epilogue
新しい鍵をもらった時、これがどこの鍵なのかカイトはまったく考えていなかった。
そもそも自分は鍵を持っているのになんでまた鍵を受け取らなければいけないのかと、そう思ったけれどカイトは「まあ色々あった時の鍵じゃなくて、新しい合鍵で、心機一転、ってことなのかな」と思って聞かずにいたのである。
だから家に来いと呼ばれた時も何も気にせず行って、カイトの言う心機一転の新しい合鍵を差し込もうとして、しかし差し込めない事に瞬いたのだ。
「え?」
首をかしげて以前突き返して戻ってきた鍵を差し込む。
オートロックの扉が解除された。
「え?」
二つの鍵を合わせて横から見る。鍵の形が違った。
不思議な気持ちで部屋に入るとそこには何もなくて、巽がただ立っている。
「え?」
この短い間で三回目の『え?』だ。
何もない部屋にはよく響く。小さい声なのに。
「引っ越しだ。昔の鍵、ほら」
ほら、と巽は手を出すから、何も考えずにカイトはこの家を開ける事が出来る鍵をその手に乗せる。
巽相手には何も考えずの行動が増えてきた。カイトにとって、何も考えずに反応するのは信頼していく証のような行動だ。
(ああ、また、まただ、染められてる)
カイトは思う。でも前よりも染まっている。深く深く。きっとそれは染まりきってから気がつくだろう。それほど静かに、深く。
「ここから、引っ越し、するの?」
ゆったり、いつものように口に出す。巽は笑って頷いた。
何もない部屋に用がない。とカイトの手をつないで外に出る。そのままマンションをあとにした。
大学生には分不相応の車が駐車場にはなくて、カイトは小首を傾げる。移動するならそれだと思っていたからだろう。
それを感じ取った巽は
「手ぇ繋いでいくんだよ、大した距離じゃねぇ」
「なんで」
「繋ぎたいから」
異論は認めない強い口調で、けれどもとても優しい声。
カイトは同性愛が少数派だと解っているが、この巽相手に外でとか男同士だから、なんて言っても通じないのを知っている。だからなんだ、と言われておしまいなのだ。
その上外でキスをした時、嫌悪の声があんまりに少なかったからカイトの中で何かを変えてしまったのかもしれない。いや、もしかしたらカイトは外でキスをしたなんて事で頭が真っ白になったから、何も聞こえなかっただけかもしれないけれど──────、しかし種類は違えど見た目の良い二人だから、嫌悪が口から溢れる前に違う感情で覆い尽くされたのかもしれない、ギャラリーは。
そうした事は巽がよく知っている。だから彼の性格も相まって、より「だからなんだ」になるのだ。
どんどんと歩いて十分。
カイトも見た事がある高級マンションの前に辿り着いた。
通り過ぎるのだと思い込んでいたカイトは動かない巽の顔を覗き込もうとしてたたらを踏む。ぐっとマンションのエントランスに入り込んだ。
前から巽のこうした、特に金回りは謎だらけだし聞いた事もなかった。
(踏み込んだら、いけない気がするから)
今もその気持ちで口を閉ざし、ただエレベーターが上がるのを待つ。
かすかに音がして止まった階は最上階だった。
最上階と瞬くカイトをよそにその一つ、エレベーターを背に扉の前に立った巽は、カイトにキスをする。
「渡したろ、鍵」
「あ」
「開けてみ」
言われてカイトは先ほどの、以前のあの家では開けられなかった鍵を差し込み回す。
かちゃん、と今度は鍵が開いた。
中には巽の好みだろう家具がしっかりと揃えられている。
玄関を開け左に曲がると長めの廊下。
正面にあるリビングまで連れてこられ呆然としていると巽がカイトを抱き寄せた。
窓の外は空だけ。大きなガラスの窓が空を切り取っている。
その様はまるでシンプルな額に収まった、美しいアートの様だ。
「たつみ、さん?」
「新居。こっちに越したんだ。部屋は二階な。貰いもんだけど、悪い家じゃねえよ」
「もら──────って、二階……?」
指差された方は廊下の中央あたり。見るとたしかに階段があった。もはやカイトの想像の範疇から逸脱している家だ。
「階段上がって正面が寝室、その隣の部屋が俺の部屋。好きに入って遊んでかまわねぇが、俺の部屋の書類だけはまあ、さわらねぇように」
「え、あ、う、うん」
「お前の部屋は廊下の突き当たりにある部屋な。曲がった先の二部屋は物置にでもしちまえ」
ちゅ、ちゅ、と顔中にキスが落ちてもカイトは呆然としたままだ。
「なぁ、カイト、俺はお前にまだ伝えてない事がある。ただ、少し待ってほしい。すまない」
体に回る巽の腕が強くなる。それが不安な声に相まってカイトはゆるゆると巽を抱き返した。
「言えない事があっても、それで信じる信じないとか、許す許せないとか、変えないから」
なんでも話す巽が話せないと躊躇する事。それで信じる信じないを決めようとカイトは思わなかった。その気持ちはさて、彼のどこから湧いてくるのか。
巽は図りかねたけれど嬉しくて言葉に詰まり、言えたのは一言。
「──────ありがとう」
ぎゅっと、強く抱きしめてからまたキス。
(巽さん、キス好きだな)
受け止めて巽の好きなようにさせていれば今度は髪を巽がいじる。時々髪にキスをして、時々額にキスを落とす。
「こっちも、カイトの家にしてくれよ」
震えてる声。
「月に一度でもいいから」
懇願してる声。
「まあ、俺は通い夫を辞める気はねぇから、きてもこなくても会えるんだがな」
少し強がってる声。
ゆったりゆったり聞き取って、カイトは髪を梳く巽の手を取った。
「巽さんて、もしかしてお金持ち?」
「ああ、まぁ、どうだろうな」
「俺の部屋ってどんな部屋?」
「今は何もない、空っぽの部屋だな。お前に俺の趣味は押し付けられねぇし、なにより」
ごくん、と巽の喉が動く。
「お前と買いに行きたいから、だ」
たっぷり時間を使って巽が言い、カイトは部屋の方を見た。といっても二階の自分の部屋だと言われた方向を見上げるだけだけれど。
「なんで、俺の部屋は家具、買わなかったの?巽さん、趣味押し付けないとか言いながら、買いそうなのに」
「お前と買いに行きたい。それは本音。だが、なけりゃやる事ねぇから部屋に居られねぇだろ?」
「え?」
「カイトが部屋にこもる時間が少なければいいなってよ。くだらねぇだろ?お前、遠慮して家具揃えるまでに時間かかりそうだからよォ」
笑う顔にカイトはおもわずキスをする。少しだけ爪先立ちで。
どうしてそんな事をしたのか。もうカイトも分からなかった。
「じゃぁ、当分、家具はいらない」
「金は気にすんな、俺が」
「違う、いらない」
部屋に何もなければ、部屋に篭りようがないから。
そう言って胸元に顔を寄せたカイトは、らしくもなく、真っ赤な顔になった巽を見る事は出来ない。
いつ見られるかと不安な巽がカイトの髪に顔を埋めるようにキスをする。
長く離れない唇が離れるのは、顔の熱が引いた時。
「待ってろよ、カイト。お前が嫌になるほど、俺はお前に証明するぜ。俺の、すべてで」
頷くだけのカイトだが、巽にはそれだけで十分である。
大きな窓に切り取られた空。
そこに、引かれた横線は白い飛行機雲。
けれども風の無い上空はなかなかそれを消しはしない。