*6* まさかの結末。
合流してから十五分。
周囲の視線は依然痛いものの、通報された気配はない。だが目の前に座る彼女は眼鏡を外して未だハンカチで目許を押さえたまま俯いている。
「ええと、アンモナイトさん、大丈夫?」
「は、は、はー……はいぃ」
過呼吸気味に返事をする相手が大丈夫だとは到底思えない。何よりまだ注文をしていない彼女のことを店員が気にしていた。別にワンドリンクオーダー制とかではないのだろうが、注文なしで揉め事を起こしそうな客を店内に置いておきたくないのは理解出来る。なので――。
「あ、うん。まだ駄目っぽいか。ゆっくりで良いから泣き止んでな。取り敢えず俺は何か飲み物買って来るよ」
そう言い残して席を離れ、再び単身注文カウンターに向かう。待ち受ける店員もこちらの緊張を感じ取ってくれているらしく、俺が注文しようと前に立った瞬間「この辺りの新作が女性に人気ですよ」と教えてくれた。イチゴ系統にジャムやらホイップをドカ盛りした物である。確かに女性人気は高そうだ。
しかしとてもじゃないが間違えないで注文出来そうにない。無難にキャラメルフラペチーノ辺りで手を打つか逡巡する俺に、店員が「あれだったら、指差しして下さい」とプロの対応をしてくれた。感謝。
無事に注文を終えて待つこと数分、カウンターに乗った商品の凄まじい甘さの圧に戦きながら席に戻ると、彼女がうっとりとした表情で俺を見上げて笑った。もしや彼女はスタンド使いで俺の背後に何か見えているんだろうか? 思わずそんなことを疑ってしまうくらい魅力的な微笑みだった。
テーブルの上に置いたイチゴのソースとホイップ増し増し、キャラメルソースとアーモンド何とか入りのドリンクに勝る甘さだ。はっきり言って怖い。アンモナイト氏が美人局をするとは到底思えないが、会った瞬間好意が天元突破の美人は流石に怖い。ただ、次の瞬間彼女は口を開いて――。
「す、す、す、好きです。好きなんです、貴男が。今日、会えたら……男性でも、女性でも、言おうと思ってました。わ、私と、お、お付き合いして下さい」
そんなさらに俺の予想を上回る発言を、俺なんかを相手に口にした。当然周囲の視線が一気にこちらに集まって。ついでに何人かは店内に共犯者やテレビカメラがないか探し始めた。俺もその一人だ。
周囲の物陰や大人数いる席に疑いの眼差しをやりつつ、視界の中でこっそりムービーを撮ろうとしているネットリテラシーのない奴等を威嚇する。
「と、取り敢えず落ち着こう。な? 君は何かこう……勘違いをしてるよ、たぶん」
「え……勘違い? あの、それはもしかして、貴男が【オジサン】さんじゃないということですか?」
「いや【オジサン】は間違いなく俺で合ってるよ。君も本物の【アンモナイト】さんなんでしょう? あ、それとごめん、隣に座るね?」
目に見えて狼狽える彼女を落ち着かせるようにそう答え、ひとまず気は引けたものの周囲の好奇の視線から彼女を隠そうと思い、隣の席に着席する。するとほんの少し嫌がってくれるかと期待した俺の隣で、やっぱり彼女はポーッとなったまま俺みたいなおっさんを見つめる。
――が、すぐに正気に戻って「もしかして、彼女さんがいらっしゃいますか?」と泣きそうな顔で聞かれた。こんな顔の男相手に斜め上すぎる発想力。
「あー……いや、そういうのとも違ってね? その、君はちょっと混乱してるだけなんだと思う。ずっと頑張って描いてきた絵に、ポッと出の俺が承認ボタンを押しただけだ。それが運良く君のグッズをつけてたのに気付いてくれた人達がいて、その人達のおかげで君の存在に皆が気付いた」
視線を合わせてゆっくり言い含めるように話すと、彼女も真剣な目で見つめ返して聞いてくれる。あんまり真摯な視線に気圧されないように姿勢を正した。
「その点俺は一部の人からは〝承認返し期待オジ〟とか〝ボットオジ〟とか、他にも〝相互待ちオジ〟や〝出逢い待ちオジ〟なんて呼ばれてる。実際人の努力に相乗りして、勝手に励まされてるだけの派遣社員だから」
こんな美人を前にして自分で公開処刑の追加得点入れるのは辛い。でもこんな素直で騙されやすそうな子に社会の現実を教えないのも心苦しいし、奇妙な縁とはいえ放っておくのも大人としてどうかと思ったのだ。
こちらの真剣さが伝わったのか、彼女はようやく一つ頷いてくれる。俺もホッとして「分かったらそれ飲んで、今日のことは忘れて」と言った。
その瞬間、彼女は溶けかけていたホイップ増し増しのそれを一気にズゴーッ! と音を立てて飲み干し、タァンッ! と音を立ててテーブルに置くや、ズイッと俺の方に身体ごと向き直る。そして――。
「今から私が貴男に惚れた理由と経緯をプレゼンさせて頂きます」
そうやや血走った目で宣言されて、実際止める間もなく彼女のプレゼンという名の演説が始まったのだった。
***
――と、そんなことがあった日を懐かしむ今日は当時から数えて四年目。
まさかあの一年後に〝取り敢えず友達から〟が〝取り敢えず恋人で〟になり、二年後に当時契約社員として働いていた土木会社で正社員として雇用してもらい、三年後に〝そろそろ結婚しようか〟になるとは思っていなかったが、まぁ……何だかんだで俺達は破れ鍋に綴じ蓋で。
長くスランプだった彼女がまた絵を描けるようになって、休みの日は時々車に乗って海に行ったり山に行ったりして心に栄養をつけたり。その成果が実を結んで彼女が描いた絵が有名な絵画展で入賞して。
細々と絵の仕事を引き受けるようになった彼女の収入が俺の収入を上回ったり、長年彼女の思い出の痼になっていた元親友が、彼女が有名になってすぐに謝罪に来たのを俺が追い返したりもした。色々なことを体験したせいで、今でも全部が泡沫の夢だった気さえする。でも――。
「幸せですね、秀雄さん」
「ああ……俺も今同じこと考えてたよ寧々」
隣で大きく膨らんだお腹を撫でながら彼女が笑う。俺はその微笑みにつられてお腹に耳を当てた。
「ふふ、何の音が聞こえますか?」
「海の音が……命の音が聞こえるよ」
「ねぇ、聞こえた? 貴方のお父さんは詩人ですよ~」
「なんだ……今更気がついたのか」
ぽこぽこ、こぽこぽ。寄せては返す波の狭間に漂う泡の音が聞こえる。奇妙な縁で結ばれた宇宙猫とアンモナイトは、穏やかな海と陸の中間で幸せに暮らしました、で締め括れるように。これからも墓に入るまで、ずっと〝めでたし〟を重ねていきたいと思う。