第伍記最終話 再び山口へ
日向は報告のため、山口の戦国大名:大内義隆に会いに行った。彼は難病を抱えているため、その後の養生を見に行くと云うこともあった。
義隆様、具合は?
「日向殿の薬が効いたらしい。大分に良い。で、平戸はどうでした?」
もう、話は聞いているでしょう?ちょっと、騒動が起きたのを。
「いや、知らない」義隆はとぼけた。
私に西班牙の動向を調べさせたのでしょう?
「何の話です?私はザビエルがどうだったか?と云うことです」
•••ザビエル殿は誠実な方です。無論、私とは異なりますが、自分の信じる神に尽くす人物、それだけです。
「•••宣教師は、利用されているだけか」
義隆様、彼らは確実に侵略を狙っていますぞ。
「•••そうか」
今の状態ではあの強大な西班牙には勝てません。日の本が1つにならねば。
「須佐殿たちが居れば•••」
須佐は出ませんよ。帝をお守りするだけです。
「日の本には大きな力を持った戦国大名が幾人かいる。私などは田舎の小大名だ。彼らの誰かが天下を取るだろうな」
彼らではダメです。もっと広く世の中を見渡せる人物でなければ。そう、数十年したら尾張あたりから出るかもしれない。
「日向殿には未来が見えるか?」
いえ、未来は常に動いています。ですが西班牙はすぐには行動を起こさないことはわかります。
「日向殿、何かしましたか?」義隆はニヤニヤしている。
と、云うか、他の国も出てくるでしょう。英吉利、阿蘭陀など。
「あなた方須佐は欧羅巴にも精通しているのか?」
望遠鏡のように見えるだけです。彼らはしたたかですよ。
「望遠鏡か。ザビエルに貢物で貰ったな。おっと、貢物を貰ったからと宣教を許すのではないですぞ」
はい、彼らは無害です。
「わかった。宣教を許そう」
が、仏教徒との問題は残る。
1552年9月、ザビエルは、自ら明(現中国)での布教を始めた。しかし、その後、ザビエルは病に倒れ、12月3日、この世を去った。享年46歳。
遺骸はその後、右腕上膊はマカオに、耳・毛はリスボン、歯はポルト、胸骨の一部は東京などに分散保存されている。
ザビエルは1619年10月25日、列福(カトリック教会において徳と聖性が認められ、聖人に次ぐ福者の地位にを与えられること)され、1622年3月12日に列聖(聖人の地位を与えること)された。
幕末に滞日したオランダ人医師ポンペは著書の中で、ザビエルが記した「彼ら日本人は予の魂の歓びなり」の言葉は西洋で知られており、アメリカ合衆国政府が、ペリーのアメリカ艦隊の日本遠征を決心させたと述べている。ペリーは捕鯨に於いての南氷洋と北氷洋の中間にある日本を寄港としての交渉に来たのである。
その後のヤジロウの生涯については不詳だ。ザビエルとの離日後、ヤジロウは仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺害されたと云われる。
ザビエルは本当に病に倒れたのか?ヤジロウは海賊に殺されたのか?日向は疑っていたが、すでに知る術もなかった。
日本ではその後、隠れキリシタンなどと云う残酷な歴史になった。平戸には今も隠れキリシタンの痕跡が見られると云う。