★ 慚愧:02
「──────って感じだよ、どうする?気がついたけど、諦める?俺はね、大切で可愛い弟が笑ってくれればいいんだよ。だから笑う理由がなんだって俺はいいと思ってるよ。でもね、認めて生まれ変わろうとしてる友人も大切なんだよ、解る?この板挟みみたいな気持ち」
お前には解るまいよ!ああ、解るまいさ!と、どこの誰だよ、とツッコミを入れたくなる口調で締めくくった俊哉は、チェーン展開している居酒屋の奥まった席に座り、目の前で煙草を灰皿に押し付ける巽を見た。
「リトさんに知られたら、ぶっ殺されちゃうかなあ。それとも婚約破棄とか?なんかそういうお話はやってるんだよね?どうしよう……憂鬱だよ」
「なら、俺に会うのは兎も角、教えなきゃいいじゃねえか」
ビールをジョッキ半分まで一気に飲み干した巽は、それをテーブルに押し付けるように置く。
「バカだね、藤。確かにそうだよ、俺にとってリトさんは大切だし、カイトくんも大切。でもさ、藤だって俺にとって大切なんだよ。じゃなきゃ、藤みたいな下半身バカとこんな長い事、付き合ってないって」
巽は優しい目の俊哉から目を逸らす。
気がついたらいつもそばにいる友人となり、気がついたら大切な友人にとなった二人。
お互いがお互いを大切にする間柄だが、俊哉は下半身事情がひどくだらしない巽を「手の掛かる可愛い弟」と公言するだけあって、かなり贔屓するところがある。
そんな俊哉に眉を寄せていたリトだが、なぜ俊哉がそこまでするのか解った今は──決して口から出さないが──リトにとっても巽はなんでも言える気心知れた異性の友人だ。
──────なんであんた、私にするように恋人に優しく、心を寄せて、大切にしてやれないのよ。私に出来るなら、あんた恋人にだって出来るでしょ。
リトはそう言って巽を窘めるようになって、成る程俊哉が弟だというのはこういう側面かと思ったほど、リトは巽を内に入れてしまった。
巽と友人になるという、リトからすれば想像していなかった事になったが、巽も自分が今までしてこなかった事をしたのだ。
──────失いたくない友人の大切な人間と身内には、決して手を出さない。
そう決めていたのに、リトの弟カイトを恋人にしてしまった。年下だのなんだのの前にこの時点でカイトは“特別”なのに、巽は気がつかなかった。
だからこうして後悔し、聞いた事に悩んでいる。
「うん。とりあえず店員さんを呼ぼう」
「まだ食うものあるぞ」
ふん、と言った俊哉は店員を呼び「灰皿、かえてください」と一言。
灰皿には吸い殻が二人で吸ったにしたって多い気がするほど溜まっている。
店員が笑顔で灰皿を交換したテーブルに、今度は俊哉が頼んだビールが届く。
「俺はさ、藤。お前って、相手を大切にしたい、そういう恋愛なんて出来ないんだろうなって思ってた。でも同時に、だからして欲しいって思ってたよ。なんでかなあ、俺ね、藤のすぐ上のお兄さんみたいに信じてたんだよね。で、どうやら藤が目覚めたらしい、そう思ったら、リトさんやカイトくんの事を考えるけど、藤の幸せそうな顔、見たいって思うじゃない」
「一歩間違えると口説き文句のようだ」
「こらそこ、茶化さない」
「──────わかってンよ」
子供が怒られたような顔で言う巽のこれは、照れ隠しのようなもの。俊哉はそれを重々知っている。
「カイトくんが新しい恋をしようとしてるなら、それはそれで素敵だよ。でも、藤、俺は藤にも今の気持ちを大切にしてほしい。仮に、結果惨敗でも、ある意味藤にとってはじめてのまともな恋愛だろうし、やるだけやってほしいんだよね」
「今から惨敗とか言うなよ、お前」
「愛の鞭だよ、藤」
いらねえ、と言った巽は優しく微笑む俊哉に小さく、本当に小さく笑顔を返す。
俊哉をタクシーに押し込み、運転手に金を渡し、リトに電話を掛け俊哉が帰る旨を告げた巽は切る直前
「悪ぃな、リト」
とだけ言った。
リトはそこで切れたスマートフォンを机に置き、困った顔を手で隠す。
巽が変わったのは近くにいる人間なら解る。激変といっても良いくらいだ。巽の事を“上っ面”だけ見ている相手は今まだ気がつかなくても必ず巽の変化に気がつく。セフレがいないとかそういう変化ではなく、内面の変化に気がつくはずなのだ。
リトは俊哉を未来の夫として大切に思う。巽は文句を言い合ってばかりいるけれど大切な友人である事に変わりはない。しかしリトにとって、何より誰より大切なのはカイト一人。俊哉のプロポーズを受けたのだって、俊哉が「カイトくんが一番大切なリトさんの夫のポジションだけは俺にください。俺もカイトくんのお兄さんにしてほしい」とまるっと受け止めてくれたから、それが大きい。それ程に、側から見れば驚くべきブラコンぶりでカイトが大切なのだ。
(カイトにとって、何が一番幸せなんだろう)
リトは母親より父親よりカイトを見てきた。育てたといっても良い程に世話をしてきた。
だからこそ解る。
カイトが巽を“過去の人”に出来ていない事を。
実の母親だってもう終わった人なのに、カイトは巽に対して未練といっても良い感情を持っている。
──────もう一度、よく話し合いなさい。結果がどうなるにせよ、そう促してしてはっきりさせた方がいい。
リトはこの先巽への気持ちが膨らんだカイトが思い悩んだら、そう背中を押すべきだと思っていた。
しかし今日、カイトが自身のパーソナルスペースに踏み込ませようとしている人間がいると知って悩んだ。
もしかしたら、カイトは淳太という友人に僅かながら何かの、友人よりも別の感情を、本人も気がつかないほど淡く小さく持っているのではないか、と。
何がカイトにとって一番幸せになるのか、カイトが思い悩んだらなんと言ってあげればいいのか。
悩んで一人家にいたリトに巽は言ったのだ。
悪い、その一言で巽の決意をリトは知ってしまった。
カイトとやり直す決意をしたのだと、リトは知ってしまった。
「こんな風に悩むなんて、私はやっぱり過保護なのかしら。それとも、過干渉なのかしら。はあ……」
鍵を開ける音に顔を上げ、リトはもう一度息を深く吐き出して立ち上がる。
帰ってきた俊哉の「ごめんね、リトさん」に、リトは苦笑いで「友達思いの、あのバカにアホで手がかかる藤を大切にしてる俊哉が好きなのよ」といつかのプロポーズを真似てやった。
取り敢えず二人の関係は変わらず平和である。
巽は部屋に戻り、鍵をテーブル落とす。
ガラスの天板が高い音を立て、鍵の落下を巽に教える。
そのまま堪えるように息を深く吸うと、倒れまいとなんとか数歩動いてソファに座った。
(解ってる。解ってるさ)
両手で頭を抱え、巽は心で何度も言う。
解っている、何度も言った。
寄りを戻したい。もう一度須藤カイトを恋人として抱きしめる権利が欲しい。
それでも今の巽は自覚している。どれだけカイトを傷つけたのかと言う事を。
よりを戻したいと行動するのは自由かもしれない。それでも巽にはおいそれとそんな行動が出来ない。
みっともなく、過去の自分からは想像出来ないほどの情けない姿を晒してしまうのなんて、カイトへの気持ちに向き合った巽には怖い事ではない。
それだけで再びカイトの恋人の座を得れるのならば、巽はいくらだって情けない男なれるし、泣いたって構わない。
けれどもこれはあまりに身勝手な行動だと巽は思うのだ。
自分の気持ちに向き合わず好き勝手に振る舞い、別れを告げられたら自覚をしてよりを戻したいと動き出す。
カイトをどう思っているのか認めた巽には、あまりにハードルが高かった。
その上、俊哉から聞いてしまったのだ。
カイトが思いを寄せる相手を作ったかもしれないと、とんでもない話を。
(こんな思い、てめぇをもう一度手に入れたいなんて気持ちを捨てて、もっと良い奴捕まえて笑ってろって、言ってやりてェよ)
これは自分への罰だ。まっすぐに自分と向き合わなかった罰だと、カイトへの気持ちと後悔の念を抱いておしまいにすべきだと、巽は思う。
しかしもう一方で巽は思うのである。
(カイトを誰にもやりたくねぇよ。俺の隣で今度こそ、笑って死ぬほど幸せにしてやりたいんだよ。今度はちゃんと、愛したいんだよ)
途方も無いマイナス値からのスタートで良い、それで良いからカイトに「幸せ」と言わせたい。しかも自分の手で。他人の手で幸せと口にするカイトではなく、自分の手で幸せにしてカイトにそう言って欲しい。そして好きだと愛してると、あの時のように言われたい。
(あの時は適当に、バカみてぇに適当に聞いてたからさぁ)
今度そう言われたら、宝物のように心に収め、いつだってキラキラ輝くように大切にしたい。
二つの気持ちが巽を刺す。
自業自得だ、あきらめろ。
誠心誠意尽くし、今度こそ幸せにしろ。
こんなにも悩んだ事が過去にあるのか、巽は思い出せない。
「兄貴、俺はどうしたら良いんだよ。なあ、あんた、化けて出てきて説教するってさあ、俺に言ってたじゃねぇかよォ」
がっくりと項垂れる姿は、まるで小さな子供のようだった。