07
最後の授業が終わるチャイムがなれば、放課後が始まる。
帰宅部のカイトは他のクラスの女子生徒たちに声をかけられ、好きなものは何かという質問に優しい笑顔で答えていた。
好きな野球のチームに選手、サッカーの選手や食べ物まで、請われるままに答え、きゃぁきゃぁという声に笑みを返す。
女の子には笑顔で受け答えをする方が良いのだと、どちらかといえばフェミニストな父親がカイトによく言ったからか、カイトは微笑み受け答える。
窓側、外を見ると校門が見える位置がカイトの席で、今日のように窓を開けていれば外の喧騒も聞こえてくる場所。
騒めきがいつもよりある気がすると、なんとなく視線を門へと移せばカイトと同じ制服の生徒たちが誰かを見ては何かを囁いているのだと知れた。瞬き遠目から誰だろうと思ったところでスマートフォンが鳴る。
リトの好きなバンドの音楽だ。リトからの着信であると教えてくれる。
「姉さん?」
「門のところまで迎えに来てるの、これる?」
「勿論!」
なるほどだからか、と姉が来ると騒がしくなる事と外の喧騒を一致させたカイトは女の子たちにごめんねと断ってから走って教室を出た。
急いで門まで走ると「カイト」と落ち着いた音色が彼を呼ぶ。珍しくコンタクトではなく眼鏡のリトは174センチの長身で、カイトの姉に違わぬ容姿だから名を呼ばれ嬉しそうに笑うカイトと並ぶと何処からかため息が漏れた。
「カイト、小腹がすいたりしてる?」
「ん、甘いものを食べたい」
「ファミレスで良い?」
「うん」
学校では見ない甘えた顔に振り返る生徒もいる中、リトはカイトとともに喧騒から離れていく。
ファミレスまではそんなに距離はないけれど、リトは早く話がしたい気持ちで急いてどこか急ぎ足になり、カイトはそれに不思議な顔でついて行った。
(なんだか、姉さん……どうしたんだろう)
いつもだったら放課後の予定を聞いてから迎えに来るのに、今日は順番が逆だ。隣を歩く事が多いのに今日は足早に目的に行こうとする。
一度だけ、俊哉と結婚したいのだと打ち明けた時もこうだったと思うカイトはまさか二人の間に何かあったのではないかと心がざわざわとしてきて、それを抑えるようにぎゅっと鞄を握りしめリトの背中を追いかけた。
学校近くのファミレスは広く、今は客もまばらだから好きな席が選べた。
リトは迷わず隅の席、近くに人のいない場所を選びカイトと座る。
カイトは何かを食べたいかと聞かれ、すぐに頷きその上甘いものを食べたいと反応したほどに食べたいと思っていたわけで、メニューから生クリームにチョコレートがふんだんにかかったポップオーバーを注文した。リトはただコーヒーを。
ファミレスに入るとカイトはいつもドリンクバーを頼む。お腹がタポタポになりそう、と言われるほどにコーヒーやジュースを飲むのだ。元を取ってやろうとかそういうわけではなくて、ただストローをかじって暇をつぶすよりもマシだと思っている。ようは何もないテーブルが物寂しいのだ。
幼い時の記憶のせいかもしれない。
「でも、寂しくない時も、あった」
「え?」
ポップオーバーがまだ来ないテーブルの上、リトのコーヒーとカイトのミルクを二つ入れたアイスコーヒーがある。
二つを見つめたままカイトはぽつりとまたこぼす。
「何もないテーブルも、寂しくない時もあったかなって」
あれはなんだっただろう、とカイトは考えた。
テーブルの下で手を組んで溶けていく氷を見つめて、からん、と音を立てた氷に思い出す。
「──────ぁ」
そして頭を振って追い出した。
(藤春さんだ)
寂しいから、と言った時、巽はにやりと笑って寂しいなら手を繋いでやると今みたいにテーブルの下で組んでいた手を見つけ出して、そのままテーブルの下で誰の目にも触れさせないままぐっと掴んだ。
テーブルに何もなくなると掴まれる手の温かさにカイトは寂しさを感じる暇がなかった。
(浮気者のくせに、俺の気持ちに寄り添って。俺の事、一番だとか言ってたくせに、嘘ばかりで。いつも、俺を、俺の気持ちを上げて落として……)
ポップオーバーがきたのにそれに気がつかないで眉間に皺を寄せたカイトを、リトはじっと見つめる。見つめるというよりも観察のようにもじっと。
「カイト」
そうして氷が殆ど溶けても動かないカイトを呼んで、カイトはくっと息を詰めてから漸くポップオーバーに気がついた。
「あ、きたなら、言ってよ」
「言ったわよ」
心の中で、と口には出さず付け加えるのは卑怯なリトで、言われたのに気がつかなかったのかとカイトは謝る。
(おかしい、無関心のはずなのに、もう、俺はなんとも思って、ない、はずなのに)
カイトは友達が友達ではなくなった時も、恋人が恋人でなくなった時も、母親がいなくなった時も、相手に無関心になれた。無関心のところからまた関係が変わる事はない。無関心になってしまえばもう、あの人は、あの子はどうしただろうなんて思わなくて、仮に相手との日々を思い出として心の中に取っておいていたとして、それが『良い思い出』でも『悪い思い出』でも、それらを思い出して心が揺れる事なんてなかった。
物語の様に「ああ、そう言う事もあったかな」と思うだけのものになったのだ。
こんな気持ちは初めてで、カイトはゆったり考えるなんて出来そうになくてフォークを手にしたまま動けない。
「カイト、いらない?」
「──────いるよ」
優しく聞かれてカイトはのんびり甘いクリームを掬う。
(甘い)
口に入れれば当然甘い。
皿に添えた手にクリームについたチョコが落ちて、カイトはチョコのついた指を舐める。
ぱくぱくと無心に食べていくカイトを眺めて、同じものを注文しようと思う人間はいないだろうとリトは感じた。
(美味しそうに見えない)
注文したから食べている。まるで義務のように消していくカイト。いつもなら同じものを、と言いたくなる笑顔の一つも見せるのになんとも難しい顔でカイトはただ一心に食べるから、リトはポップオーバーが砂で出来てやしないかなんてありえない事を考える。それほどに美味しそうに食べないのだ。
食べ終わってコーヒーを流し込んだカイトはグラスを握る。リトが視線で追えば「コーヒーをもってくる」と言って立ち上がった。
コーヒーと今度はガムシロップとミルクを持ってきたカイトは座ると直様二つを入れてストローでかき回す。そしてリトも驚くほどの深く大きなため息をついた。
「姉さん、辛い」
目を閉じたカイトは両肘をついて両手で顔を覆う。
「こんな気持ち、知らないんだ、俺」
「どんな気持ち?」
努めて冷静でいつもの自分でいよう、とリトは冷たい水の入ったグラスを両手で握りしめる。
「ムカつく」
それだけでカイトの言いたい事が解るリトは苦虫を噛み潰した表情だ。
(ああ、本当に、藤の野郎)
リトの爪がガラスのグラスを叩く。
「もう終わった人なのに、思い出すとムカつくんだ」
手に覆われた顔をリトは見る事が出来ない。声から想像するしか出来ないから、リトは辛かった。とても困惑して受け止められない気持ちに振り回されているのは紛れもなく、大切な大切な弟。
手の下の顔は泣きそうに歪んでるとそう、彼女は思う。
「言ってやれば、よかったのかな、とか、もっと──────五回目になる前に、いや、もしかして五回目に、言えばよかった?ねえ、姉さん、俺はどうしたらよかった?どうしたら、ねえ、すっきりして、そう……いつもみたいになった?いつもとなにも、変わらないのに。俺はどうしてこんなになっているの?」
カリ、と爪がガラスを叩く。
「カイト、すっきりしたい?」
絞り出した声が情けなくてリトも泣きそうだ。
「うん。どうしたらいい?もう、本当に解らないんだ」
けれどカイトは目に涙すら浮かべているから、リトはいつもの姉の顔に戻す。
「すっきり、しようね、カイト」
「助けて、姉さん」
「うん大丈夫、私が──────私がいるから。大丈夫よ」
昨日俊哉に言われた言葉を、今度はカイトにリトは言った。