで辿りついたのだ。
「いやだ」
「無関心になれない?」
「──────っ」
解っているくせに、と言葉を飲み込む。リトはそのカイトを一瞥して迷わずインターフォンを押した。
開いた扉を確認して、リトは無言でカイトの背を押し中に押し込む。
驚き目を丸くしたカイトは中から引かれ、ばたん、とリトを廊下に残したまま扉が閉まった。
内と外、切り離されたように感じたのはカイトの方だ。
「大丈夫。大丈夫よ、カイト」
扉に手を当てリトは言い、そっとその場から離れる。一度振り返ろうと足を止めたが、彼女は振り返らなかった。
「すまん」
謝罪はいくつも聞いたカイトだったが、頭を下げられたのは初めてでただ瞬いてその場に立ちすくんだ。
「な、にが?」
じっくり考えてもこれしか言葉が思いつかず言えば、巽がカイトを一人掛けのソファに座らせる。巽はその正面に床に直に座った。
いつもはここに巽が座り、その膝に向かい合わせ、もしくは背中を預けてカイトが座るなんて事が多くあって、体躯のいい巽にもゆとりがあるソファでもどこか窮屈だった事をカイトは思い出す。
何も話さなくても、何もしなくても、あの時間は不思議と愛おしかった。
カイトの幸せな思い出だ。
「突然、リトに頼んでこんな事をしたことも」
区切られてカイトはまたゆったり考え口に出す。
「……も?」
「平等である事を、認めなかったことも」
「平等……?」
カイトは平等と言われて首を傾げた。
「お前が俺に夢中で、俺はお前よりも上でお前は俺より下で、つまりは、俺がいつだって誰より優位だと思っていたんだ」
優位と繰り返すカイトの目は困惑色。揺れる瞳には嫌悪もなにもないけれど、無関心の色ではなくて巽はらしくもなく安堵の息を吐く。
今逃げられて捕まえる自信が、彼にはない。
「俺はいつも振る側、好き勝手する側。恋人を甘やかすのも優しくするのも愛しているから」
ここで揺れていたカイトの瞳が見開かれた。拒絶と嫌悪。カイトの足がソファに上がる。
「愛してるから、たしかに優しくした。他のやつよりも。でも俺の方が優位だから、なにしても構わないと思っていた。俺と付き合えるんだから、ってな」
ソファの上でカイトは膝を抱くように座り直す。『自分の空間に入らないで』と無意識に、そして暗に言った。
「最低な奴だろうが、本気だったんだぜ。まじで、そう、思ってた。いつも遠巻きに、カッコいいだの怖いだの、好き勝手言ってるくせに俺が構えば男も女も手のひら返しやがる。俺がどんな人間か知る事もなく、知ろうともせず、付き合えた、抱いてもらえたって尻尾振ってよォ。俺って外見を持つ人間となにかしらの関係を持つ。それだけでいいんだ。やつらは結局のところ自分が満足すればいい、そのために尻尾を振りやがる。面倒クセェ」
巽は子供の時からそうだった。カイトやリトもそうだけれど、巽はまた少し違う側面でもそうである。
だからといって歪んだ思考を持つ事が当然、とは思わないカイトだけど。
「向こうがそうならこっちもだ。相手の事なんて関係ねぇ。俺の好きに拾って捨てて。縋る相手に捨てる俺。ほら、どっちが優位かなんて一目瞭然だ」
目線は巽を捉えているが膝を抱えたままのカイトは口を開かない。考えているのか、口も開きたくないのか、巽には解らないからソファの前に胡坐を組んで座ったまま真摯な視線を変えなかった。
「お前に会った時、衝撃的だった。こんな綺麗な野郎がいるのかって。実はリトにあった時も驚いたんだ。最初は『俊哉が男と付き合ったのか』と思っちまったほどイケメンでな。それに俺に全く興味がないってあんな顔も初めてだったよ。そのうち、あの凛々しさと美しさは誰が手に入れるのかって、本当に俊哉が手にしたままなのか気になるほどに驚いた。でも、お前はそんなの軽く超えた」
巽は初対面のその時、バイセクシャルでよかったと思ったのだ。男を好きになるなんて、と迷わずに済んだのだと。
「初めて、こちらからアプローチしてるとか、面倒クセェ年下とか、今までとの違いを考えれば解ったのかもしれねぇ。ただ、俺は、麻痺してたんだ」
こてん、とカイトがまた首を傾げる。
カイトは何か聞いてみようと思っても考えているうちにどんどん新しい事を巽が話し出すから、口が挟めなくなってきていた。
唯一できたのが、首を傾げ「麻痺?」と無言で聞き返す事だ。
「恋人になったやつも、セフレも浮気相手も、みんな向こうから“なりたい”ってやって来た。お前の時は俺から“なりたい”と行った。俺の世界はそこでもう、別だったんだろうが気がつかなかった。お前が五回までと言った時も『俺に条件つけやがって』と思った。思っただけ。ただそれだけお前が俺に夢中なんだとも思った。だから別れるだの無関心だの言われて腹も立った。夢中だったくせに、と。でも本当は──────」
俺もお前に夢中だったんだ。同じくらい。
だから、ムカついたんだ。
まん丸の目で見つめるカイトに巽はゆっくり言う。
「いや、本来気持ちの大きさなんて調べる方法と比べる方法もないわけだから、ああ、そうだ、同じか解らないが、俺は夢中なんだ。今も、お前に、夢中なんだよ。自分で笑っちまう程に、未練タラタラで女々しくよ」
瞬間カイトの顔が赤く染まる。それは照れてなんかではなく
「っふざけ」
反射的だ。吐き出した。
「ふざけるなよ!なんだよそれ!意味解らないだろ!どれだけの気持ちでこっちが、五回までとかふざけたコト言ったと思ってんだよ!そうだよ、あんたに夢中だったよ!おれは、おれはこんな人間じゃなくて、もうムカつかないはずなのにっ!」
恋人、友人、母親さえ、思い出しても怒りなんて露わにしない。それがカイト。
巽は母親の事をカイトから直接聞き、腹が立たないのかと聞いたら「過去の事」と切り離した。リトに確かめれば無関心になったらカイトはああだと巽に教えた。
もし母親との事でカイトが無関心になれなかったものがあるのなら、影響が今も残っているものがあるとするならば、何もないテーブルの上、一つだ。
「藤春さんのことを、思い出すと、思うだけでも、ざわつくんだ」
言うとまた、心がザワザワと騒ぎ出す。カイトはそれを押さえつける術を知らない。
「ざわついて、ざわついて、おかしくなるんだよ!あの時こうしていればよかった。怒ればよかった。もっと、責めればすっきりしたのかって!どうしたら変わっていたのかなって!それなのに、なんだよ、なんでそんな事、今、今になって言うんだよ。このまま時間が経ちさえすれば、|今までと同じ《・</・rt><rp>)</rp></ruby>になったかもしれないのに!!!」
ぼたぼた涙を流して睨みつけて、浮気はやめてと言われた時もそれで怒った時よりも本気で感情を露わにするカイトに巽は息を呑んだ。
感情を表に出す。カイトは豊かにそうしてくれる。ただこんな風に心にガツガツぶつかるような事はなかった。そしてその姿を
(綺麗なやつだな、お前。マジで綺麗だよ)
と、巽は息を飲み込む。場違いかもしれないが、目を奪われた。
「姉さんも姉さんだ!何がスッキリするんだ!もっと腹がたつ。ひどい──────ひどいよ。なんでこんなことっ!ぐちゃぐちゃになった、だけじゃないか」
嫌だ、と呟いてカイトは膝に顔を埋めた。ひくひくと嗚咽を押し殺すカイトの手に巽が手を伸ばすと触れた途端弾かれる。そしてカイトはまた膝をぎゅっと抱えた。
「おれを、らくにしてよ。なんでこんなに、きもちがぐちゃぐちゃになるんだよ。しらないよ、こんなの、しらないよ」
ぐずぐずの声で漏らしたカイトを巽は抱きしめる。
暴れられるのを覚悟でやったがカイトはピクリとも動かない。
「俺に、責任を取らせてくれ。俺を、また好きになれよ。楽になるから」