特別ではない特別な時:01
こちらもカイトの家にして欲しいと言われてひと月。カイトは未だにその家に足を踏み入れていなかった。
いなくても巽が家に宣言通りの通い夫をするから、行くという事を考えていなかったとも言えるし、彼の中で行くと言う勇気がなかったとも言えるかも知れない。
(鍵を使うと、きっと、なにか、変わるんだ)
何かが何かは解らないけれど、カイトはそう思っていた。巽の真剣なあの目を、また深いところで受け止める事になるんだろう。
そういう感覚は、裏切られた気持ちを拭えないでいるカイトにとって、“不安”になり勇気が必要な行動になる。
けれど先日。通い夫な巽を見送った時の彼の背中を見て、ふと、自分のキーケースの中に入ったままの巽のあのマンションの鍵が頭に過った。
キーケースから出すと、LEDのライトに照らされ光る鍵。
その反射する光がなんとなく物悲しくて、巽の背中と重なる。
別に寂しそうな背中なんて──カイトが見る限り──一度も無かったけれど、なんだかとても、使われないままの鍵が使って欲しいと言っているようでカイトは決めたのだ。
(次の週末、マンションに行こう)
たったそれだけだけれど、カイトにとっては大きな決意だ。
(そう、もっと、知っていこう。震えた不安な声を出した、巽さんがいるんだから)
そうしてカイトはなにも言わずに今日、マンションのエントランスに入った。
言わなかったのは巽が「てめぇの家に帰ってくるのに、遊びに行きます、なんて変だろうが。好きな時にこいよ、何も言わなくていい」なんて言った言葉にのったわけではない。約束を取り付けて、不安に悩んで勇気が出なくて、家からマンションまで行けなかったらどうしようなんて思ったからだ。
約束を取り付けて、やっぱり怖くて行けませんなんてカイトにはどうしたって出来ない。
「──────巽さん、起こそう。これ、酷い。酷過ぎる」
勇気を出したカイトの、マンションでの第一声がこれ。
キッチンから出て、あの日言われた通り階段を上がり、教えられた寝室の扉を開ける。
大きなベッドには大きな膨らみ。巽だ。
(昨日の夜は遅かったのかな)
なんて思って一瞬躊躇したカイトだけれど、アレを見たら止められなかった。どうしてもカイトは許せなかった。
「巽さん、巽さん、起きて」
ゆさゆさと大きな体を布団の上から揺する。
んん、と声がしても起きる気配がなく、カイトはさてどうやって起こせば良いか眉間に皺を寄せた。
思えば巽を起こした記憶が彼にはない。
(巽さん、起きれる人?起きれない人?俺、知らなかった)
それは今から判明するか、思うカイトの顔が自然と笑みを作る。どうしてなかなか楽しくなったらしい。
「巽さん、起きて。昨日遅かった?でも、俺、ちょっとね、物申したい」
対して巽は夢現。
完璧に夢の中で何か言われてる程度の意識だ。
「あー、カイトォ?わりぃ──────ん、タバコは取り敢えず、やめる、けついを、だなぁ」
「……そうなの?知らなかった。それは、健康的で良いよね──────って、寝言に返事するのは良くないんだっけ?」
以前俊哉の母親に言われたのだ。寝言に返事はしないのよ、と。理由はすっかり忘れたけれど、カイトはそれ以来なんとなく守っている。
(って、そう、起こそう)
違う方向に逸れた意識を巽に戻すと、またしっかり夢の世界の住人になっている様子。黒に戻された巽の髪を見ていたカイトは、なかなか起きない──正確には起こしてくれる子供が可愛くて狸寝入りをしていたのだが──父親を起こす時の最終手段を思い出した。
まさにカイトに取っては奥義のような技である。
枕をむんずと掴み、思い切り引き抜く。
これだ。
「おはよう、巽さん」
驚き起きた巽は、楽しそうな顔のカイトに見下ろされ瞬きを繰り返した。
これは夢の続きかと本気で思っているのだ。
(ああ、なんだ、こりゃ──────夢じゃ、ねぇよなぁ)
彼は解っている。
カイトが不安で鍵を使えない事も、この家に来れない事も。
自分の意思で鍵を開け部屋に入ってしまえば、巽の気持ちをまた一つ受け入れる事になる。カイトがそれをしたいと思う気持ちと、今までの事を思い出し怒りや不安に苛まれしたくないと思う気持ちとの板挟みに苦しんでここにこれない事を、巽は解らないバカではなくなった。
バカではない巽はだからこそ、今目の前のカイトが本物なのか今一つ飲み込めない。
「ええと、巽さん?」
「まじか。カイト?何してるんだ、お前」
「何って、起こしたんだよ。巽さんが疲れてるかも、って思ったけど、どうしても俺ね、物申したくて」
起こした楽しみよりも、再び物申したい事が勝ったカイトの眉間にはまた皺。その顔を未だ呆然と布団の中から見上げる巽に近寄せる。
巽は近寄るカイトの顔に布団から出した手を伸ばし、頬に触れた瞬間。愛おしさがまさに爆発し、そのまま思い切り抱き締めた。
巽さえ衝動的だと思った行動で、準備すらなかったカイトは勢いよく巽の上に伸し掛かる格好になる。
驚いて何も言えないでいるカイトの背に巽の太い腕が周り、存在を確かめるように抱きしめた。
(ホンモノかよ)
きっと想像し難い勇気でここまで来たのだろう笑顔で起こした相手に、巽はいかにせん自分の気持ちが抑えられなくて、腕の中の相手を離したくない。
「巽さん、ちょ、ねえ」
「うるせえ。話ならこの体勢で聞いてやる」
もそもそと布団の上からで動いて見ても、巽の腕から逃れるすべを見つけられなかったカイトは諦めて力を抜き、体を預けた。巽の顎にカイトの髪の毛があたる。
「俺、言ったよね?これからは、少しくらい、健康にも気をつけてねって」
「だから禁煙するんだよ」
真面目な声の反論にカイトは溜息を落とす。
「ならなに、あの、冷蔵庫。ビール以外に殆どなにもない!調味料だって、ないようなもの、だよ?」
「俺が料理作ると思うか?」
「そりゃ、思わないけど、ねえ、なに、食べて過ごしてるの?」
「カイトの家でめし、食ってるだろうが」
「俺の家以外」
さあ答えろ、と言わんばかりの強い口調のカイトに巽は実に素直だった。
「──────そりゃ、まあ、いろいろ、だろ」
野菜を食べない人たち。とカイトが口にするのは巽とまさかのリトである。
「姉さんと巽さん、野菜はとりあえずしか口にしない」
「お姉様とそこも気が合うんだよォ」
偉そうに言った巽は濃紺の緩めのボトムのポケットに手を突っ込み歩く。カイトはタータンチェックの厚手のマフラーに顔を埋めるようにしたまま、隣を歩く巽を睨む。
「なあ、俺以外への怒りまで込めるなよ。俺への文句は聞くけどな、お姉様への文句まで込められても俺はお姉様に意見出来ねぇからな」
「してよ」
「やめてくれよ。ますます嫌われちまうだろ。お姉様には愛想よく、がモットーなんだよ」
「……嘘だ、冗談でも本当だねなんて、言えない」
「ああ、モットーなんだが、ついいけねえ。お姉様が厳しくて、ついついやり返しちまう。だが、リトも加減ねぇよ。普通俺みたいな野郎の腕、捻って転がすか?しねぇだろう」
「姉さんだから」
変に気の合う──特に食の面で──二人だが、お姉様と呼ばれるとカチンとくるリトと、ついついやらかす巽は相変わらず、カイトを挟んで時々喧嘩。俊哉の表現では“野良猫の戯れ”──自分の嫁まで含めて使う言葉とは思えないが、何分それがぴったりだと俊哉は思っている──だから、慣れた俊哉もカイトも気にしないけれど、この間はなにをどう二人の間で揉めたのか、気がつけば巽が公園で尻餅をつく事態までいった。
そんな現場を通り抜け、品揃えはそこそこ、本当に一般的な駅の傍にあるスーパーマーケットに二人は足を踏み入れる。