★ simmer:01
可憐な色の花びらを散らして春の終わりを教えてくれた桜もすっかり緑が目立ち、木によっては見つける事が出来た小さなさくらんぼもすっかり隠れてしまって暫く。
ついこの間まで活躍したスプリングコートもすっかり出番をなくし、袖はどんどん短くなってきた。
日焼け止めが活躍し始める前に、通年通り、乾姓になった今年もリトは大切で大切でまさに目に入れても痛くない──寧ろそう出来たら安心出来ると思っていそうだが──可愛い弟カイトの肌が真っ赤にならないように日焼け止めを渡し、「必ず、何があろうとこれをつけるように」と毎年お馴染みの言葉を真顔で言い、カイトは使用しなかったらどうなるか──自分の皮膚と姉の説教が、である──分かっているからこちらもまじめに頷くという行事も終え。
さあ夏真っ盛りだと太陽が、嬉々として人々を暑さ地獄へ誘ったのだが──────
「夏は消えればいいと思う。俺はまじめに、夏を殺してみたい」
一人の男の脳みそが今年の夏、壊れたようである。
日焼け止めを塗るのは毎年の事。
焼けると真っ赤になって痛くて辛いだけのカイトは、姉が勧める日焼け止めを今年も塗る。
カイトは自分で買うと言っているのだが、リトはカイトに何かする事が大好きだから、決して買わせるなんてしない。
今年は巽とリトとの間で一悶着あったそうだが、姉は強し。巽は負けたのであった。
この夏はその敗者巽が変わって初めての夏だ。
これが恋なのか、これが慈しむという事なのか、これが愛というものなのか。
今までどうでもいいものとして捨て置いていた物の大切さと、愛する人を思う気持ちの尊さに、今までの愚行を後悔し改め、再び愛しい恋人に自分を愛してもらえるように全てで向き合うと決めてから、初めての夏である。
巽は下半身男とリトに詰られ続けているが、巽の意見としては「向こうから寄ってきたからヤるだけ」であって、巽からそういう風に仕向ける事をした事がない。
浮気性で歴代の恋人をぞんざいに扱い、浮気相手と遊ぶ事は当たり前の最低男であったが、思春期の時も薄着になるこの季節に当時の同級生たちが思うような事でドキドキするとかムラッとするとか、そんな気持ちを持った事はなかった。
流石に「露出の多い服を着て、野郎に勘違いさせ、こんなコトになるなんて考えてもなかったなんて甘いコトを言ってるンじゃねェ。それで助けてだァ?自業自得だ、クソ女」なんて助けを求めてきた相手を斬って捨てるような自身の世話係りのあの男のような事を思った事はないが、露出が増えようと増えなかろうと、巽にとってはどうでも良かった事だけは事実である。
だから大学からの付き合いであるリトも、そしてそれより前からの付き合いである俊哉も、藤春巽はそういう男だと思っていた。
「うっざ!こいつ、めんどう……」
「今の話を聞いて、テメェはどこのあたりにその返事が出来るんだ!」
「藤、藤、お願い。俺の奥さんをテメェ呼ばわりやめてよ」
「はぁ?お前は何にも思わねぇって?」
「このクソ藤。人の旦那をお前とか言ってンじゃないわよ」
猛獣のにらみ合い──それが片やただの女性というからなんとも言えない──を静かに見守る俊哉は「うわ、リトさんに旦那って言われた。嬉しいなあ」などとほんわか笑い「まあまあ、落ち着いて落ち着いてよ、二人とも。涼しい倉庫の温度が熱帯雨林になりそうでいやだからさ」と、大学在学中密かに“猛獣使い”と思われていた俊哉は、二人の前にキンキンに冷えたソーダを注いだグラスを置き、半ば強引に椅子に座らせる。
当然、今度は掴みあいに発展しないように机を挟んで向かい合うように座らせた。
「リトさんって言う男前で格好いい奥さんをもらった俺としては、藤の言い分は解らなくもないよ」
「ほらみろ」
味方を得た巽は得意げな顔でリトを見る。
「だからって藤はやりすぎって言うか、言いすぎって思うけどね」
「ほらみなさい」
今度はリトが同じような表情をする。
本当に似た者同士だ。
「リトさんはそんじょそこらの男なら捻り潰しちゃうだろうし、自分がどう見られているか思われるかってよく理解しているから、そりゃカイトくんみたいな心配は少ないよ。それに、カイトくんを悲しませるような事は絶対しないから、リトさんはバカな事はしないし、俺を大切に思うから、自分大切にしてくれるって信じてる。でも、心配はする」
でもなあ、と俊哉は頬をかいた。
義理の弟カイトが可愛いのは俊哉も同じ。
人を切り捨てる事をいっそ清々しいほどやってしまう、悲しくて寂しくてかわいそうなところも、家族思いであるところも、姉の婚約者だからと言う理由ではなく一人の人間として慕ってくれるところも、今必死に前を向こうと巽と向かい合う健気なところも。
みんなみんな俊哉は可愛いと思っている。
弟や妹が欲しいなあと思っていた俊哉にとって、義理とはいえ実の弟の気持ちでカイトには接していた。
リトに「巽に甘くて優しすぎて、カイトの事、考えてないでしょ」なんて口を尖らせ言われた事があるけれども、俊哉は弟への愛情でカイトに接していたのは確かだ。
たしかに巽に甘いところや優しいところはあるだろうし、その自覚もある。だって俊哉はこの不器用で馬鹿でどうしようもない大切な友人には、どうしたって幸せになって欲しかっただけで
(カイトくんを蔑ろにとか、そう言うつもりではないんだけど)
と、ともかく、可愛いと思うから二人の主張は解るけれど両極端で、俊哉はどちらかに肩入れが出来ない。
(本当に二人は仲良しだよね)
まるで双子のように息が合ったり、兄弟のように本気で喧嘩をしたり些細な事で大笑いをしたり、互いに優しくしたり甘やかしたり。
リトと巽の外側だけを知る人は二人が犬猿の仲と思っているが、俊哉は勿論俊哉の両親もリトの父親もカイトも、そして巽の世話役だった男も、二人は気の合う友人にしか見えない。
世話役だった男に至っては「リトさんは、坊ちゃんの兄弟のようですね。巽の坊ちゃんもまるであの方々とおられる時のように“素直”でいらっしゃいますし」と言って巽に「どこがだ!お前はどこに目ん玉つけてるんだ!」と怒鳴られている。
仲がいいことは良きこと。
二人を大切にしている俊哉は思う。
しかしどうか二人きりの時に、自分を巻き込まず、平和な話し合いで決着をつけてほしい、と。
こと、この件に関しては。
「つーかよォ、軟禁すっか」
「どこに、『つーかよォ』がかかってんのよ!」
突っ込むべきはそこではない、と俊哉は思う。口には出さないのが、彼らしい。
「あー、くそ。カイト、くっちまいてぇ」
言って冷たい机に突っ伏した巽を、俊哉は苦笑いで、リトは呆れた顔で見つめた。
俊哉はリトが何も言わずに巽の頭を見下ろしているのを微笑ましく見つめてから、腕を伸ばして巽の頭を撫でる。
他の人間がやれば巽は怒鳴りそうな事だけれど、俊哉にされるのは嫌はないのか、基本おとなしい。
だから“猛獣使い”なんて思われるのだろうが。
「偉い偉い。下半身直結野郎の看板も捨てて、恋人のために頑張る子に生まれ変わる藤が俺は誇らしいよ」
「……だからよぉ、その爽やかな顔でそういう、下半身直結野郎とかいう言葉遣いはやめておけって、俺は言ってるんだよ。他にも言い方はあるだろ?お上品に言えとは言わねェけど」
「仕方がないよ、俺も男だから」
くすくすと、実に爽やかな顔で笑う俊哉は唸る巽の頭から手を離す。
「俺は、今度こそ、いや、改めてカイトに愛されたい。だから、我慢出来ずにキスはさせてもらうが、喰っちまおうなんて、自分の知りうる限りは、出来る限りはおくびにもださねぇようにしてるんだ」
巽のこれは、まるで思春期、初めて恋人が出来て、一層性に興味心身の子供のような言い方だ。
「感情が漏れちまってたら、そりゃ悪りぃなってところだけどよ……。俺だって、こんなクソガキみてぇなコト思うなんて、思ってなかったんだよ!ああ、くそ!ちくしょう!あいつはなんであんなに──────」
あんなに可愛いんだ。と絞り出すように言った巽の声は、自分自身に呆れ返っている様子で、リトは呆れ返った顔を引っ込めた。
彼女は、顔に似合わず可愛らしく乙女な一面を持ち合わせているが、反面所謂肉食系女子と言われる側面もある。愛おしいから肉欲に、という気持ちは解らなくもない。
「つまりだ」
がばり、と巽が顔を上げた。
「俺みたいに欲情する野郎がいないなんて、そんな事、あるわけがねぇ!スタイルはいい、顔は美人だ!微笑んだ顔なんざ、そこらの女は裸足で逃げる。くそ!ノンケだって変な気を起こすだろうが!」
あ、振り出しに戻った。と俊哉は天を仰ぐ。少し話が逸れてなあなあで終わるのが平和だと思っていただけに、話が戻った事にがっかりした。
「俺がどれだけ頭悩まして服を買うか!解るか!?オーバーサイズにしときゃ少しはラインがごまかせるのか、いや、それがより細く見えるんじゃねぇか。とか、ちょうどいいサイズにしておくべきか、いやまてよ、とかよォ。毎回毎回悩んで店員ひっつかんで相談してンだぜ?この、俺が!くそったれ!」
「──────だから今年の夏、カイトは大量の洋服を私や俊哉に貰ってくれって言ったのね……」
今年、夏が始まって。
リトはカイトに家に来るようにお願いされ、喜んで飛んでいったところ「この中で姉さんや兄さんが着れる服があれば、もらってほしい」と言われたのだ。リトは女性だが長身。カイトの服も──若干裾や袖が長いけれど──着れるし、ほぼ同じ身長の俊哉も同じく。リトは突然どうしたのかと思いながらも、自分と俊哉が着るだろう服をもらい受けた。
「今年、夏に入って気がついたんだよ。あのすらっとした体がこんなに見えちまうのかって。外で待ち合わせしたら目立つ。電車なんかに乗ろうもんなら男だって見やがる」
「藤、その男の人たちの視線はべつに疚しいものだったかどうかなんて、判らないでしょう?『綺麗な子だな』って疾しい気持ちはなく、ただ見てるだけかもしれないでしょ?」
名も知らぬ見てもいないどこかの誰かさんを庇うわけでもないが、それでも言った俊哉の言葉に巽はムキになる。
「いいや、ヤラシイ目つきしてたぜ」
どうしてそんなに言い切れるんだ、と呆れたため息を零す俊哉からリトがバトンと受け取り
「あんたがそうだから、周りをそう思うだけよ。そりゃ、私だって夏は心配のタネが増えるわよ。あのこ、美人だし、色白いし、私の自慢の可愛い弟よ!女にも男にもストーカーされて、どれだけ私が──────って、そうじゃない、危なかった……そうじゃないわよ。そうじゃなくて、心配のタネは増えるけど、あんた、そんなに思ってたら全員敵状態じゃないのよ」
「カイトを一瞬でも邪な目でみやがったら、そいつは敵だ。俺の全力で潰してやる」
乾夫婦は顔を見合わせ、完全に沈黙した。




