其ノ六 数多の病から解放された村
奇妙な村だった。
サウジアラビア王国のルブアルハリ砂漠に位置する、地下実験場。その視察のため、砂漠の民ですら近寄らない灼熱の地に足を踏み入れて、もう5時間ほどになる。
歩き始めの頃は、ラクダの糞を一生懸命に運ぶフンコロガシや、元気に飛び跳ねまくっているトビネズミなど、生命の営みを目にすることが出来たが、今この目の前に広がるのは、地平線まで続く砂の海だけである。
と思っていると、砂丘の斜面からアラビアオリックスの角が突き出ていた。即座に駆け寄り周囲を掘り返すと、完全な全身のミイラが姿を現した。
これは珍しい。この辺りでは既に絶滅しているはずなので、それなりに昔に死んだのだと思われる。それが乾いた空気と強烈な日光によって、自然にミイラ化したものに違いない。腐りやすい内臓は狐にでも喰われたのだろうか。
用事が済んだら、絶対に持って帰ろう。
ミイラを誰かに盗られないよう角まで含めて砂に埋め直し、再び目的地を目指して歩いていく。夏は終わったとは言え、日中はまだまだ暑い。もう近くまで来ているはずだが、目印はどこか……お、あった。巨大な砂丘の頂上に、電話ボックスの様なものが見えている。あれが入口だ。
そこへ向かう途中には、青い球があちこちに落ちている。これは、コロコロと自走する小型の太陽光発電所であり、電気をマイクロ波に変換して送り出す。マイクロ波は地上の数ヶ所に設置されたアンテナで受け取られ、再び電気に変換されてから、砂中の送電ケーブルを通って実験場へと送られる。
ようやく入口に到着した。個人認証の装置に体を近付け、指紋や網膜、虹彩などを読み取らせる。私個人が特定され、ブシュッと音を立ててドアが開いた。中に入るとそこはエレベーターになっていて、数メートルほど下へと自動的に移される。
空調の効いた快適な空間が広がっているが、この小部屋で3日間も過ごすのかと思うと、あまり愉快な気はしない。この施設の最深部に入るには、まず、この部屋で全身を殺菌することが求められるのだ。特殊な薬液のプールに全身を沈めたり、腸内の細菌を許容されるものだけにするクソ不味い食事を食べたりして、72時間を過ごさねばならない。
殺菌が済むと1つ下のフロアに移動となる。気圧が少しだけ高いのが肌でも分かった。最深部に外気を流入させないために、下のフロアに進むほど気圧が少しずつ高くなっているのだ。外に向かってだけ空気が流れる仕組みとも言える。
このフロアから、レヴェルAの化学防護服を着ることになる。バイオテロの時などにも使われるものだが、この場合は、病原体を私から施設内へと広げないことを目的としている。あんなに殺菌をさせられたのに、だ。
こんな具合に次々と処置を受け、合計で6つの前室を経たところで、ようやく最深部のエリアに入ることが出来た。地上の入口に着いてから、もう1週間にもなる。
私が視察に入る時間は伝わっていたらしく、13人の子供たちと、先生と呼ばれる青年が出迎えてくれた。全員がインド系の人種なようである。
「Welcome to our village!」
先生がそう言うと、子供たちも復唱してくれた。しかし、その目は怪しい者を見る感じである。ここは来訪者というだけでも珍しいのに、それが全身を防護スーツで覆っているのだから無理もないか。
子供たちは先生が遊びに戻っていいと言うと、わっと一斉に駆け出していった。1人残った先生がここの案内をしてくれる。
この実験場は、太陽光発電だけで生活に必要な全エネルギーを確保して、閉鎖的な空間の中で衣食住の全てを完結させられるジオフロント…というよりは、ビオトープの開発を目的として作られた。いずれは都市の規模で実行するためのプロトタイプとも言えよう。
サウジアラビアの国営施設にはなるが、技術的な支援を隣国のドバイが行っている。そこに我々も協力しているというわけだ。
直径300メートルにもなる球形の空間であり、下半分は土で満たされている。上半分は昼夜なく人工的な光で照らされていて、日本の春くらいの温度と湿度に保たれている。
中央部には湧き水があり、これが飲み水として使われる。水は西に向かって流れていき、魚やエビ、カニ、貝などが豊富な小川となっている。そして、球形の空間の壁に近付くにつれ徐々に地面に染み込んでいき、最終的には消えてしまう。
伏流した水は地下水脈となって地中を循環し、再び中央部から湧き出してくる。この水脈の流れを操作することで、その地上部に特定の植物を生やしている。地中に水が多ければ稲を育てる水田に、そこそこであれば野菜やスパイスの畑に、少なめであれば羊のための牧草地に、といった具合だ。
家畜は羊の他には鶏がいる。どちらも特定の病原体が存在しない、つまりSPFの状態である。ここのSPFは、病気の原因になるウイルス、細菌、寄生虫などがゼロの設定で、生肉で食べたとしても問題ないくらいだ。
「Here is our house!」
唯一の目立った人工物は、彼らの住まいである。とは言っても、幾つかある部屋は簡素なものであり、寝室にはベッドがあるだけ、居間には机とコップがあるだけと、物というものはほとんど置かれていない。
トイレは循環式の流砂になっていて、水洗式ならぬ砂洗式だ。トイレットペーパーの代わりも砂であるが、排泄物を取り除かれた砂が流砂のサイドから供給され続けているので、清潔さは保たれている。
排泄物は分解され肥料として地下水脈に放出される。ここの住人の腸内には、健康を害する細菌や寄生虫など存在しないので、衛生面での問題は皆無となっている。
この家、というか建造物の最大の特徴は、東側の壁に面して存在する、ローマの真実の口にやや似た物作り装置である。
通称を創造の口とされるこれは、大きく口を開いた感じに穴が空いている。この穴に、例えば綿花を入れると、その中に素材を変換する選択肢として、衣服や布団などがホログラムで表示される。望みのものを指差すと、所定の時間で作り出される。ただし、デザインはシンプルで画一的だ。
「This instrument also cooks!」
食材を入れると料理もしてくれる。先生が実演しようと、食材を集めに行ってくれた。水田からバスマティライスを、畑からクミンやクローヴなどのスパイスを、牧草地からは鶏を捕まえている。
この土地では、連作で作物が育ちにくくなる、なんてことは無い。そういった原因となるセンチュウの除去を含め、あらゆる対策がされているからだ。家畜は性質を遺伝子レヴェルで操作されていて、畑を荒らすようなことはしないし、捕獲されても実におとなしいものだ。川の水産物たちも同様である。
つまり、ここでは人間が食料を生産する必要が無い。
5分ほどで戻ってきた先生は、集めてきた食材を創造の口にスポスポと吸わせていく。米は脱穀されないまま、鶏は生きたままである。
表示された選択肢から先生が選んだのは、チキンビリヤニであった。スパイスをたっぷりと使った、世界最高の炊き込みご飯の1つである。待つこと42分、本場のシェフが作ったような見た目の完成品が、軽快なメロディーと共に食材を入れた口から出てきた。しかし、完全に防護服で身を包んだ私には、その香りすら楽しむことは出来ない。生殺しもいいところである。
塩はどうしてるのかと尋ねると、地下水脈から回収されるとのことだ。
実演はされなかったが、この装置にはもう1つ、物作りの機能が備わっている。植物が投入されるたびに、使用されない茎や根などからセルロースが抽出され、セルロースナノファイバーにまで分解されて、装置の中に溜められていく。
これは軽くて強くて透明で、この実験場では完全にプラスチックから置き換えられている。また、セルロースを安定化するリグニンと反応させることで、木の様に加工することも可能だ。この空間では、食器や簡単なおもちゃ、小さな家具など、衣服や布団を除くほとんどの物に使われているようだ。
つまり、ここでは人間が物を作る必要が無い。
ウィークポイントとしては熱に弱いことが挙げられるが、ここでは火の使用は禁止されているので、そういう意味で不便ではないのだろう。
物が不要になっても焼却処分はされず、創造の口に戻すことでセルロースナノファイバーに還元される。また、食べ残しなどは肥料へと変換される仕組みだ。
つまり、ここではゴミは完全にリサイクルされる。
「कबड्डी कबड्डी कबड्डी कबड्डी कबड्डी कबड्डी」
発音の良いヒンディー語で、子供たちがカバディをして遊んでいる。あちらの男の子は、その様子を水彩画で描いているようだ。絵の具はターメリックなど色素を含む植物や、アラビアゴムの樹液を採集し、創造の口に入れて作っているのだろう。筆先は鶏の羽が素材だろうか。
ここでは誰も働かなくても、エネルギー、水、食料、生活用品、快適な環境が用意されており、人々は、ただ自由に時間を使えばいい。それが、子供だけで生活を出来ていることにより実証されている。
先生は働いているにはいるが、その内容は子供たちのモニタリングに過ぎず、生活の手助けではないのだ。
こういった具合に、人類を労働から解放し、趣味だけに没頭が出来る世界のプロトタイプが、この実験場なのである。しかし、これは人間の欲望を抑えてやっと成立しているものだ。例えば、甘いお菓子が食べたい、ダンジョンRPGで遊びたい、可愛い洋服を着たいなど、そういった魅力を知ってしまえば、それを求めてしまうのが人間だ。
知らないからこそ、発展を考えないからこそ、現状に満足が出来る。欲が少ないが故に満たされて満足を得やすく、満たされず不満になる可能性が低い、ということである。
ここまでが、この国の国営施設としての理念なわけだが、そこに我々はもう1つだけ、人間の欲を満たしつつ、働かずに暮らせるシステムを提供している。
そのシステムがもたらすのは、健康である。どれだけ平和で快適な環境でも、病気は不意に襲ってくる。人間の「健康でありたい」という欲求を満たすため、2種類の病の根絶がこの施設で試みられている。
このビオトープは元々の設計思想からして、病原体をシャットアウトする環境を前提としている。それ故、感染症に罹らなくすることは比較的に簡単な対応であった。
まず、妊婦の血中にウイルスなどが含まれていないことを確認する。次に体表を殺菌してから、滅菌室の中にて帝王切開で赤ちゃんを生んでもらう。
こうして生まれてくる赤ちゃんは、病原体をその身に持たない状態であり、言ってみればSPFということになる。通常ならば、母親の体液や外の空気などから瞬く間に感染が進んでしまうが、それを防いでいるわけだ。ウイルス対策していないPCをネットに接続しない対応に似ている。
その赤ちゃんはこの施設で育てられ、感染症とは無縁の生活が約束されるのだが、それは、決して無菌的な環境で育てられるということではない。
ここの土の中にも人体に害の無い細菌は住んでいるし、有益な腸内細菌は授乳の時に与えられている。ある種の細菌たちは既に人体の一部みたいなものなので、それらを取り除くことは健康にとって逆効果になってしまうのだ。
このSPFな赤ちゃんは、感染症に加えて、遺伝子が関わる病気についても徹底的な対策がされている。
受精卵に対してゲノム編集をすることで、病気の原因になる遺伝子変異を全て正常な状態に変換してあるのだ。そのため、遺伝病が発症することも無い。病気に罹りやすい体質になってしまう変異も取り除いているので、健康であり続けられるポテンシャルは相当に高い。
ここでの食事は全て創造の口が作るわけだが、そのメニューはどれも人体の健康が意識されたものであり、これも病気からの解放に役立っている。
あの子供たちが病気になるのは、老化に伴って患うことになる、ガンが初になるのかも知れない。直近で考えると、病気よりも骨折などケガのリスクの方が高いだろう。その場合は先生が手当てをしてくれる。健康状態のモニタリングの一環である。
こういった対応によって、この実験場では、現在のところ感染症と遺伝病だけでなく、食中毒や生活習慣病などあらゆる病気が観察されていない。
しかし、生物というのは油断が出来ない。今は無害な細菌も、次の瞬間には病原性を獲得しているかも知れない。子供たちの遺伝子も、今この瞬間に、何らかの病気を引き起こす変異を生じているかも知れない。
病から完全に解放された世界などというのは存在し得ず、常に状況に対応しなければならないのだ。
この施設の様に健康を確保する試みには、あらゆる病原体を無力化し、あらゆる遺伝子変異を解消する、医療用ナノマシンを用いた対応もとり得るだろう。しかしそれにしても、新たな病に対する情報のアップデートは求められるはずだ。
そもそも、生物に本来的に備わっているシステムとしては、多様性の維持こそが求められる。どんなに遺伝的に優れた集団でも、同じ遺伝子セットばかりであれば、たった1種類のウイルスによって全滅することもある。貧血になってしまう遺伝子変異が、恐ろしいマラリア原虫に対しては有利に働く、なんてケースもある。
結局のところ、人間には全ての状況について予測することも、事前に対応することも不可能である。それだからこそ、あらゆる変化に誰かは対応が出来るよう、多様性というものが重視されるわけだ。
この施設はそこまでは踏み込んでおらず、あくまで単純化した実験の場であることを忘れてはならない。
さて、視察は終わったことだし、防護スーツ内の酸素もあと2時間ほどで尽きてしまう。それに、このままでは食事もトイレも無理なので、早く外に出てしまおう。
先生にだけ軽く声をかけてから、南側にある上りエレベーターで地上に向かう。こちらも6つの前室を通る必要があるが、入る時と違って、外に出る分には1時間と少しかかるくらいだ。
1週間ぶりに見る外の景色は、一面の空を埋め尽くす無数の星々であった。新月の夜ということもあり、天の川の輝きも凄まじいものがある。都市から離れていることに加え、砂漠の乾燥した空気がここまで美しく見せてくれるのだろう。
私は星明かりが照らす砂の中から、アラビアオリックスのミイラを回収し、満点の星空を見上げながらこの標本を運び始めた。太陽が出てくる前にはベドウィンの集落まで戻って、ラクダの乳でも飲みたいものである。
こうして世界を自分の足で巡り、自分の目で確かめたいというのも欲望だよなと思いながら、私は次の村へと歩みを進めた。