☆4☆ 宇宙猫の貴方。
アルバイトから大学近くのコーポに帰ったあとは、すぐに洗面所で手洗いうがいと着替えを済ませてパソコンを立ち上げる。読み込みを待つ間もそわそわと浮わついた気分で画面を見つめ、準備が完了したのと同時に登録しているサイトに飛ぶ。
するとすぐに右上の本のアイコンに昨日アップした絵と同じ数の数字と、メールが一通入っているという表示が出てきた。
「あ……【オジサン】さん、今日はいつもより早く来てくれてる……!」
嬉しさのあまり心臓が跳ねた。震える指でマウスを動かし、アイコンとメールをタップする。増えた絵の分の承認済みのマークと、購入してくれたグッズが届いたことを教えてくれる宇宙猫のスタンプに加え、また新しくグッズ購入の依頼が届いていた。今度はボールペンだ。
「【オジサン】さん、このスタンプ好きなのかしら。可愛い。それに……今回も前回に引き続いて実用性のあるグッズなのね。社会人なのかも」
思わずにやける頬を押さえ、このご褒美タイムの祝杯用に買ってきた缶チューハイを開ける。ついでにコンビニの期間限定スイーツのイチゴシュークリームも。
「ふふ……どんな顔で開けて、どんな顔で使ってくれてるのかなー……」
独り暮らしの部屋でなら、どれだけ妄想をしていても構わない。製作者がこんな二十一歳でも【オジサン】さんは軽蔑しないでいてくれるだろうか?
でもこんな幸せを噛み締められるようになったのも、二週間ほど前からだ。それまではどうしようもなく陰気で惨めな生活を送っていたのだから。
今から四年前、私はあることがきっかけで高校三年の大事な時期に不登校になった。それでも勉強は苦手でもなかったから両親が進める大学に入ったものの、時々同性の子からは『寧々と同級生だとさ、女子力磨くのが大変だよ』と言われた。
異性からは『藤堂さん、何か困ったことあったらいつでも言いなよ』と、口では親切に言ってくれても、その視線は胸元や顔にばかり向けられて嫌だった。目を見て話してと言えない自分の気の弱さがいけないのは分かっている。でも中高一貫の女子高だったせいで男性は苦手なのだ。
でもだからといって大学の同性に親しい友人がいるわけでもなくて。大学に通うのは苦痛で仕方なかった。本当に好きなこともやりたいことも大学にはない。それでも社会に出るステータスとして大卒の肩書きが必要なことも分かっていた。両親には心配をかけたし、高い学費を出してくれることにも感謝している。
でもふとした瞬間に、不登校になった時のような兆候が私にないかを探る目が怖かった。毎日毎日、息苦しい。だけど嫌なことや悲しいことから逃げられる唯一の手段だったものが、今の私にはもうなかった。
高校時代、私は美術部で。
授業の時間以外はずっとカンバスの前に座って油絵具の匂いを嗅いでいたいくらい、絵を描くのが好きで好きで堪らなかった。そしてそこには同じくらい大好きだった親友がいたのに――……彼女は、私を裏切ったのだ。
高校生活最後の大きな展示会の目前に、彼女は私の描き上げた絵の名札を付け替えて、私の絵で大賞を受賞した。そのことを問い詰めたら、彼女は翌日から根も葉もない私の悪口を周囲の子達に触れ回って。いつの間にか嘘をついて彼女の絵を取り上げようとしたのは私ということになっていた。
あれから私の世界に絵はなくなった。何を描こうとしても何にもならない。何も表現出来ない色を塗りたくったものだけが増えた。
それでもやっぱり落ち込んで大学から帰ると何かを描きたくなって。予習と復習を終えたら毎日色をスケッチブックに塗りたくった。最初は捨てていたそれをネットの海に棄てたのは、誰かに嗤って欲しかったから。
自分では絵を描くことへの未練が捨てられないから、全然顔も知らない不特定の誰かに止めてしまえと言って欲しかったからだ。でも広いネットの海でも余程暇でもない限り、誰かが時間を割いてまで罵りに来ることはなく。
時々〝炎上〟している人達は、やっぱりどこかに何か人より光るものを持っている人が多かった。結局私は自分が他者にとって、蹴りたくなる石ころほどの価値もないのだと分かっただけだった。
自傷行為のように描いて、ネットに棄てて、アルバイトをしたお金でグッズまで作った。馬鹿みたいだと分かっているのに、それでもスケッチブックに色を塗りたくっている間はほんの少し楽しいのだ。
そんなことを始めてあっという間に今年で三年目。来年にはようやく大学を卒業出来る。どうせ誰の目にも触れていないのだから、その時になればスッパリ描くのを止めよう。そう思っていたのに――。
目の前の画面に映し出された宇宙猫の顔に和む。この人のおかげで私はまだ絵を描いても許される気がしてきた。いつか元の絵には戻れなくても、何を描いたか分かる絵くらいは描けるようになるかもしれない。
「次のグッズはマグカップとかの方が良いかしら。一応【オジサン】さんだから男性だとは思うんだけど……でももしも女性だったら可愛い色が良いわよね……」
そんな幸せな思案をしていたら、急に〝ポポポポポポポポン!〟と連続通知を報せる電子音が鳴って。サイトのバグかと思って驚いて右上のメールアイコンを見たのだけれど――……。
「え、何この注文数? やっぱりバグ?」
今日【オジサン】さん宛に届いたはずのパスケースの注文が、一気に三十を超えて、さらに回っている画像を前に慌ててサイトの運営にバグの報告メールを作成する画面にカーソルを合わせた。