特別ではない特別な時:02
カイトが何か言う前に巽はオレンジ色のカゴを手にした。はっきり言って、似合わない事この上ない。
カイトは惣菜のコーナーを横切り、乳製品のコーナーを眺める。
「牛乳とチーズとヨーグルト、ね」
「俺にもお姉様にも足りないカルシウムだな」
「偉そうに、言わないでよ」
カイトがカゴにそれらを入れるとふらり、と巽が動く。すぐ脇の冷凍食品のコーナーへ巽の視線が行っていたのを横目で確認していたカイトは、卵のパックを手にしたまま近寄ると、巽の腕握る。
「そういうのばっかり、食べているんだね?ふうん。なるほど、俺に『健康には十分気をつけます』って言って、これ」
「男の一人暮らしなんざ、そんなもんだろ」
「料理をする、しなくても健康に気をつける、そういう一人暮らし男性に、失礼」
籠を持たない腕はカイトが確保し、次のコーナー。肉と魚が並んでいる。それらを前に心なしか巽が楽しそうに笑う。
「お肉が好きなあたりも、姉さんと似てるよね」
「肉食わなきゃ生きていけねぇからな、俺もリトも」
「知ってる。兄さんと俺、絶対二人についていけないから」
肉は好きな巽に選ばしておこうという事なのだろう。カイトが腕を離して後ろの陳列棚の列に消えた。
カゴに適当な肉を突っ込んだ巽は、そんな背中を目を細め見る。
(ああくそ、たまんねぇだろ)
なんの変哲も無い会話。
二人で出かけるのは“色気もない”スーパー。
どうということはない、本当に特別さがない時間だ。
カイトがこんな時間から来るのなら、巽はカイトを連れ回してドライブだろうが何だろうが、それこそ“特別さ”があるような、そんな一日にしたいと思っていた。
いつだってそうだ。
それなのにどんなに金をかけるよりも、こんな普通にさえ至極特別な時間を感じてしまう。
カイトが自分から家に来ただけで。健康が心配なんだと真面目な顔で買い物に連れ出すだけで。
(ただ、お前が、ここにいるだけで、それだけでいいもんなんだな)
そう思ったのは初めてではないけれど、改めて強く思うほどにこんな些細な事がとびきりの日に感じる。
(愛かぁ。たまらねぇよ、カイト。だからよォ、酷く苦しくてたまらねェ)
どうしてあれ程まで傷つけたのか。泣き顔を思い出す度に自分の言動を恥じたし後悔をする。心が痛くて仕方がない。
こんな時は余計にそうだ。あまりにこの時間が愛おしく感じるから、余計に思う。しかし巽はそれでいいとも思っていた。
(じゃなきゃ俺は変われねぇ。俺より痛いのはカイトの方だ。年下に踏ん張らせて、年上がこれじゃ呆れちまうさ)
巽の視界にカイトが戻ってくる。巽は持っている品物の量に呆れながら、カイトに近づいた。
「おいおい、それ、必要か?」
「だって、必要最低限の調味料は置いておかなきゃ」
「俺の家だぜ?使わないうちにダメになる」
巽は文句を放ちつつ、カイトに促されるまま野菜が並ぶコーナーに。
カイトは手慣れた様子で野菜を選び、次々と、けれど巽の事を考えてか量はそこそこにカゴに入れる。
実はカゴは二つ目。いっそカートを持って来ればいいものを、巽の両手はカゴで塞がれていた。
黙々と選んだカイトは無言でレジまで行き、巽はそんなカイトに首を傾げつつ会計を済ませ、カイトが手際よくダンボールとビニール袋に買ったものを入れる姿を眺め、詰め終わると判ると否やビニール袋を腕に下げ、ダンボールを持ち上げる。
持つなんて言わせないと無言でアピールすれば、カイトは黙ってさっさとスーパーから出て行く背中を追った。
数歩で追いついたカイトは、返事をいつしようかと口の中で言葉を泳がせている。「俺の家だぜ?使わないうちにダメになる」からこちら、カイトはずっと無言のままだ。
泳がせた言葉をカイトは前を向いたまま外に出す。足が前に進む、それと同じリズムでカイトは声にしてみた。
「俺が、料理したいと思った時、巽さんの不摂生が気になって野菜を食べさせようと思った時、なにもないキッチンなんて嫌だから」
「は?」
隣を歩くカイトの頭を巽を見下ろした。カイトは視線を感じているだろうに、顔を上げない。
「ダメになんて、しないよ。第一、買った調味料、幾ら何でもすぐにダメになんてならないし。どれだけ興味がないの?」
「いや、興味がねぇとかあるとかじゃなくて」
「だから」
カイトの足が止まる。
「今日みたいに、時々、たまには、巽さんの家に行って、少しは“マトモ”な食事が取れるように、作る。それに作り置きも、するから。ダメにもしないから」
カイトはどこを見ているのだろう、と巽も前を向いてみた。
そこにはただ、帰り道が伸びるだけ。
「それとね、今日は泊まる。時間はあるし、たくさん、料理作り置いて帰るから。それで、明日の朝もちゃんと作るから、朝も食べて昼もちゃんと健康的なの食べて、それで──────」
伸びるだけの道がどうしてこんなに広く見えたのか、巽は言葉に表せないと思った。そうしたらどうしてだろう。自然と顔が緩む。
巽を見上げたカイトが言葉を失うほどに、幸せそうに。
「巽さん。帰ろ」
「ああ、本気で腹が減ってきた」
「買い物、少しは持つ」
「ばっかやろう。こんなにガタイのいい野郎がお前みたいなのに荷物の一つでも持たせるか?嫌だね」
「なんか釈然と、しない」
「ならあれだぜ、カイト。お前は俺に野菜食わせる前に、肉を食え、肉を」
「姉さんと本当にそっくり。野菜のコトを指摘すると、二言目には『カイトがお肉をもう少し食べるようになったら、もっと考えるわ』だ」
「だから言ったろ?俺とお姉様と、意外と気が合うンだよォ」
くくくく、と笑う巽を見上げていたカイトはまた歩き出す。
「なら、仲良くしてよ、もう少し。気がつくと喧嘩してる、そんな気がする」
「どうにもそこはいけねぇよ」
「仲良くしてよ」
二人の視線がくるりと結ばれる。きゅっと音が立つ。
「巽さんと姉さんだから、前よりももっと、二人には仲良く、してほしいんだ」
「──────お、う。善処、する」
「ん」
若干カイトの頬が赤いのはこの気温のせいなのかと巽は思うが、彼らしく都合の良いように取る事にした。
「あー、くそ、両手が塞がってなきゃよかったぜ」
「だから持つって、言ったのに。なにか、したいの?そこの公園のベンチ、置いたら?」
「怒るなよ?」
「なんで?」
「今とにかくカイトが可愛くて仕方がねぇ。抱きしめてキスしてしまいたいんだよ」
「なっ!その、そのままでいい。帰ろ」
「帰ったら覚悟しろよォ?窒息するほどしてやるからな」
「そんな宣言、外でしなくて、いいから」
「知るか」
にやりと巽が笑うとカイトは睨む。
けれどもその瞳の奥がどこか揺れる。
それはカイトの気持ちが良い方向に揺れ動くからだ。
「あー、やっぱり車でくりゃ良かった。そうしたらこんなもどかしくなくてすんだのにな。カイトも俺とのキス、好きだろ?」
「しらない!」
カイトの足の動きが早くなる。巽はそれを面白そうに見つめて大股で歩き追いかけた。
「なあ、カイト」
呼びかけると、止まり振り返る相手の可愛さが巽には堪えられない。
「愛してる」
今度は寒さのせいなんて言い訳出来ない赤みが差したカイトは、再度くるりと背中を向けるとまた足早にマンションに向かう。
「待てよ。こっちは荷物持ってるんだぜ?照れてるのかよ、可愛いな」
「もう、巽さんは、黙って」
「キス出来ねぇんだから、代わりに好き勝手に言わせろよ」
「なに、それ」
「可愛い。好きだ。愛してる」
「だから、巽さん、しかも、声大きい!」
「お前がキスしたら、家まで黙ってやるぜ」
隣に追いつき巽は言った。あと少しでマンションだ。
風が吹いたお陰で見れたカイトの耳は赤い。
巽の顔がまたゆるりと弛む。
「キスなんて、絶対にしてやらない」
「なら、諦めて、俺の愛の告白をあと数分聞き続けてろ」
思わず足が止まったカイトの横を「その顔も可愛いな」と耳元でわざと囁き巽は追い抜いた。
昔なら「いい加減信じろ。いつまでもぐちぐち言うなよ」なんて言う巽だったのに、今はそんな影すらない。
カイトが新しく作り直した鍵を巽に渡したあの日、カイトは言った。キスなんてしない、と。あの発言以降、カイトからキスをしたのは一度だけ。今から帰るマンションに案内されたあの日の一度。
それ以降カイトに巽が『キスしたら』なんて条件を出した事はなく、今が初めて。そしてにべ無く断ったのも当然初めて。
断ったのに巽は笑って、カイトの様々な、しかも突然湧いて出る複雑な感情を受け止めた。降って湧いたカイトの負の感情を、巽は気がつかないふりをして自然に受け取った。
(本気で、巽さん、本気なんだ)
いつまでも立ち止まったカイトに早く来いよと言う巽の方へ、カイトの足が動かない。
巽の言った「カイトがいつか信じてくれるまで、信じてくれてもずっと、今度は俺が、お前にどれだけ夢中か、示させてほしい」がどれほど本気なのか、こんな小さな事でまた感じてしまう。
(ただ、キスしないって、言っただけなのに。なんで、本気なんだなんて、感じるんだろう)
立ち止まったままのカイトの心の内を巽は全く解らないけれど、足が動く気配のない相手に優しく笑って言ってみせた。
「諦めろよ、カイト。言ったろ?お前が俺に好きだと愛していると言わない分、キスをしない分、その分はしっかり俺がお前にするってよ。覚悟しておけ?俺はお前が可愛くて可愛くて仕方ねぇんだ。それが態度に出て、何が悪いんだってな」
眩しそうに目を細めたのは、逆光のせいに違いない。
カイトはそう自分に言い聞かせ、コートの中で手を握る。
触れたキーケースの中で巽の家の鍵が幸せそうにカチンと音を立て、カイトの頭の中にまた線を一つ引いてみせた。