第壱記 西班牙人
日向は山口の戦国大名:大内義隆の頼みにより平戸のキリスト教南蛮宣教師に会う。日向は宣教師に疑惑を持っていた。大内はなぜ?日向を会わせたのか?その宣教師の真の正体とは?
室町時代末期1551年3月。日向は難病を抱える山口の大名:大内義隆を治療するため、邸を訪れ接見した。
「日向殿、お久しゅうのう」
いかがされましたか?
「歳かも知れぬ。身体が云うことを聞かぬ」
「義隆様は、色々と気苦労が多くにございましょう。安定薬と栄養薬が宜しいかと
「そうか。それは、まじないか?」
日向は即下に木に垂を巻いたものを用意していた。
「はい。健康促進、開運、悪運退散のまじないです」
垂にその言葉が書かれてあった。
「ありがたい。須佐殿のまじない棒か」
○大内義隆
戦国時代の武将。周防 (すおう) ・長門・安芸・石見・備後・筑前・豊前などの守護。公家・僧侶を保護。明・朝鮮との貿易により書籍・経典を広め、出版事業を行ない、西洋文化の輸入にも拓した。とはいえ、義隆はこの年、9月、家臣の陶晴賢 (すえはるかた) の反逆により自決した。
「日向殿、この後は?」
「肥前平戸に参ります」
「そうか、ではそこで南蛮人にお会いなされ」
「南蛮人?」
「西班牙の宣教師です」
「景教ですか?」
「わしも細かいことはわからん。キリスト教だと云う。神道に携わるあなたにはどうかと思うが」
「構いません。名は?」
「ザビエルだ。私の書簡を携よう」
また義隆はザビエルにキリスト教布教を許した人である。
日向は義隆が回復するのを見据えて平戸に旅立った。
「義隆殿は、なぜ?私に会えと云うにか?」
平戸では家臣を見舞い、治療に専念した。
「日向殿、ありがとございます」
「後は少し静養すれば良いでしょう」
さて、ザビエルは小さな村で布教しているらしい。村人の養生もついでに見てみよう。
とはいえ、日向は宣教師のある裏話を聞いていた。
西班牙や葡萄牙は大名に武器(銃など)を売り、安心させる。その間に布教をさせてもらって日本人を説き、大名に反旗を翻す‥無論、農民の方が武士より多大な人数である。そうやって日の本を征服すると云う。自国の兵も使わずに日の本を手に入れる策謀だと云う。武器も農民に与え。指導するつもりなのか?武士も入れるつもりか?
話は少し戻る。
1551年1月、ザビエル一行は京に到着。全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書と携え後奈良天皇、征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。京での滞在をあきらめ、同3月、平戸に戻る。ザビエルは、平戸に置いていた献上品を取りに戻った時期だったのだ。
日向は村に着いた。幾人の日本人、南蛮人がいた。
その中に聞き入った姿の南蛮人が居た。横には通訳らしい 日本武士の冠者が付いていた。
「ザビエル殿ですか?」
「はい、あなたは?」
「須佐日向と云います。医者です」
「須佐?‥」少し考えて「ヤジロウ」と冠者を呼び、小声で話し合った。
「おう!」と、感嘆し「あの須佐の方?」と笑顔になって日本語で聞いてきた。